2015年9月30日水曜日

精神分析における「現実」を再定義する 推敲 6


エナクトメントと現実の表現
エナクトメントの概念についてはさまざまな理解のされ方があるが、筆者自身はエナクトメントが生じた時は「良質の現実」が提供される非常によい機会だと考える。Theodore Jacobs (1986) らにより導入された意味でのこのエナクトメントの概念は、最近では頻繁に精神分析的な議論において語られるようになってきている。Jacobsはこれを、計画や予想をしていなかった「思考やファンタジーが行動に形を変えたもの(Jacobs, 1993)」としているが、それこそが恰好の現実の提供を意味するからである。R.J. Friedman (1999) らが論じているように、エナクトメントという概念には実はトートロジカルな側面がある。というのも治療者や患者の示す言動は、ことごとくエナクトメントというニュアンスがあるからだ。ただし筆者はもう少し狭義のエナクトメントは臨床的に役に立つと考える。それは当人にとって予想していなかった、思いがけない、あるいはうっかりした行動や感情表現である。この意味でのエナクトメントは「良質の現実」となる候補としての意味がある。なぜならそれは明示的なものの背後にある無意識的な、あるいは気が付いていないプロセスを示唆しているからである。エナクトメントの無意識的な意味はその全体が明らかにされることはないであろうが、何らかの理由にせよそこで生じた情緒的なインパクトがさらなる分析的な探索を招くという意味では、「良質の現実」の有力な候補なのである。
エナクトメントが生じたということが後に認識された際に、それが「避けられるべきであったかどうか」という議論はさほど有用ではなく、むしろそれから何を学ぶことがあったかについての、可能な限りは患者を含めた検討の方が生産的である。しかしだからと言って人はエナクトメントが起きたことを後悔することに意味がない、というわけではない。むしろあるエナクトメントに対する後悔、恥の感情などはそれそのものが、優れて現実として算入されるべきなのである。臨床例では、シンディの電話の話を聞いた際、筆者は不意を突かれ、彼女が買う力身を起こして振り返った時は動揺した。筆者が失望の色を表現したのはエナクトメントであり、しかし意味のある現実だった。それが彼女の側の失望へと連鎖し、筆者がその彼女の心の変化を察知して話題にすることができたのである
現実と変化のプロセス
患者とのCRの構成という治療プロセスは、単に認知的なプロセスではなく、そこに情動的な動きが生じ、言わば治療場面において「出会い」が生じる瞬間と考える。ある一つのCRが生成された時、それは「あなたがAと考え、筆者がBと考えていたのだ」という形をとる。それは他者の違いを感じ取ったというモーメントと、そのことを互いに了解したというモーメントを含む。そしてそれはまさに「出会い」そのものといってもいい。私たちがほかの人間と出会うとき、そこに相手が違う主体性を持った人間であるということと、自分と同じ人間であるということの両者が立体的に体験される。その時に人はだれかと出会ったと感じるのである。その意味でCRはいわば「出会いのモーメント」(Boston Process Change Study Group, 2010)で生じていることを、現実というタームにより言い換えたものと考えることもできる。
最後に-現実はどのように臨床的に役立つのか?

この論考で最終的に問わなくてはならないのは、いかにして本稿で示した現実やCRの概念が臨床的に役に立つか、ということである。それは果たして「治癒的」な力を有するのだろうか? 精神分析は医学モデルには当てはまらない部分が多いが、やはりその効果や治癒機序について無縁であるわけにはいかないため、この問いが最後に問われなくてはならない。筆者はCRを患者と構成することは、患者が自らと世界についてのより広い考え方を獲得する上で欠かせないものであろうと思う。治療者が患者が十分に把握していない(気が付いていない、否認している、抑圧している、など)「良質の現実」について提供することで、そこにより治療的な価値を含んだCRが生まれる。それを患者が取り入れ、それまでの現実の更新や統合を目指すことになるであろう。人の無意識には、新たなる情報を獲得してそれを統合していく力がある。Freud, S. (1919) は「精神分析の目標は、この統合synthesis であるが、精神統合psychosynthesis という概念の必要がないのは、人の心は抵抗を取り除くことで自らを統合する力を備えているからだ」と述べている。
 このCRの成立ということと伝統的な分析のモデルに従った概念、例えば抑圧や洞察などとの関連についても、一言述べておきたい。筆者の考えでは、現実やCRの提供は解釈とは異なるが、その解釈のための豊かな源を提供するものと考える。患者と治療者の現実の違いを見出し、それの由来について検討することは、すでにそこに解釈的な要素を含むことになるだろう。しかしそれは古典的な意味での解釈とは異なる。古典的な意味での解釈は、分析家がそれを正確にし、最終的な宣告として伝えるというニュアンスがあった。しかしCRの文脈で生まれる解釈は、基本的に主観的・客体的な性質を持ち、それ自体の正確さを問われることはない。それは最初は治療者により、彼自身の現実から生まれたものとして試みとして提案されるものであり、分析家はいかなる形でもその正確さを知る由はないのである。
 CRを通して統合できるのは、この解釈的な側面だけではない。CRの情緒的、知覚的な側面は、実際の目の前の他者がいるときに、よりよく患者の自己に統合される際に重要な役割を有する。それを通して患者は、自分のすべてについて治療者が同意できるわけではないことを体験するが、それはどの他者との関係についてもいえることなのである。
 この情緒的で知覚的な体験を通して、患者はいかなる思考も永続的であったり「正しく」あったりはしないことを体験する。患者の現実は分析家の現実に常に影響を受けて、その現実が更新される(同様に分析家の現実も患者のそれの影響を常に受けている。) 何事も一定ではなく、すべてが移り変わっていく。このCRの持つ刹那的 transient な性質については、近年の北山修の業績を除き、精神分析の文献ではほとんど扱われていないという現状がある(Kitayama1998)