2015年2月28日土曜日

「ユルイ」を少し推敲した

「症候群」に敢えて反論するならば・・・
一つには、解説者の多重人格の捉え方に端的に表れている問題がある。「自分が多重人格だと装っているのではなく、そう思い込む」(解説文)というのはどのような現象だろうか? 一種の錯誤、勘違いなのだろうか? たとえば自分を統合失調症であると「装っているのではなく、そう思い込む」人なら、そうでない理由をきちんと説明することでその誤った考えを捨てることが出来るかもしれない。そこには理路整然とした説明が功を奏するだろう。とすれば解説者もそうすればいいだけのことであろう。ところが彼はそのような訴えについては相手にせず、そっけなく向き合うだけであるという。統合失調症と勘違いしている人にもそうするだろうか? 
 「装っているのではなく、そう思い込む」状態について理解しようとすると、結局一つの結論に至る。それはそのような状態は、存在するならおそらく妄想に最も近いということである。そうならばそれを否定することも、それに乗ることも逆効果ということになる。それこそ素っ気ない態度をとることになろう。しかし解説者ははDIDを妄想とは考えていないようである。DIDと統合失調症などの精神病とは異なる病態であるという理解はあるからだ。
 結局ここでいう「思い込み」を精神医学的に把握するのは難しい。虚言でもないし妄想でもなく、また無視することで自然と消えていくような思考。
実は同じような論法が「新型うつ」にもみられる。新型うつの人は、自分がうつだと「思い込む」けれど、本当のうつではない。そしてうつの診断書を作成したり薬物を投与したりすることでますますややこしくなるから、医師としては「そっけない態度」を取るのがいいであろう、というわけである(この議論については拙書「恥と自己愛トラウマ」(岩崎学術出版社、2014年)にも記した)。岡野:「恥と自己愛トラウマ」岩崎学術出版社、2014
 ただしこのようなことを書くとまた色々議論がややこしくなる。「新型うつとDIDを一緒にするとは何事か!」という人が出てくる。そのような人の話を聞くと、DIDは正真正銘の病気だが、新型うつは偽物だ、という主張をする人と、それと真逆の立場をとる人がいるはずだ。ただし私の眼には似たもののように映る。
しかしもう一つの問題はより本質的と思われる。私はおそらく多くの「見事な多重人格」に出会っているが、彼女たちの大半は、症状により自己アピールをする人たちとは程遠いということだ。彼女たちの多くは解離症状や人格交代について自分でも把握していない。単に時々記憶がなくなる、一人でいても声が聞こえる、という体験でしかなく、時々異なる話し方や記憶を持つ人としてふるまうということを、他人に指摘されてわかる。そして多くはそのことを他人にはできるだけ隠そうとするのだ。なぜなら彼女たちは他人から「おかしい」と思われることを非常に恐れるからである。どうしてそのような人たちが症状を「アピール」していると言えるのだろうか?解説者の先生の持つDIDはこのように、かなり深刻な誤解や誤謬に満ちている。そして私にはそれが単なる学問上の立場の違いとは思えない。おそらく深い偏見や差別心に根差しているような気がする。これはもう、そのように感じられるものだ。理屈ではないのかもしれない。
人は差別心を多く持つ。私も自分が差別的な傾向を持つことを自覚する。「□□の人たちはちょっと…」の○○の中に該当する人たちが私にもいる。そして多くに人たちがDIDの患者さんたちを○○の彼なりのバージョンに入れてしまっているように感じる。残念なことである。
ただしこの問題を複雑にしている問題があることを私は心得ているつもりである。一つは解離に興味を持ち、「解離になりたい」という一部の方々の存在である。私自身は実は会ったことがないのであるが、解離に興味を持ち、そのような症状を持ってみたいという願望や空想を持つ人は少なからずいるということを、患者さんたちから聞くことがある。私は「解離にはなりたいと思っても簡単にはなれない」という立場である。「解離になりたい」人たちは「解離になりたい」けれどもそうではない人のままのはずだ。しかしそのような人たちの存在が、実際の解離を持つ人たちの信憑性を減じることにつながるとしたら、それも非常に困った問題であると考える。
もう一つは解離の患者さんの持つ、説得に対する受け身性である。あるDIDの患者さんはこういった。「私は時々、自分が人格のふりをしているのではないか、自分は甘えではないかと心配になるのです。」しかし私は彼女の主治医として、その人格部分の出現の仕方が決して「演技」ではないことがわかっているつもりである。ただ自責の念が強く、後ろめたさにとらわれやすい彼女たちが、「解離否認症候群」にかかってしまうとしたら…。それは解離否認派の臨床家を援護してしまうことになりかねない。これは嘆息すべき事態である。


2015年2月27日金曜日

子供の人格部分の扱い方の一部を推敲した

いわゆる「出癖(でぐせ)」について
子供の人格部分の「定着」を促進するべきか、回避するべきかは、相対的な問題である。つまりそれはケースバイケースであり、それが良いことか悪いことかは単純には決められないだろう。Aさんの子供の人格部分Aちゃんが、恋人であるBさんと一緒の時に出現することが多くなっている、という同じケースについて考える。それが是か否かは、実はAさんとBさんとの関係だけでなく、Aさんの生活全体を見なくては判断できないことなのだ。
  たとえばAさんがパートで本屋さんに勤めているとしよう。週3回、勤務時間は8時間だ。仕事は大体Aさんにはこなせる範囲だが、週末に客がたくさん訪れたり、クレームを付けるお客さんが現れたりすると、Aさんのキャパシティを超える緊急事態となることもある。Aさんは通常は一生懸命大人の人格で仕事をこなすが、そのような緊急事態では、時々意識や記憶が飛んでしまい、Aちゃんの人格が出現するというようなことが起きるようになったとする。
 Aさんのパート先でこのようなAちゃんの振る舞いがますます起き、それが明らかにBさんとの付き合いによりで触発されているとしたら、つまりBさんといることで明らかにAさんが出やすくなり、つまり「出癖」がついてAさんの仕事の害になっているとしたら、これは問題ということになろう。その場合はBさんとの間でAちゃんの出現を抑制するような何らかの手段を講じることでさえ必要になるかもしれない。

