2015年10月26日月曜日

自己愛的な人々(加藤チェック後) 第13章

13章 美人の自己愛
美人であることのナルシンズム。これが存在しないわけがない。ここでは「美人」として女性を対象にするが、見た目が美しいことにより彼女たちが持ち得る特権は、おそらく計り知れない。私は女性を美醜で差別するもりはなく、むしろそれには明確な反対の意を唱えるという意図のもとに主張したいのだが、たとえばマスメデイアで「美人」を優遇する傾向はあまりに露骨過ぎはしないだろうか? ドラマの出演者も、ニュースキャスターもお天気お姉さんも、各局は競って美形を揃えている。あるいは週刊雑誌の表紙をかざる女性の顔かたちはどうだろう? 美形に一定の数値、たとえば偏差値が当てはめるとしたら、おそらく70以上は必要ということにもなるのだろう。「週刊なんとか」の表紙に、ごく平均的な女子大生が掲載されたら、これは一種の事件扱いされてもおかしくない。(実はその女子大生が、芸能人の子供だったりすることが分かると、世間はたちまち「フーン」となるのだろうが。)
 ここで特に70という数字に意味はない。ただ試験などで偏差値70、と聞くと「スゴーい」、という印象がある。数学的に言ったら、2標準偏差以上の偏りがあるということで、偏差値70の美人はざっと100人に、1,2人の美人を指す。偏差値で80になると、ざっと1000人に一人。しかし考えてみると応募者一万人から選ばれたミス何とかが、見た目もフツーのお嬢さんだったりするわけで…、ということはタレントとして登場する女性たちはおそらくよっぽど選ばれた人たちなのだ。
美人がメデイアに登場する最も明白な理由は、それが雑誌の売り上げやテレビの視聴率に反映するからだろう。それ以外に業界が高いギャラを払い、人気美人モデルを起用する理由はあり得ない。ではどうして美人が購入意欲や、視聴意欲を高めるのか。身もフタもないことを言ってしまえば、美人を見るとイイ気持ちになるからだ。それが人の報酬系を刺激し、心地よくするから、ということに尽きるだろう。この報酬系とは、脳の中でそこの部分が刺激されると快感を催し、活性化する神経系のことだ。美形がこの報酬系を刺激するという研究は実際にある。(Aharon,I et al. Beautiful Faces Have Variable Reward Effect. fMRI and Behavioral effect. Neuron 32 537-5512001)
あるハーバード大学の学術的な調査によれば、fMRIを用いて検査をすると、男性が「美人」と感じた女性の写真を見ている時には、明らかに報酬系の一部の側坐核が興奮していることが示されたという。
 この事実が端的に物語っているのは、美人は笑いかけることで、多くの男性に、そしておそらく女性のかなりの部分にも心地好さを提供するという、素敵な能力を備えているということなのである。美人とは、きれいな一輪の花のように、人を幸せにする存在なのだ。
 私はこれ自体はこの上なくすばらしいことだと思うのだが、ひとつの重要な問題がここに生じる。それは言うまでもなく格差である。一部の恵まれた人のみが美人としての恩恵に浴する。もちろん美人の基準が人により異なることも確かであり、また美人が体験するのは決して有難いことばかりではない。それでも格差は厳然としてあるだろう。
 ところで美人は自分が美人である、ということを自覚しているだろうか? 実は私は「美人ですね」と言われた女性が「はい」と答えた状況に、一度たりとも出くわしたことかない。例えば「スタイルがいいですね」とか「目が大きいですね」といったコメントには「そうですか?」程度に答えることがある女性でも、「美人ですね」は、決してそのまま受けることが出来ないものなのだ。それほどに、自らを美しいと自覚していることを表明するには様々な制限が自らによって加えられているのだ。そしてそれだけ「美人であること」は彼女たちにとっていかに強烈な自己愛の満足をもたらしているかを示しているのではないだろうか? (ちなみに今のは日本人の女性の話である。欧米人に「あなたは美しい」というと、十中八九、「Oh, thank you! (あーら、ありがとう!)」となる。ほぼ間違いない。)
美人が心のうちで、それを自覚しているか、という問いに戻ろう。答えは・・・・もちろんそうだろう。自覚していないわけがない。ある魅力的な中年の女性が、若いころのことを思い出して言っていた。「20代のころは、少し露出を多くしただけで、男性の目をシャワーのように浴びたわ。」「完全に自分の魅力を意識し、男性を思いのままに操っているという感じがした。」
