2015年11月22日日曜日

自己愛の観点から見た治療者の自己開示 (4)


A1の治療的、非治療的な要素

A1 治療的な要素としては、以下に列挙するものが考えられよう。
1.治療者もまた、自分と同じ人間であるという認識がクライエントに生まれ、過度の理想化を抑制する。
もちろん理想化が抑制されること自体は、非治療的な意味も持ちうる。そこであくまでも「過度の」理想化が抑制されるという場合をここでは論じている。人は相手の姿が見えない場合に様々な姿をその人に投影する傾向にあることは確かである。そこにはネガティブな気持ちも確かに含まれうる。しかし治療者が職業的、ないしは学問的なキャリアを積み、社会的な立場や名声を得ている場合、そして治療時間中にクライエントに敬意を払い傾聴に勤める場合、そこにクライエントの心に理想化が生じる可能性は非常に高い。その際に治療者が一人の人間であるという当たり前の事実がクライエントにより再認識されることの意味は大きい。
2.治療者が治療原則から離れて自分自身を開示したことへの感謝の念が生まれる。
クライエントはおおむね治療者が何らかの規範や原則に従った治療を行い、自分の情報をクライエントに伝えないこともそのひとつであることを感じ取っているものである。クライエントは自分には知らされていない何らかの原則が少なくとも治療者にとっては非常に重要であり、本来なら遵守すべきものであることを想像している。しかしそれでも治療者がその原則を犯してまでも自己開示を行うことは、治療者が見せてくれた特別の配慮として、あるいはある種のギフトとして理解される可能性がある。答えた内容よりはむしろ「答えてくれた」ことに感謝するのである。もちろんこれは治療者が「普段は自己を示さない」という背景があるからこそ、それだけ意味を持つことになる。また治療者の個人的な情報がギフトとしての意味を持つほどに貴重なものであるという意味ではない。あくまでもクライエントの側の感じ取り方としてこう述べているのである。
3.治療者の行動や考え方のモデリング、ないしは情報提供の意味を持つ
クライエントからの「~の場合先生ならどうしますか?」「~について先生はどのように考えますか?」等の問いに治療者が何らかの内容を伴った回答をすることで、治療者の考え方、生き方がクライエントに伝わることになる。もちろんそれがクライエントにとって見習い、あるいは模倣をする内容であるとは限らない。しかしその中にはクライエントが自らの考え方や行動に直接的な影響を与えることもあるであろう。

次にA1の非治療的な要素としては以下のものが考えられる。
1.  クライエントの要求を満たすことによる退行や過度の期待を誘発しかねない。
これに関しては敢えて説明するまでもないであろう。治療者の自己開示の非治療的な意義について、それこそ非分析的な立場の治療者や経験不足の治療者からも一様に聞かれる傾向のある問題点である。もちろんこの種の危惧が持たれるにはそれ相応の根拠がある。ただこの問題について敢えて私から「反論」するならば、質問に答えることで退行が生じる気配を感じ取れば、そこで軌道修正するチャンスは、治療者にはたくさん残されているのも確かだということである。退行を生むことを恐れていては、おそらく支持的な介入のほとんどが用いられないことになるだろう。
2.治療者のことを知りたくないというクライエントの欲求が無視される可能性がある。

質問に答えたのに、実は質問をしたクライエント自身がその回答を望んでいなかったという場合がある。しかしこれは致し方ない状況とも言える。治療者がその可能性に思い至らず、重要と思われる質問に答え、結果としてそれがクライエントの失望や幻滅を生んだとしたら、それは仕方のないこととあきらめるべきではないだろうか。
3.治療者の「自分のようにせよ」というメッセージとしてクライエントに受け取られかねない。
「先生はどのように考えますか?」に対して回答することは、クライエントにとっては強い示唆につながるという可能性についてはすでに指摘した。