ただしこのような形でパート先で出始めたAちゃんがその後どのようにふるまうようになるかは、かなりケースバイケースである。そのうちAちゃんが年齢的に成長し、パートの仕事にも適応し、Aさんの役割をとってかわってしまう場合もありうる。また周囲がAちゃんをたしなめることにより、AちゃんはBさんとの間では出続けていても、逆に仕事中は抑制されて出にくくなる場合もあろう。
 私の臨床経験から言えば、AちゃんがどんどんAさんのパートの仕事を圧迫するというようなことは皆無ではないにしても、かなり少ないように思う。私個人としてはそれを体験してはいない。AちゃんがBさんの前で「出癖」が付くことはよくあることだが、仕事にまでそれが侵食することは少ないようだ。そのような印象があるからこそ、Bさんの前でAちゃんがより多く出るようになってきているという話を聞いても、急いでそれをとめたりはしないのである。それに万が一Aちゃんが仕事の「邪魔」をすることが多くなったとしても、それはおそらく治療者やBさんがAちゃんとそのことについてまず話してみる段階であろうし、それはAちゃんにおとなしく寝てもらうよりは積極的な治療的介入といえる。
 ただしここで一言注釈を加えておきたい。恋人や治療者の存在が子供の人格部分の出癖を生む場合、それがいわゆる「悪性の退行」を呈する場合がある。AさんがBさんと付き合うようになってから非常に我儘にふるまう人格Aちゃんが出てBさんを疲弊させる、ただし両親の前ではAさんはいつものようにふるまうということが生じる場合がある。その際はAさんがBさんと付き合うという環境そのものが退行促進的であり、本人もそれを止めることが出来ない場合が多い。もし同様のことがAさんと治療者との間で生じている場合には、治療の継続そのものを再考しなくてはならないであろう。しかしBさんがAさんにとって大切なパートナーである場合には、その関係を絶つという選択はそれほど簡単には取れないであろう。しかし長期的に見た場合にはAさんとBさんと安定した関係を築けないであろうという可能性もある。そしてももちろんこの注釈に関しては、これは解離性障害の患者さんにとってのみいえることではない。境界パーソナリテイ傾向を持つ人とパートナーとの関係一般に言えることである。

2015年2月26日木曜日

11章 「再固定化療法を用いた治療」の一部(採録)

一日雨、は気が滅入るね。

例えば3で紹介したケースDを思い出していただきたい。20代後半の女性で、閉所恐怖症があり、車に乗っていて渋滞に巻き込まれると、胸のあたりがざわざわしてくる、というあのケースだ。Dさんの場合の治療者は、その状況を思い出してもらい、そこでイメージの中で新たな行動に出てもらうことでその記憶の再固定化につなげたのである。もちろんDさんに解離性障害はないし、渋滞に巻き込まれたことを想像したときに胸がざわついてきたDさんは人格部分ではない。しかしそれはトラウマの再現であり、それを体験しているDさんはいつもとは異なる心の在り方をしていたことも確かである。そしてこのような手法を、DIDにおいて傷つきを体験している人格部分についても、同じように応用することができる可能性があるのだ。
 ここであるDIDの患者Aさんを考え、そのトラウマを負った子供の人格Aちゃんを考える。Aちゃんは幼少時に野犬に襲われて瀕死の重傷を負ったという想定にしよう。するとその人格が出て反しているときにそれを想起してもらい、Aちゃんが「こうすればよかった」というイメージを浮かべ、さらには実行したつもりになってもらうという作業がもし可能であれば、それは再固定化につながる可能性がある。たとえばその犬に対して突然魔法の剣を取り出して斬り捨てる、ドラえもんに登場してもらい、撃退してもらうなどでもいいであろう。
 このようなプロセスの際、そのような作業を行うためにAちゃんを呼び出すか否か、という問題があるが、もちろんAちゃんが「寝た子」である場合には、それを「揺り起こす」必要はないであろう。その外傷記憶は再固定を待つまでもなく将来呼び出されない可能性があり、その場合に新たに呼び起こすことは治療的とは言えないからだ。

2015年2月25日水曜日

第12章 「再固定化療法を用いた治療」を少し推敲した

解離における『抑制』の問題。フクザツだ・・・・

本章では解離とTRPの関係について考える。本書の主たるテーマは解離性障害であり、第3,4章で論じたTRPについても、それが解離の治療に役立てる事が出来るかどうかについての検討のための準備であった。
 記憶の改編や再固定化について論じた後に解離性障害について考えると、改めて解離という現象の不思議さを感じる。ABという、互いに健忘障壁のある(つまりお互いに相手の行動を覚えていない)人格部分について、それに相当する神経ネットワークABを考えてみる。Aの活動にはネットワークAの興奮が、Bの活動にはネットワークBの活動が関与しているとするのだ。すると常にこの二つはその人の中で頻繁に興奮しているはずなのに、この二つがつながらず、共鳴もしないという現象が起きていることになる。あたかもつながる機会がありながらわざとつながろうとしない二つのネットワーク群、という印象を受けるのである。
 このABの疎通性の欠如はおそらくABの間にシナプスの形成が行われていないという状況とだけではないのではないかと私は考える。Aが興奮しているとき、Bが抑制される、という機制が生じているのではないか。そうでない限り、人格間のスイッチングは起きないのではないかと思う。そう、思考ないし記憶の神経ネットワーク間のつながりは、両者を結ぶ神経線維が興奮系か抑制系か、という問題も含む、実に複雑な話なのである。 
 ちなみに最近の日本の研究で、解離性の健忘の際、実際に海馬の抑制が生じているという研究がある。私たちが解離状態であることを思い出せない場合、すなわちたとえばAの人格部分がBが体験したことを想起できない場合、脳のある部分(この研究によれば前頭葉の特定の部分ということである)が、その記憶をつかさどる部位を抑えている、ということが生じているとのことだ。
 このことも私の上述の仮説を支持しているように思われる。
 すると解離の際の再固定化が目指す形は、
A
の興奮+Bの抑制 → Aの興奮+Bの抑制の解除 
という形を取ることになるのであろうか。つまりAという神経ネットワークが興奮と同時に抑制しているBの抑制を除去するということである。このことは例えば、Aという記憶がBという「ネガティブな記憶」を伴っていると考えてもいい。ここでいうネガティブな記憶とは、想起できない記憶 disremembered memory という意味である。 

2015年2月24日火曜日

第8章の一部を書き換えた


他の特定される解離性障害(以下、OSDDと略記しよう)には、1 混合性解離症の慢性および反復性症候群、2 長期および集中的な威圧的説得による同一性の混乱、3 ストレスの強い出来事に対する急性解離反応 4 解離性トランスの4つが属する。
 そのうち4の解離性トランスについては次のように記載されている。「この状態は直接接している環境に対する認識の急性の狭窄化または完全な欠損によつて特徴づけられ,環境刺激への著明な無反応性または無感覚として現れる。無反応性には、軽微な常同的行動(:指運動)を伴うことがあるが、一過性の麻痺または意識消失と同様に,これにその人は気づかず、および/または制御することもできない。解離性トランスは広く受け入れられている集団的文化習慣または宗教的慣習の正常な一部分ではない。」と説明されている。
(5)特定不能の解離症/解離性障害 unspeficied dissosiative disorder
 文字通り、以上のどれにも分類することが出来ない解離性障害ということになる。これについては何ら「例」は示されていない。
ちなみにこれまでのDSM1980年のDSM-IIIから2000年のDSM-IV-TRまで)に存在していたDDNOS(ほかに特定されない解離性障害)DSM-5では消えていることに当惑をしている臨床家も少なくないであろう。解離性障害では漠然と理解できるが、その具体的な確定診断には至らない際に、比較的頻繁に臨床家の間で用いられていたのがこのNOS診断だったからだ。そのNOSが消えて、そのかわりODSSUDD(ほかに分類されない解離性障害)が登場したわけである。この変更は、従来DDNOSがあまりに頻繁に使用されてきたことへの反省から生まれたことは容易に想像できる。確かに多くの解離性障害がいわば「ゴミ箱」的な存在(言葉は悪いが)であるNOSに含まれてしまうことは分類上問題であることも確かである。この「ゴミ箱満杯問題」は、DSM-5で解決するのであろうか。