 しかし同時に私が不思議に感じるのは、どう見ても魅力的と感じるにもかかわらず、全くそれを自覚しない、あるいはそれが信じられない、という人も多いということである。一方では美人と見られているという自覚があり、そのために男性たちが自分に注目しているということを認識している。しかしそれだからこそ申し訳ないと思ったり、後ろめたさを感じたりする。自分自身についての自信に決定的に欠け、それが誇らしさや自己愛の満足に全くつながっていない場合もまた多いのである。
 美人のナルシシストの典型的なライフコースについて書こう。
美人の素質はおそらく幼少時には明らかである。生後すぐの赤ちゃんの顔は通常は皺くちゃで、その整い具合を判断しがたい。蛹から羽化したばかりの、羽がクシャクシャなままの蝶のようなものだ。しかし生後一二カ月ですでに、将来の顔かたちをある程度まで占うことができる。
 彼女は3歳頃になるとかなりはっきりとした顔立ちになり、「将来は美人さんだね」などと周囲の大人から言われたりする。もちろん本人には深い意味は理解できないが、何か自分が特別のものを与えられているのではないか、という満足感を伴った想像が芽生えてもおかしくない。美人のナルシシズムの萌芽である。
 小学校に入る前から、おそらくは幼稚園の頃から、将来の美人はその顔立ちのために、男の子たちの特別の注目を浴びるようになっている。ただし小学校時代の美人さんたちはその振る舞いの優雅さや運動能力もコミで評価されることが多い。顔立ちが整っていても、極端に引っ込み思案だったり、性格が暗かったり運動能力に難があったりすると、美人の要素はそれとしてはあまり引き立たないこともある。それに何といっても子供である。美少女といってもまだ鼻梁は低く、幼児顔貌であり、インパクトは少ない。
運動能力も比較的優れ、振る舞いに優雅さや知性のきらめきを備えた美少女は、小学校も高学年になると特別の存在感を放ち始める。彼女たちが特別にその振る舞いが優雅である必然性はないが、美人であることは、その振る舞いや声をひときわ美しいものに際立たせる可能性がある。そしてそのことを彼女たちもおそらく既によく自覚している。わずかではあるが、「私は特別よ」オーラを既に出し始めている少女もいるだろう。クラスの悪戯な男子がその美少女の前に出ると、へどもどしたり急にぎこちない表情になり、「〇〇ちゃんを好きなんだ」という噂が立ったりする。クラスの中の美少女ランキングなどという不躾な順位付けが行われて、自分がいつもトップに選ばれることを美少女はどこかで承知している。
 ただしその少女たちが自分が美人であるという事実に甘んじているかどうかはわからない。多くの少女たちはそれを自己愛的な満足体験としているかもしれないが、別の少女はそれをむしろ疎ましく、あるいは後ろめたく感じている可能性がある。
小学生時代の美少女の一部は、それから受難の時期を迎える。第二次成長期を迎えて、実は顔立ちに大きな変化がある。上額、下顎などの顔面を構成する骨の何が特にスパートをかけて来るかわからない。すべてが均等に成長すると美少女は本格的な美人になっていく。ハリーポッターに登場したエマ・ワトソンのように。しかし一歩間違うと、思春期を経た美少女はすでに美少女ではなくなっている。それとは逆に、美少女という認識を周囲に与えなかったような少女が急に大人びて美女に変身するという場合もある。あれだけ人気があって、チヤホヤされ、女王様のように振る舞っていた美少女が、一番多感な思春期に差し掛かってその地位から突然陥落したことを自覚した時の気持ちはどんなものだろう。
ということで美人のナルシシズムについて書きながら、私はむしろ彼女たちに同情的である。美人がナルシシズムに浸っていいではないか。私は彼女たちの味方である。美人にはナルシシズムに浸る権利がある。人を心地よくしてくれる力を持っているのだから。
それに美人として世間から認められ、扱われる期間は決して長くはない。早晩普通の人になっていく。あるいはかつての美人だった人、という扱いを受ける。「まだお美しいですね」というような言い方をされる。その意味ではこれは「お若いですね」と言われるのと似ている。あくまでも期間が限られ、その得意になれる期間はすぐに去ってしまう、という事を本人も周囲も理解している。その間は大目に見てあげればいいのではないか?
