2015年11月28日土曜日

自己愛の観点から見た治療者の自己開示・推敲 (3)

治療者の自己愛問題

以上自己開示についての分析理論の中での基本的な留意点について述べたが、実際に臨床を行っていて、最近クライエントから時々耳にすることがある。それは治療者の「過剰な自己開示」がしばしば起きているらしいということだ。これはある意味では私にとって「目か鱗」である。治療者が匿名性を守り過ぎて「自己開示をしなさすぎる」ということが問題になっている傾向にあると思っていたところ、実は「し過ぎ」が問題になっているという可能性に思い至ったからである。
 私はこれまでは「過剰な自己開示」はごく一部の治療者にしか起きないであろうと思っていた。臨床心理を学ぶ大学院生が初めてのケースを担当して緊張し、沈黙の扱いに窮し、気がついたら自分の人生経験を夢中で語っていたという実例があったが、これなどは例外であろうと考えていた。しかしベテランの療法家がスーパービジョンの場で自分の話が止まらなかったというバイジーの訴えなら時々耳にしていた。しかしそのうちに、これは比較的普遍的な問題を反映しているのではないかと思うようになった。実際に喋りすぎる治療者が問題となるという文献にも接した。(Jerome S. Blackman, J (2012) The Therapist's Answer Book: Solutions to 101 Tricky Problems in Psychotherapy  Routledge. そこで問題となるのは、治療者の自己愛の問題であり、「自分の話を聞いてほしい」という願望である。
考えてみれば、治療者の職業選択そのものが自己表現や自己実現の願望に根差している可能性があるのはむしろ異論のないところだろう。一般に臨床活動に携わる人々は、他人を助けたい、人の喜ぶ姿を見たい、という希望を持つ人が多い。外科のように匿名性や受け身性の概念が希薄な科で活躍している先生方の中には、「クライエントからの『ありがとう』の言葉に支えられて毎日の激務に耐えている」などという事情を公言なさる方が少なからずいる。
 精神分析の文脈ではたちまち逆転移扱いされてしまうようなこれらの心性は、しかし治療者一般に広くみられる可能性がある。「他人のために尽くす」という志自体は高潔であり少しも責められるところはないであろうが、それはしばしばその純粋な目的を逸脱して「クライエントとのかかわりに自己愛的な満足を見出す」というレベルにまで堕する可能性がある。そこでしばしば生じるのが「クライエントを話し相手にする」あるいは「クライエントを聴衆にして自分のことを語る」ということではないだろうか。
ただし本稿では、如何にそのような傾向を抑制するかという具体的な問題について論じる余裕はないので、治療者の自己愛が自己開示の問題といかに深くかかわっているか、という問題提起にとどめたい。

「自己開示」の定義と分類
さて少し遅くなったが、本稿における自己開示の定義を、以下のように示したい。
「自己開示とは,治療状況において治療者自身の感情や個人的な情報などがクライエントに伝えられるという現象をさす。」「自己開示はそれが自然に起きてしまう場合と、治療者により意図して行われる場合がある。(精神分析事典、岩崎学術出版社)」
 これは私の考えであるが、実は精神分析事典のこの項目を書いたのも私なので、多少我田引水になるが、この路線で論じることをお許しいただきたい。
「広義の自己開示」の分類としては、以上のものを考え、これを以下の二つに分ける。それらは A意図的に行われる自己開示  (「狭義の自己開示」)
   B 不可避的に(自然に)生じる自己開示(「広義の自己開示」) である。
そしてA意図的な自己開示の分類をさらに二つに分ける。
A 1
 クライエントからの問いかけに応じた自己開示
A 2
 治療者が自発的に行った自己開示
さらに不可避的に生じる自己開示については
B 1
治療者に意識化された自己開示
B 2 
意識化されない自己開示
の二つに分類することが出来るだろう。
これらの分類の意味にはどのようなものがあるのだろうか。私の立場は以下のとおりである。これらの4つに分けた広義の自己開示については、それぞれに治療的な意義とデメリットがある。それぞれを勘案しながら、その自己開示を用いるかどうかを決めるべきであろう。そしてその前提にあるのは、そもそも自己開示が治療的か非治療的かは状況次第である、ということである。

以下にこれらの個々の項目について、治療的なメリット、デメリットを考えたい。