ここでDDNOSに列挙されていたものを思い出そう。そこには「例」として、1DIDの不全型(明確に区別されるパーソナリティ状態が存在しない、重要な個人的情報に関する健忘が生じていない)、2.離人症を伴わない現実感喪失 3長期間にわたる強力で威圧的な説得、4.解離性トランス障害などが挙げられていた。このうち特に問題となっていた、1DIDの不全型については、上記のようにその禁断基準が緩められたことで、以前はここに入り込んでいたケースの多くがDIDとして診断を下される可能性があろう。また2についても、そこに該当していたケースが今回新たに創設された「離人・現実感喪失障害」に組み込まれる可能性がある。また形式上はDDNOSに相当するUDDについては、そこに特に「例」を示さないことで、あたかも分類不能なケースをあまり引き寄せないような配慮ともいえるであろう。これがDSM-5作成チームの望むような結果を生むかは、今後書く臨床家がDSM-5をどのように活用するかにかかってくるといえるだろう。

2015年2月23日月曜日

研修医時代の思い出(最終稿) 

      
     

精神科の研修時代の記憶をたどると、何人かの女性の患者さんたちの顔が浮かぶ。

<長い中略>

 その後私はアメリカではるかに体格のいい患者たちと、病棟や保護室での緊迫した状況で向き合うことになったが、日本での研修医としての体験は何らかの助けになっていたような気がする。

2015年2月22日日曜日

恩師論(推敲) (7、最終)

今日は東京マラソン。石原さんの置き土産。テロが起きずに、本当に良かった。


恩師論の推敲。今回はマイナーチェンジっだけだ。

世代形成性との関係
エリクソンの発達段階の第6段階に出てくる世代形成性generativity は、彼が定式化した人生の発達段階のうち第7段階の「成年期」における「世代形成性VS停滞」に出てくるタームだ。Generativityという英語は、古くは「生殖性」という訳が使われたが、最近では「次世代育成能力」とか「次世代の価値を生み出す行為に積極的にかかわって行くこと」などの表現がなされている。私は故・小此木啓吾先生が用いていた「世代形成性」という訳語が好きだ。そしてその小此木先生も世代形成性をとてもよく発揮なさった方だった。(小此木先生と言っても若い人には通じにくくなっているのだろうか?彼は2003年に亡くなったが、現在の日本の精神分析を育てた大先生である。)
 小此木先生はとにかく若い世代の分析家の卵たちに、海外に出て勉強をすることを勧め、またその話をよく聞いてくれた。私もそうしてもらった一人であった。なんだ、それが言いたかったのか?
 ともかくも世代形成性を身をもって示した小此木先生は、常に若手をかわいがり、育てることを考えてくれていた。(と、少なくとも私の目には映った。)これについてはもちろん色々な人が異論を持つだろう。「小此木先生は若手の知識を吸い取り、結局は自分の引き出しに入れてしまう人だった」という話も少なからず聞いた。ただそれは少し違うと思う。先生は例えばA先生という若手が勉強したテーマについて興味を持って話を聞き、それを人に紹介するときにも、あくまでも「A君がこのような理論を勉強して伝えようとしている」という言い方をしてくれた。A君としては、偉大な小此木先生にそのような紹介のされ方をすることにとても満足するのが普通だ。ただA君はそれから何となく小此木スクールに属することを期待されるのである。小此木先生に頻繁に呼ばれ、時には彼のスーパービジョンを受けることを期待される。つまり小此木先生はA先生を手元に置きたがる。要するにさびしがり屋なところがあった。
 でもここで少し考えてみよう。弟子を育てることに熱心で、しかも弟子をそばに置くことに興味のない恩師なんているだろうか?それはいるかもしれないが、希少価値だろう。
故人について誤解を与えるようなことは書きたくないから、ここからは一般論だ。人が世代形成性を発揮するのは、おそらく人生の後半であろう。だからエリクソンの発達段階でも、最後から二番目の、つまり第7段階目の成年期の課題ということになる。若いころは自分が成長するのに忙しく、後輩のことなどかまっていられないからだ。そして自分自身に蓄積が出来、若手に対してライバル心や羨望にさいなまれることなく、その力をさらに引き出し、その成長を楽しむ事が出来る。もしそれが世代形成性だとすると、その人に余裕があり、自身があるということは必須なことのように思われる。自分に自信のない人間に次世代を形成する力はあまり期待できないであろうし、そのもとに集まる人も少ないということになるだろう。
 
自分が出会いの提供者になっていく
結局世代形成者(私の造語だ!)になることとは、自分が出会いの提供者となることなのである。恩師について語るとき、最終的には自分の中の潜在的な「恩師」について考えなくてはならない。でもこう言うと誤解が生じるな。この潜在的な恩師とは、自分の中に内在化された恩師、という意味ではなく、自分が「恩師となる」ための素地や萌芽という意味である。
私は基本的には恩師的な要素と父親的な要素を重ねる傾向にあるので、世代形成性は私たちが父親になる年代には始まっている、と考えている。しかし実は次の世代を育てるという姿勢や発想は、例えば長子であること、面倒を見るべき弟や妹を持つことを通して、実は幼少時から存在していておかしくない。それを意図的に、継続的に行うという機会がより多く人生の後半に訪れるということだけである。確かに学生時代に出会った先輩たちは同じ中、高生でも同時に父親的だった。でも同時にやんちゃで勝手で子供っぽかった。K先輩(上述)も例外ではなかった。
 仏教の言葉で、往相と還相(げんそう)というのがあるらしい。私もよく知らないが、ネットで調べると、往相とは「仏になろうと精進していく道」だという。そして修業を積んで仏になったら、今度は、還相となり、 まだ仏になれいない人に手をさしのべて、一緒に仏になりましょうと働きかけるという。これまでの文脈でいえば、恩師的な要素を持つ人も、人生の前半では自分のことにより専念していい。ところが自分の地位を築き、仏になった後は(←意味の通じない文章!)むしろ後輩のことを考え、そのために力を費やすということだ。つまり恩師としての活動を行い、またそれに満足を覚えなくてはならない。
しかし、還相にある人間は仏である必要はない。出会いを提供できればいい。理想化されるべき対象である必要はないのだ。愛他性の塊である必要はない。時々後輩を導けばよい。ことさらよき師であろうと思うと、人間は必ず自分の自己愛に負けて、あるいは自分の寂しさに負けて相手を取り込み、支配しようとする。そうではなく、良き出会いを提供できた先輩は、もうそれで満足してさっさと相手に別れを告げなくてはならない(あるいはそのような覚悟を持たなくてはならない)のである。
結論
結局これまで書いていることと変わりないことだ。このテーマは与えられたものなので、私から付け加えるべき新しい視点もない。実在する恩師をことさら求めないこと。「恩師との出会いのモーメント」を求めよ。そしてそこから「バーチャルな恩師像」を作り上げるのはもちろんいい。でもそれを現実の人間に期待してはならない。ほとんど必ずほころびを発見するであろうからだ。例えば私にとってA先生はその種の出会いを作ってくれた恩師である。でもA先生は恩師そのものではない。なぜならA先生にとっては「愛弟子」の一人としては決して数えられないことを知っている。彼にとっては私は「その他大勢」の一人でしかない。

