2015年11月13日金曜日

精神分析におけるスペクトラム的思考と弁証法的思考(推敲後) (2)

臨床実践における「バランス感覚」

私は病態の理解に関して、スペクトラム的な思考を用いているという事情について述べたが、臨床場面での実際の患者とのかかわりの際には、事情は大きく異なる。そこではスペクトラム的な思考を用いる機会はかなり少なくなるのだ。なぜならそこでは自らの発言内容についてスペクトラムのどこかに「慎重に目盛を合わせる」時間的な余裕はあまりないのが現状だからである。臨床場面において私たちが発する言葉の多くは、その候補が無意識から突然立ち現れる、あるいはいつの間にか口をついて出るという性質を多分に持つ。それらは治療者の情緒的な反応や自発性や創造性といった要素を反映しているといえるだろう。それらの存在は解釈などのより治療的な介入との間の「バランス感覚」を重んじる弁証法的な思考を治療者に要請する場合が多いのだ。それはスペクトラム的とは対極的な性質を持つ。ここで一つの臨床例を挙げてさらに説明を試みよう。

ある若い女性のクライエントが、「男友達」との関係について語る。その「男友達」とは親しい間柄で、時々個人的な相談事をするという話がなされるが、以前にそのような話はなく、またその時もそれ以上その言及はなされない。治療者(男性)は、クライエントのその「男友達」との関係が、具体的にはどのような性質のものであろうかと考えるが、それを直接訪ねるのは侵入的でクライエントを不快な気分にさせる可能性があると思う。またクライエントが「男友達」というあいまいな表現をしつつ言及することは、その人を同じ男性である治療者と競わせようとしているのではないかという、転移の文脈での理解が浮かんだ。しかし治療者が具体的な介入をする前にクライエントの話題は別のものに移っていった。治療者の頭にはこの「男友達」のことがしばらく残り続け、クライエントの話への集中が難しくなっていた。

治療者はそのような時、頭に浮かぶ可能な質問の仕方や転移解釈の中から一番適切と思われるものを選択しようとした。そこで用いられる判断は確かに「さじ加減」だし、その背景にはスペクトラム的な思考が働いていたといえるだろう。
しかし実は治療者の心にはもうひとつ重要な力動が生じていた。それは治療者の中に浮かんだ「男友達」に対する興味や、競争心であった。彼はクライエントとその「男友達」が実際にどの程度親密なのか、性的な関係はあるのか、等について個人的な関心を持った。しかしその「男友達」に相談に乗ってもらうということは、クライエントにとって自分では不十分なのか、また自分はその「男友達」と比較されているのかとも思った。さらには「男友達」についてさらっと言及する仕方への違和感を持ち、クライエントの意図は何だろうか、とも考えた。また「男友達」の存在は、これまで意味のある異性関係を持てないでいたクライエントにとっては新たな前進ではないかとも考えられた。
治療者はこれらの複雑な感情や想念を、治療者らしからぬ個人的な関心や興味として捉え、それをひとまず脇に置いておき、転移解釈などの介入について考え続けた。しかしそれでも個人的な関心は残り続け、それがクライエントの話を聞き続けることの障害となったのである。
ここで起きている事は、それは治療者の心に存在する、相反する二つの姿勢の間に生じているある種の緊張関係である。そのうちの一方は、上に述べた、治療的な介入であり、それはきるだけ侵入的とならないような配慮や、解釈的な介入を探し求める姿勢であった。しかしもう一つの極にあるのは、治療者個人の情緒的な反応であり、その一部は男性として異性であるクライエントに持っている興味にも根ざしていた。クライエントが「男性の友達」について口にした際に、それは端的な形で治療者に自覚された。治療者は治療的な介入を模索する部分とともに、自分の中に湧いたこれらのさまざまなファンタジーや感情を全面的に否認することなく、いかに全体としての治療者の姿勢というバランスを保つかに苦労した。そのために彼は一時的に集中力を途切れさせたのである。

「バランス感覚」と弁証法的構成主義
ここから少し理論的な話になる。この「バランス感覚」の理論的な背景となるのが、治療者のアプローチの有する弁証法的な性質の問題である。この件に関する理論的な根拠は、おおむねHoffman (Hoffman, 1997) の「弁証法的構成主義」に求められる。この理論は臨床家の心がどのようなメカニズムに従って働いているかについての一つの有用な視点を提供してくれる。それは基本的には儀式的な反復と自発的な動きとの弁証法的な関係を有する。儀式的な反復に従った治療者は、治療構造を遵守し、治療関係の中で反復される転移関係に注視し、それを解釈することに専念する。しかし同時に治療者は人間であり、患者にとっての隣人であり、また好奇心や自己愛的な願望も備える。この二つの志向性は対立しつつ、緊張関係を保っている。ホフマンが「儀式と自発性」の中で説いている弁証法的構成主義とは、分かりやすく言えばそういうことだ。その際両方の極を意識していることで両者の間のバランス感覚も生まれてくるのである。
 現代的な精神分析においては、治療者を治療的なかかわりを提供するだけの一種の「治療マシン」として捉えず、その背後にある人間性や非合理的なさまざまな情緒的な反応や自発性を併せ持つ存在としてとらえる。そのような治療者はクライエントから見てただのブランクスクリーンではなく、さまざまな反応性を秘めた一個の生きた人間である。それは全く新しい関係性を提供してくる存在であるとともに、クライエントのかかわりにより変幻自在な形をとる可能性を有する。その治療者が、それでもクライエントにとって安全で、みずからの心をそこに反映させるに足る存在であるためには、治療者の側に独特の「バランス感覚」が保持されなくてはならない。それは自らの体験が治療者としての役割を遵守すべき存在と、人間的な関心や情緒反応、非合理的な思考や衝動性を備えた存在という弁証法が成立していることを自覚し、その両者の関係を適切に保つバランス感覚なのである。


Hoffman, I.Z. (1998) Ritual and Spontaneity in the Psychoanalytic Process. The Analytic Press, Hillsdale, London.