美人のナルがナルでいられる期間は短い。若い盛りをあっという間に通過した美人たちはそれから受難の時期に入る。自信の根拠になっていた顔に様々な変化が生じる。ふと気がつくと小皺や小さなシミが・・・・。マイクロスコープ(PCで用いる一種の実体顕微鏡)で自分の肌を見慣れている人は(そんな人はめったにいないかもしれないが)肌の微細なきめそのものが変化しつつあることに気が付く。それまで素のままで美しかった顔に様々な「不都合な変化」が生じ、化粧による「補正」が必要になってくる。これまでは美しさを引き立て、強調するために用いていたファンデーションが、「現状復帰」のために用いられるようになる。
  おそらく20歳代に突入した時点で、美人たちは現在の自分の写真を見ることが苦痛になってくる。確かに化粧栄えはするようになっているかもしれない。幼児期の皮下脂肪が徐々に消えていく過程で顔の輪郭がよりハッキリして、美人が美人らしくなるのもこの時期だ。しかしそれも20歳代前半までと見たほうがよい。それ以降は確実に「劣化」(嫌な言葉だ)の一途となる。ともかくも短かった美人ナルの時期はもうカウントダウンに入ってしまっている。
 20歳代の美人達は、すぐ後ろに10代の美少女という強敵が迫っていることを、そしておそらく自分が彼女たちには決して勝ち目がないことを知っている。10代の頃の屈託なく、「これからいくらでも綺麗になれる」という自信を持っていた頃のことをまだ覚えているので、自分が追われる立場になっていることもよくわかる。結局美人のナルは、それに浸る余裕も十分にないままにつらい守りの時期に入っていく。ふと小学生の女子の群れを見ると、彼女たちも実は次の次の世代のライバルであることに気がつく。
 ところで余談であるが、本当に不思議なのが、化粧、ということだ。何しろ顔に対するちょっとした加工(化粧のことである)を施すことで、印象はまったく違ってくるからだ。いったいどちらが彼女の本当の顔だというのだ。私がこのことがわからなくなったのは、精神科医としての仕事を始めてからだから、はるか昔ということになる。患者さんの中には、時に非常に体調を崩し、ようやくのことで外来に訪れるといった方もおられる。うつのつらい時期など、もはや化粧をしている余裕もなくなってくるだろう。すると普段とはまったく趣の違う感じで、時には誰だか一瞬わからない姿でいらっしゃる。私は不覚にもこう思ったのだ。「ああ、今日の彼女はいつもの、本来の彼女ではないのだ。」 でもこのとき私はすでに誤解を始めている。化粧をしていない彼女たちこそ本来の彼女ではないか?「いつもの目のパッチリとして肌のつるつるしたAさんこそが、本来の、普通のAさんなんだ」という私の認識こそが誤認なわけであるが、それがどんどん普通になっていく。
 そして私にとってもっとわからないのは、美容整形である。ネットなどでタレントの見慣れた顔の横に、高校の卒業アルバムに映った写真が並べられるのを見かける。するとごく自然にデビュー前の高校の頃の写真を「まだタレントBさんになっていない(すなわち本当のBさんじゃない)頃だな」などと勝手に解釈するのだが、これも明らかな誤認なのだ。そしてAさんもBさんも、化粧をした、整形を施した顔が「本当は自分ではない、偽りの自分である」ことを知っている。しかしそれでも彼女たちは二次的に獲得した美によるナルシシズムを放棄しようとはしない。ただ一抹の後ろめたさはあるのだろう。
 結局美人のナルは、ごく一部の恵まれた人々の、限られた期間と状況において成立する。それは一過性であり、常に失われることの予期を含んだ状態である。才能や業績や名声といった、それ自体に当分は安住できるような要素を欠いた、いつそれが奪われてしまうかもわからない(というよりも現在のこの瞬間にも刻々と蚕食されている)自分の容姿のみが頼りの、きわめて不安定なナルシシズム。それが美人のナルシシズムの特徴といえるかもしれない。
さて最後に美人のナルの「余生」である。余生などと失礼な言い方をしたが、自己の美に対するナルシシズムがその人を支えている場合には、すでに自分の姿をさらす事が出来なくなった時点からの人生は、それ以前とは明らかに異質のものとなるであろう。
このテーマで思い出されるのが、戦前の大女優、原節子である。原は「永遠の処女」とまでうたわれ、その美貌や清楚なイメージが多くのファンの心を掴んだ。しかし42歳での引退後は決して公式の場に姿を見せなくなった。その原も現在では95歳になるという。鎌倉市内の親戚宅でひっそり暮らし、ファンが訪れても頑として会わないという。
もちろん原節子のケースを自己愛と結びつけることは出来ないという見解もあろう。彼女の場合は1953年の映画撮影中に、カメラマンであった実兄が不慮の死を遂げ、それを原自身が目にしたことがトラウマになったという説もある。しかし、たとえそうであっても、原の自分の姿を世間にさらさないというポリシーは、おそらく彼女自身の美しさのイメージに対する矜持や、それを決してくずさせまいとする強い意志を象徴していることには変わりないであろう。