もちろんその「恩師」が身近な存在になり、実際は「頼れる先達」くらいの関係を結べるようになれば、それはそれで大変結構なことかもしれない。実際にはそのようなケースもあるのだろう。しかし「恩師」から「先輩」ないしは対等の関係への変化には多くの場合戸惑いが生じたりする。それまで理想化の対象だった人間と日常的なレベルで出会うことは、実はあまりうれしいことではなかったりする。
 精神分析では、トレーニングの時代の自分の分析家がそのうちバイザーになり、分析協会におけるインストラクターとして先輩後輩関係や同僚になったりするということは時々起きる。もちろん理想的なことではないかもしれないが、通常は分析協会自体のサイズが限られているためにいたし方のないことである。その場合も、特に非分析者の側が、関係性の変化に大きな戸惑いを体験することがある。カウチの後ろで姿が見えず、理想化の対象となっていた人と、学会に向かう飛行機で隣の席になると、やりにくいだろう。

2015年2月21日土曜日

恩師論 (推敲)(6)


恩師の教えは洗脳やパワハラと表裏一体である?
恩師論は、ここから一気に陰りを見せる、というか陰の部分の議論に移る。要するに最初から書いている、「恩師」と呼ばれる人だっていろいろ問題はあるよね、というテーマだが、この問題は私の頭の中では容易に「自己愛問題」につながる。その理由は以下の通りだ。
人が他人に及ぼす影響ということを考えた時、そこにはある一般的な原則があるようだ。
「人に影響力を及ぼす人は、同時に自己愛的で押しつけがましいことが多い。
もちろん一般論である。「ことが多い」に下線も引いてあるのは、一般化しないためだ。そう断ったうえで言えば、人の他人への影響力は、その人がどれだけ声が大きく、どれだけ自分の考えに確信を持ち、どれだけ他人にその考えを押し付けるかに多大に影響している。影響を与える人間は一般的に言えば、自己愛的な人間ということになる。この例外などほとんどであったことがない気がする。
もちろん素晴らしい理論を持ち、著作をあらわし、人間性にも優れているにもかかわらず、謙虚でつつましく、自己宣伝の全くない、そして自身のない人もいるだろう。自己愛的であることは、影響力を及ぼすための必要条件ではない。ただしその控えめな人がもう少し自信を持ち、もう少し自己表現の機会を持ったならば、さらに大きな影響力を及ぼす可能性がある。その意味で人が影響力を持つことと自己愛的であることにはかなり密接な関係があるのだ。そしてそれはとりもなおさず、弟子との間にパワハラが生じやすい可能性をも表している。ある人が恩師として慕われる一方では、一部の人たちにとってはパワハラを与える存在でもある、という可能性は、十分あるのだ。

<追加項目>
自己愛的であることが、脆弱であるという文脈でも問題になることを付け加えておこう。いくら優れた人でも自信がなかったりする。人からの批判に弱かったり、他人から追い落とされることにおびえていたりする。手塚治虫のことを考えよう。あの天才が、後を追ってくる後輩たちに異常にライバル心を燃やし、また恐れを抱いていたというではないか。

このことを出会いの文脈で考えよう。私は恩師とは往々にして理想化できる対象とはなりにくく、また全面的な理想化対象となる必要もない、という趣旨のことを述べた。理想化すべき対象を追い求めていると、人生が終わってしまう。そうではなく、自分にとって多くのものを与えてくれた人との「出会いのモーメント」があれば、それでいいという立場だ。その思い出を大切にすればいい。もっと言えば、ある出会いから多くのものを学び吸収するような自分の側の能力が大切だということになる。これは極端に言えばそこに相手からのまごころやこちらを育てたいという親心がなかったとしても、あるいは押しつけがましい自己愛的な人間でも、不足している分をこちらが補うような形で成長の糧とすることができるだろうということだ。少し書き過ぎだろうか?もう少し言葉を継げば、おそらくここで重要な意味を持つのが、その人の持っているレジリエンスなのだ。レジリエンスが高いと、ある体験を学びの機会として利用することができるのだ。
ところでこのことはまたレジリエンスが低かったり、運に恵まれなかったりする人の場合に、自己愛的な人間との間でパワハラやモラハラを受けてしまう可能性をも表している。もし自分が指導を受けるような相手との間に、ある程度の良い出会いがあり、また頻繁にパワハラめいたやり取りがあったらどうなるのだろうか? そしてそれが自分にとっての上司であったり、学問上の師であったりしたらどうだろうか? その人との縁が切れないがために、少しの恩恵と絶大なトラウマを体験することになりはしないか? 臨床を行っていると、そのようなケースにもまた出会うことになる。私は「出会い」などと悠長なことを書いたが、「その人との出会いを大事にし、理想化することをあきらめましょう」という教訓を生かせない状況にある人たちもたくさんいるだろう。それはそのような先輩、上司、教師との関係から逃れることができず、そのような人との運命共同体にある人たちもたくさんいるということだ。かくして恩師の教えはパワハラと表裏一体となりうる、というこの項目の表題につながる。
ここで小出監督とキューちゃんの話を載せよう。週刊文春に「阿川佐和子のこの人に会いたい」という企画があるが、その342回目(2000年)の記事をとってある。わりと理想的な師弟関係。「高橋は(タイムが)遅かったから、最初に『お前は今に世界一になるよ』と言ったら『えーっ!?』なんて意外な顔していた。ところがそれを毎日言いつけてみな。『ほんとかな』って首をかしげるようになるんですよ。そこでもっと『お前は強くなる!』っていうとね、『よし頑張ってみよう』という気持ちが目を出してくる。その芽を摘んじゃいけないんですよ。子供だって同じだよ。」と書いてあり、私が印をつけてある。
 ところがそれと一緒に保存してあるのが、「噂の真相」の記事。(懐かしいな。噂の真相。時々買っていた。)「国民栄誉賞をもらったシドニーの英雄高橋尚子と小出義雄監督の●●関係」というもの。(200012月だ。14年前の記事をよく取ってあるものだ。実はPDF化してあった。)これは師弟関係にいろいろ考えさせられた。という過去の題名をこうやって打っていると、この先に行くのが嫌になるな。醜聞に属する話だ。(●●は私が施した伏字である。)しかしこの恩師論の流れから行くと出てくるテーマ、すなわち師弟関係トバウンダリー(境界)の問題、ないしはパワハラの問題である。ということで記事を再度読み始める。ウーン・・・・・・・・・・・・・。やはりこれは問題だ。というより詳しくは書けないや。いろいろな人が傷つくだろう。ということで一般論。

どうやらアスリートとコーチや監督の関係には、「一心同体」ということがよくあるらしい。そうじゃないとコーチが務まらないというところまであり、だからコーチは一人しかできないという常識のようなものもあるそうだ。いっそに暮らし、一緒に風呂に入り、一緒に生活をする。問題のK監督はと言えば、そのような形で選手とズブズブの関係にあり、しかも過去には明白なセクハラもあったという。

2015年2月20日金曜日

恩師論(推敲)(5)


さて2.は直接の勇気づけ、であった。これも書かなくちゃね。恩師的な出会いについて考える際、どうしても出てくるのがDr.Mである。前回は書かなかったけどね。
1993年、メニンガーの精神科レジデントを卒業し、いよいよビザが切れて帰国を余儀なくされていた時期だ。私はトピーカ州立病院の医長に会う前で少し緊張していた。私がビザを延長するためには、州立病院で「どうしてもこの医者が必要である」という類の手紙を書いてもらう必要があったのだ。いきなり初対面の、それもレジデントを終えたばかりの私に、そんな手紙を書いてくれるはずもないだろう、とむしろ諦めの境地で、ともかくもDr.Mに面会を申し込んだのだ。州立病院の医長職にある人物ってどんなだろう?きっと怖いだろうな、しかつめらしい顔をして、「そんな虫のいい話しを私が聞くと思うか!」などと傲慢な態度で一蹴されて終わりだろうな、などと考えながら。メキシコ出身ということだが、言葉が聞き取れなかったらどうしようなどと考えていた。そこに秘書から「ドクターMがお待ちです」と声がかかった・・・。それから約一時間後、部屋から出てきた私は、一時間前にはおよそ想像できないような気持ちになっていた。誰かにしっかり話を聞いてもらい、私の窮状を理解してもらい、私の思春期病遠出のポストを確約して、その旨の手紙を書いてくれると約束してくれたのである。全く予想していなかった出来事。人との出会いが何をもたらし得るのか。私もこんな風に人の話しが聞けるようになりたい・・・・・。
実際あってみたDr.Mは私より三つ年上の精神科医、メニンガーでの先輩に当たる。同じ外国人のレジデントとして苦労をした話をしてくれ、私の立場にも大変同情してくれた。彼自身もビザの問題でメキシコに数年間帰国していなくてはならなかったという。そしてつい最近トピーカに戻り、州立病院の医長としての職を得たという。
Dr.Mのことを書いてみると、単なる勇気づけではないという気がしてきた。というのも私はこう書いてみると、やはりD.HDMが自分に「入っている」ように思う。彼らは人と話すとはどういうことなのかを示してくれた。Dr.Mについて言えば、私は彼の私への話しかたが特別であったかとか、実に立派な傾聴の姿勢を示してくれたとか、ということに感動したというわけではない。そうではなくて、彼が私を普通の人間として、温かく、そして普通に、対等に話してくれたのである。ちょうどたとえば異国であった同朋人のように。あるいは知り合いの知り合いということで相談を受けた人に話すように。立場の違いからくる居丈高さとか上から目線とかのない、普通の話し方。私はその時、今後臨床をするうえで、どのような人とも、普通に話せるようになりたいと思った。相手が目上でも、年下でも、著名人でも、患者の立場でも、生徒の立場でも、である。人として普通に話し、しかも助けとなることを目指すこと。それ以外に人との話し方に関する技法とか秘密はない。Dr.Mはあの一時間でそんなことを教えてくれた。その後彼は私の中で一生消えない友人であり、メンターでありつづけている。
子安先輩の思い出は脱線気味だったが、出会いのメカニズムの一つは結局モデリングだね、という話だ。そしてもう一つが勇気づけである。数日前に紹介した岡村氏のエッセイにもあった。「君ならきっとできるよ」、と言われる。自身はないけれどやってみると出来るのである。そうすると背中を押してくれた先輩との出会いは貴重なものになる。 しかしこれは一歩間違うと無茶ブリになってしまう可能性もあるのだ。
 
私も時々学生さんに「~をしてみたら?」と提案することがある。「~してくれる?」というトーンの時もある。場合によってはこちらの提案は学生にとっての命令に聞こえることもあるだろう。すると学生は「わかりました。」と言いながらも「これって無茶ブリじゃない?」と思うのかもしれない。本当にそうなのか? これは場合によるだろう。
 ある仕事を学生さんにお願いする。それはその人にとっておそらく扱うことが可能だと考えている。これをしてもらえると自分は助かる。そしておそらく彼(女)にとってもその経験が勉強になるだろうと考えるのであれば、それは私にとっても学生にとってもいい体験になるだろう。Win-win というわけだ。ところが私が学生のキャパや都合を考えないでそれを頼んだとする。学生には無茶ブリ、完全に私の側の都合、場合によってはパワハラと認識するかもしれない。とすると恩師による「背中押し」は危険な賭け、エゴの押しつけにもなりうることになる。恩師、先輩の側の良識が問われるということか。
たまたま岡村氏の例が、ピアノが弾けない先生の話だった。その場合の背中押しはその先生にとっても都合がいいという事情があった。しかしたとえばコーチングとか、教育の場合には「~したらどう?」は理解を含まない、より教わる側にとっての利益を考えた指導やアドバイスとなるだろう。私たちは後輩、初心者の振る舞いや仕草を見ていて、ごく純粋に「ああ、~すればいいのに…」と感じることがある。余計なところに力が入っていたり、大事なことが抜け落ちたりするのを見るのはイライラするし、それを訂正することでスキルが向上するのを見るのは心地よい。だから家庭でも教育現場でも部活動でも、職場研修でも、フォーマルな形で、あるいはインフォーマルな形で、アドバイスや指導はありとあらゆる形で行われているだろう。人と人との会話をすべてモニターできたら、そのうちのかなりの部分が一方から他方に対するアドバイスや指導や提案の形をとっている可能性がある。
 ところだそれらのアドバイスや指導の中には、全く見当はずれなものがある。それはアドバイスをする側にとっては簡単なことに思えることが、される側にとっては全くの至難だったりすることがしばしばあり、しかも前者にとってはその事情が全くくみ取れないからだ。人間はことごとく自分を尺度に考える傾向にある。朝は決まった時間に起きるということが少しも問題なく行われている大人にとっては、目覚ましを何度もかけても起きない息子や娘の苦労は分かりにくい。「どうして人間として当たり前のことが出来ないの?」という小言は、親の側の全くの無理解の表れとして子供に受け取られる可能性がある。だから先ほどの人と人との会話のうちのアドバイスの部分は、ほとんどが不発に終わっていることになる。それはそうだろう。人が大人しく他人のアドバイスを聞き入れて行動を改善できていれば、これほど平和なことはない。しかしアドバイスの大部分は一方的な押し付けの形をとるのである。
 その中でたまたま言われた側の心に響くものがある。それに従ってみようという気持ちになる。それはおそらくは偶然の産物なのだろう。
ルイ・アームストロングが施設のブラスパンドでたまたま与えられたコルネットに出会う。そこから彼の人生が変わっていく。彼にトランペットを手渡した人は、彼にとっての恩師ということになろう。しかし彼は単にトランペットの要因が足りなかったから薦めただけかもしれない。
 結局何が言いたいのか。出会いにおける背中押しも、かなり偶然の産物に近いということである。
ところで結局は「出会い」のメカニズムのもう一としての勇気づけ、ということが残っている。あなたは大丈夫だよ、やれるよ、という種のメッセージを貰うこと。人は他者からの勇気づけを渇望しているところがある。自分で自分を鼓舞することでは決して得られない勇気や自信を誰かに伝えられること。
私はいつも不思議に思うのだが、全然見ず知らずの他人の一言が影響を与えるのだ。「あなたの講演を聞きました、本を読みました、よかったです」、というほんの一言のメッセージは、それが時には自分が全く知らない人からの方が意味を持ったりするのはなぜだろうか? もちろん知っている人からのメッセージがありがたいこともある。本当に自分を知っている人から評価されたい。しかし家人に勇気づけられてもあまりピンとこないことがあるとしたら、それはなぜなのだろう。(まあ、実際にそうされたことも思い出せないのだが。)だからこれはやはり出会いなのだ。見知らぬ誰かからいわれた一言が決定的な影響を与えることがある。それは恩師というわけでは必ずしもないだろう。街の占い師かもしれない。

まあ「恩師論」だからそちらに話を戻すと、私にもそのような体験がある。あの時あの場面で、あの恩師からいわれたこと。20年も前のことだ。それを何度も反芻している。そして「よし、やれるぞ」と思う。これは一生の宝物のようなものだ。しかしこれはあまりにプライベートなことなので書けない。書くと「減って」しまうような気もする。そしてこれもまた重要なメカニズムにカウントするべきであろう。

2015年2月19日木曜日

恩師論 (推敲)(4)


「出会い」のメカニズム

「出会い」のメカニズム、などと書くと、「出会い」は一つの欠くべからざる性質を持っていて…・ということになりそうだが、そうではなく、いくつかの要素を持った複合的なものなのだ、という議論になる。これは仕方がないだろう。治療における「出会いのモーメント」と、そこの部分は同じになってしまうのだ。Gファクターの議論とも似ている。私はそこに含まれる二つの要素に注目したい。
1. 目の前であることを実演してもらうことのインパクト
2. その人に直接支持、勇気づけ、あるいは叱責を受けることのインパクト
人間は関係性の中で途轍もない刺激を受ける。もちろん著書を読んで、影響を受けるということもあるが、その人が身近にいて言葉を発することで、その影響力は倍増する。どうしてだろう?ミラーニューロンがそれだけ活動するからか?ただし・・・・その人と長く一緒にいてはいけない。その人が「フツー」になってしまうからだ。
 そこで1.の例だが、私自身の体験から言えばやはりモデリングか、という印象がある。目の前でお手本を示してもらったという体験。Dr.Hのことを思い出す。私が30歳代の前半、オクラホマシティで初めて精神科のレジデントトレーニングを行った時のバイザーで彼は小柄であごひげを豊かに蓄えたエジプト人(毛が頭の上から下に移動したタイプ)。いつも笑みを絶やさない、温厚な人柄。「人に温かい」とはこういうことだ、ということを目の前で実践してくれた。(それまで、そういうことは考えたことがなかった。)
 私の配属されたのは、VAHospital (在郷軍人病院) で、そこの精神科病棟には数十人のベトナム帰りの心を病んだPTSDやうつの患者さんが群れていた。VAとは戦争帰りの患者さんが、無料で入れる病院として、各州に数個ずつ作られている。患者さんたちは時にはろれつが回らず、時には意味不明の訴えを持ちかけてくる。Dr.Hはどの患者にも誠実に対応するので人気があり、彼が病棟に姿を現すと患者がひっきりなしに話しかけてくる。彼はどんなに忙しくても疲れていてもしっかり対応する。私はそれを横で見ているのである。
 ある月曜の朝、病棟である患者さんが何か、非常に取るに足らない「報告」をDr.Hにしてきた。どうにも返事のしようのない、週末の生活の様子についての報告。Dr.Hは“well, Mr.so and so, thank you for telling me. 「私にそれを話してくれてありがとう」となる。英語にはこうやって日本語にすると意味が消えてしまうようなどうと言うことのない表現がある。それにしても「話しかけてくれてありがとう」は「あなたが、そこにいてくれてありがとう」みたいな感じ。そんな言葉ってあるんだ、と新鮮だった。うーん、これには驚いたね。といっても書いていても説得力がないが。
 どうして恩師のエピソードとしてまずこれが浮かぶのかよくわからない。この言葉は私に向かっていたものでもないし、Dr.Hは特に私を評価してくれたという訳ではない。彼はいつもニコニコ私の話を聞いてくれただけである。しかしこの“thank you for telling me”が効いてしまい、私はDrHのしぐさ、言動を横で見ていてことごとく取り入れるようになったのである。やはりこれは彼の人徳、と言うのだろうか。誰にでも公平、しぐさや主張は質素だが明確。人には常に同じ姿勢。患者も同僚も同じ。
 彼のエピソードでもう一つ思いだす。アメリカ人は職場で午後5時が近づくと、急にそわそわしだす。皆がこれから始まるアフターファイブに向けて気もそぞろになる。定刻の5時になる前にはタイムカードに向かっている人もいる。日本人の私は何となく定刻に帰る習慣が合わなかったが、Dr.Hは私を含めたレジデントにきっぱりと言った。「君たちは定刻が来たらさっと帰りたまえ。後は当直の仕事だ。」と言って自分でも帰り支度を始める。時間が来たから撤退、と言う感じ。私はDr.Hから、「勤務時間が来た時の帰り方」を身を持って教わったのである。
 やはりこう書いてみると、出会い、と言ってもその人の人柄が決定的だということがわかる。あの人がこういったから、それが心に残る、と言うところがある。しかしその人との関係がずっと続いたという訳ではない。Dr.Hとは私がその後オクラホマシティを離れてカンザスのトピーカに移ったために音信不通になった。ただ一つ後日談がある。Dr.Hと少し個人的な付き合いをさせてもらおうと思い連絡をすると、彼は彼が行っているキリスト教の活動を紹介してくれた。彼の慈愛に満ちた態度や表情と宗教がそこで重なったのだ。でもどう考えても、私はその時以来、Dr.Hのあの穏やかな話し方が「入って」しまっている気がする。自分の声を録音して後で聞いてみると、自分自身が驚いたりすることがあるのだ。
K先輩のこと
彼は恩師、ではないなあ。しかし確実に影響を受けた人である。K先輩は、私が中学に入った時のブラスバンド部の一年先輩である。私は音楽が好きで、見学に行ったブラスバンドのホルンの形に惹かれて担当することになった。後でそれは「なんちゃってホルン」であり、メロホンという楽器だということを知ったわけだ。まあ素人にわかるわけないよね。
 メロホンの立場はまるで下積みである。ちゃんとしたメロディーがないのだ。クラリネットやトランペットなどのメロディーを奏でる楽器たちの下でリズムを刻むだけ。ちゃんとした出番がない。楽器は重い。やる気が起きないなあ、と思っているときに、音楽室のホールでやたらときれいなメロディーを奏でてムードミュージックなどを吹いていたのが子安先輩だった。音色が違う。先輩はもちろんバンドの楽曲でもすばらしい働きをしたが、普段はそんな練習はまったくせず、もっぱら「恋は水色」「恋ごころ」などをビブラートをかけて吹きまくっていた。そんな中学2年生なんているだろうか?子安先輩には様々な伝説が付きまとっていた。楽譜は所見で読めてピアノも弾ける。異常な怪力の持ち主。陸上選手でもある。女性に異常にモテる。時々子安さんはメロホンを手にとり「恋は水色」を演奏したりしたが、驚いた。均一で透き通ったような音。音色がまったく違うのである。彼のマウスピース内での唇の震え方がまったく人とは異なることを知った。私は中学1年の秋にはメロホンを捨ててトランペットに転向し、ひたすら子安先輩の横でトランペットを吹くようになった。そのうち彼がヤマハの銀メッキのトランペットに買い換えるというので、彼がそれまで使っていたドイツ製のヒュッテというメーカーのトランペットを安く譲り受けた。(今でも押入れの奥にある。)そのうち子安先輩の弟分ということになった・・・。なんか恩師の話とはズレてきている。とにかく目の前で同じ楽器を吹き、まったく違った音色を放つ中学二年生を目の前にして、その人物に同一化して憧れてしまうという体験。彼は私にとって恩師というにはあまりに年が若かったが、人に影響を受ける、という意味ではまさに画期的な体験だったのである。


2015年2月18日水曜日

恩師論(推敲) (3)

ところで書いているうちに、恩師とは何ぞや、ということが疑問に思えてきた。恩師はどうして「出会いのモーメント」を提供してくれるのだろうか?けっこう自分の都合ということもあるんじゃないか。こんなエピソードがある。「麗しい恩師像」と上の野球監督の中間のような、より現実的な恩師像を与えてくれる。
背中押す「できるよ」の魔法岡村孝子さんシンガー・ソングライター(まーつーわ、いつまでもまーつーわ♪
読売新聞 20130701 0900
 人見知りで、いつも父の背中に隠れているような子どもでした。そんな私に、人前に出るきっかけを与えてくれたのが、愛知県岡崎市立矢作西小学校6年の時の担任だった筒井博善先生(故人)。当時50歳代後半で、一人ひとりの児童によく目配りしてくださる先生でした。
 新学年が始まって間もない音楽の授業。ピアノが苦手な先生は、「代わりに弾いてくれないか」と私を指名しました。「できません」と何度も断ったのに、先生は「絶対にできるから、やってみなさい」と励ましてくれました。両親から音楽の先生を目指していることを聞き、引っ込み思案な私に活躍の場を与えてくれたのでしょう。
 学芸会でも、準主役のお姫様の役をくださいました。その時も「できるよ」と背中を押してくれました。とても恥ずかしかったけれども、大勢の前で演じる喜びも味わいました。
 先生が体調を崩して2~3週間入院したことがありました。退院して登校した日の朝の光景が、今も忘れられません。職員室に駆けつけ、窓の前にひしめき合いながらクラス全員で先生の姿を探しました。振り向いた先生が笑いかけてくれた時、涙が出るほどうれしかったのを覚えています。
 それまでは「どうせダメだから」とあきらめがちだったのに、先生に「できるよ」と言われると、「ひょっとしてできるかも」と自信が湧いてくる。私にとって「魔法の言葉」でした。先生に出会わなければ、人前で自分の音楽を聴いてもらうシンガー・ソングライターを目指すこともなかったかもしれません。(聞き手・保井)
 
私はこれを拾ったときは、いい話だと思っていたのである。しかしこれも先生の無茶ブリ、ということはないだろうか、という気がしてきたのだ。もちろん筒井先生はいい先生だったのだろう。でも同時に誰かにピアノを引いてほしかった。彼の都合でもあったのである。こう考えるとやはり恩師との出会いは、「出会う側」ファクターがかなり影響している、ということになりはしないか?

こんなことを書いているうちに、先日NHKで錦織とマイケル・チャンの話をしていたので、思わず見入ってしまった。わずか一年で錦織を変えたマイケル・チャン。間違いなく恩師と言って良いだろう。そのチャンは、出会った時に、滔々と皇帝フェデラーへの敬愛の念を語る錦織に、こう言ったという。
「フェデラーを尊敬するなんておかしいよ。本来は戦って破る相手だろう?その相手に惚れ込んでどうするんだい?」(もちろん正確ではないかもしれない。テレビ番組を記録したわけではないからだ)。それからチャンはいろいろな指示を錦織くんに与えたという。反復練習をさせる、フォームを直す、もっとコートの前の方で戦え、など。チャンのコーチングでは、たくさんの「~しろ」が錦織くんに伝えられた。彼はおそらく「仕方なしに」「半信半疑で」従ったのだろう。(何しろ彼は、反復練習は好きではなかった、というのだから。)そして同時に「自分を信じろ」と何度も繰り返して言ったのだ。
 自分を信じろ、という励ましについてはわかりやすい。勇気付け、岡村孝子さんの例のような背中押し。多くの恩師がこれをやるのだ。しかしたとえば「ジムでのトレーニングを、これまでの一時間から二時間増やせ」というのはなんだろう。どうして彼はチャンに言われるまで、それをしなかったのだろう?錦織くんは、実はトレーニングや反復練習は好きではなかったという。おそらくそれまでに彼にそれを勧めた人はいたのであろうが、チャンほど強いメッセージで彼にそれを促したことはなかったのだろう。それでは錦織くんはその躍進を一方的にチャンに負っているのだろうか?でもそもそもチャンに近づいてコーチを依頼したのは錦織くんのほうなのだ。ここがフクザツで面白いところだ。彼は積極的に受身的に変わるための行動を起こしたのだ????
観客席で見つめるチャンは、錦織くんのポイントの一つ一つにリアクションを起こし、いわば彼と同一化して苦楽を共にする。錦織くんの成功は彼の成功、サービスの失敗は彼の落胆に直結している。いちいちガッツポーズを作ったり、頭を抱えたり。恩師が弟子に対して「そのためを思い」耳に痛いことをも言う。これは恩師として慕われる人の行動のひとつの大きな特徴だろうが、ではなぜそれが生じるのか。それは恩師の側の弟子への惚れ込みやリスペクトがある。一緒に一喜一憂する「に値する」弟子でなくてはならない。ということは、恩師と弟子の関係は親子関係のようなもの、お互いにコフートの言う自己対象としての意味を持つのだろう。

このように書いていると、錦織―チャンのカップルは、何か絵に描いたような弟子―恩師関係に見えてくる。私が「そんなのないよね」と言っていたような。そう、こういう幸運な組み合わせもあるのだろう。ただしすべての点で二人の息があっていたかどうかは、おそらく傍目からはわからない。世界ランキング二位まで行ったチャンにとって錦織くんが「現役時代の自分より格下」として認識されているとしたら。錦織くんの練習への情熱の薄さにイラっとすることがあったら?あるいは逆に彼の才能をチャンがねたましく思う瞬間があったなら?錦織くんにしてもチャンのことを煩わしく思い、常に一緒には痛くない存在と感じることもおそらくあるであろう。そう、絵に描いたような恩師は、やはり絵に描いたものに過ぎないのではないか、という思いも残る。やはりむしろ親子のようなものかもしれない。その関係は大概は(少なくとも子の側からは)「ちょっとあっちに行ってくれー」と敬遠するような、一緒にいると気を抜けないような存在なのである。

2015年2月17日火曜日

恩師論(推敲) (2)

今日の部分は、最初を少しいじったぞ。

しかしこう述べたからと言って、恩師の存在に意味がないというわけではない。恩師は私たちに人生の上での非常に大きな指針や勇気を与えてくれるなくてはならない存在である。私が日常の臨床からつくづく体験するのは、私たちが理想化対象を求める強さである。この強さは、結局は私たちの自己愛の強さの裏返しであるという結論に至らざるを得ない。私たちは結局は自分が可愛い。自己イメージは多少なりともインフレしている状態で牽引力を発揮する。よく聞くではないか。「自分は平均以上の~である」(「~」には、運転のうまさや対人関係の巧みさ、その他様々なものが代入される)に丸をつける人が、常に78割入るという調査結果だ。(理屈から言えば平均以上が78割、ということがそもそもアリエナイというわけだ。)自分がかなりいけているという幻想を私たちは持ち続けざるを得ないというのが、自己愛問題だが、これは容易に他人に投影される。すると「すごい人」を外に想定し自分を同一化させるのだ。

私が言いたいのは、恩師とはある種の出会いを持てた相手であるということである。その人が継続的に自分に影響を与えるようなイメージは持たないほうが良い。だから出会いの数だけ恩師がいていいのだ。そこで・・・
①恩師との体験は、「出会いのモーメント」である。

恩師との体験について考えると、治療体験とどこか似ている。精神分析のボストングループの「出会いのモーメント」でもいいし、村岡倫子の「ターニングポイント」でもいい。その出会いで何かが起きることで、物事の考え方が(いい方向に)変わる。そこには治療関係と似たことが起きるのだろう。
この例として思い出すものをあげよう。


宮本亜門 (演出家)
高校時代の僕は引きこもっていました。人とコミュニケーションがうまくとれず、自分の気持ちを動表現していいかもわからなかった。毎日がつらくて「明日なんていうものがあってほしくない」と思っていました。でももうあんな苦しみは味わいたくないんです。だから感情を抑えたり我慢したりしないように心がけています。感情を溜め込むと、それがマイナスに働いてしまうタイプだというのもわかってきたので。
引きこもりはどうやって克服したのですか?

母にいわれ、思い切って精神科へ行ったのがよかったんです。薬はもらわなかったのですが、担当医師がとても穏やかな方で、「君の話は面白い」と僕の話をすべて肯定して聞いてくれました。おかげで「こんな僕でいいんだ」人と違って因だ、と思えるようになりました。

 ただしメンターとの出会いは、現実という海の中にある。治療関係のような一種の「ぬるま湯」ではない。だから出会いは外傷ともなる。
 テレビでこんな話をやっていた。ある野球選手が、監督から、試合でのミスを何度も言われたという。「お前のアレであの試合は負けたんだ。」それをことあるごとに口にされたという。悔しい思いをしたその選手は、監督を恨んだが、そのうち毎朝ランニングをして体を鍛え、それを晴らそうとした。そして一年後に大きく成長し、試合で立派な結果を残すことが出来た。後にその監督は言ったという。「あいつは負けず嫌いだから、発奮すると思い、わざとああいうことを言い続けたのだ。」 それを聞いた選手は、その監督に対する深い感謝の念がわいたという。
 どうなんだろう、この話。まあ、ありえない話ではないけれど、現実という海の中でこれが起きると、この種の体験がトラウマになって、監督を恨み通す選手も当然出てくるだろう。この種の美談の裏に死屍累々としているのは、「いやな監督(先輩)にいびられ続けてすっかりやる気を失ってしまった」という体験談なのだろう。
この話の教訓をあげてみよう。監督のいびりに発奮した選手がなんと言ってもえらい。これを仮に「出会う側」ファクターと呼ぼう。第2に、監督は本当は単に意地悪だったのかもしれない。そしてこの選手により監督として「育てられた」のかもしれない。本当はわからないが。

とにかく私たちが陥りがちな過ちは、恩師は一人の尊敬すべき人間という考えである。たいていの人間はそうは行かない。なぜなら優れた点とショーもない点を持った生身の人間に過ぎないからだ。だからいろいろな人から出会いをもらい、それを自分で統合するしかない。人生のあの部分であの人から何かをもらった。それでいいのだ。

2015年2月16日月曜日

恩師論(推敲)(1)


錦織君がメンフィスで勝ったという。それで力を貰うというのはいかにも都合のいい話だとは思う。テネシー州メンフィス。懐かしい場所である。はるか20年以上前、1989年の5月、メンフィス大学の精神科レジデントに応募し、面接を受けに行ったのである。夕食を食べにマックに入った時、従業員がすべてマイノリティであったことに驚いたのを覚えている。


前置き
私は素晴らしい恩師に出会えて自分を導いてもらった、というたぐいの話を聞くのが嫌だ。できれば聞きたくない。そう思う理由は二つある。
一つは、私がおそらくいい恩師に出会えていなくて、そのような話をする人がうらやましくてしょうがないのだ。テレビで松井秀喜氏が、長嶋茂雄氏という偉大な恩師から、手取り足取りバッティングをコーチしてもらったという話を聞いた。やはりどこか羨ましいし、悔しい。だから好きになれない。まあ、これはふざけた理由だ。だから私は●●さんが××先生の話をすると腹が立つのである。繰り返すが、それはうらやましいからだ。
二つ目はもう少し真面目な理由である。恩師の話には、たえず理想化された人物像がつきまとう。業績を挙げたり一家をなした人の陰には必ず恩師との出会いがある、というイメージを私たちは持ちやすい。そしてその恩師は人間的にも優れ、すぐれた教養や技術をもち、後世の育成に力を尽くす愛他的な人物というニュアンスが伴う。しかし世の中にそんなに素晴らしい人など、そうそういるものではない。
 ある非常にいい出会いがあり、その人に心酔したくなっても、その人は別の側面を持ち、全面的な理想化には絶えないのが普通だ。というよりは人の全側面を知ると、その人を理想化することはおそらくできなくなる。だから恩師とは距離を置いて、理想化を続けられることで初めてその人にとって一生の恩師、という感じになるのではないだろうか?恩師はあまり身近にいてはいけないのである。おそらくどんな恩師でも、いつも近くにいるとうざくて仕方なくなるだろう。どこかでラカンについて書いてあったが、ラカンはおそらく身近にいたらとても耐えられないような人であったという。でもあれほど理想化されている人もいないのではないだろうか?

なんだ、推敲なんて言って、全然変わってないじゃないか。

2015年2月15日日曜日

理容師研修の思い出 1000字以内(2)


さて私が一番印象に残っているのは、


(中略)


そういえば研修理容師の一年目は、私にとって受難な年だった。同じような形で攻め立てられたのは、他に数人の女性の患者さんだった。Aさんを除いて皆20歳代。私がちゃんと話を聞かないと言って暴れ、私は対応に苦慮した。なんであんなことが起きたのだろう?
 
以下は私が理容師研修の時代に、お客さんたちと対決にいろいろ困らわれた話(灰皿を投げられる、スリッパを投げられる、暴言を吐かれる、理容室のガラスを割られる、そのほか)をするが、詳細は省略しよう。 

やはり私が若くて、一方では精神科医としての威厳を示そうと思いつつ、圧倒的に経験値が不足していた。それでも一生懸命彼女たちの話を聞こうとしていたと思う。そのバランスがいかにも中途半端で、患者さんたちをイライラさせたのだろうと思う。いろいろ考えても、そのような結論しか行きつかない。しかし小さい頃から特に体を使った喧嘩をしたわけでもない私には、この種の生々しい緊迫した状況を体験することは大きな意味を持っていたような気がする。その後私はアメリカではるかにガタイの大きい人たちと理容病院(?)で対決することになるが、日本での体験は少しは役に立ったような気がする。