2015年9月28日月曜日

精神分析における「現実」を再定義する 推敲 4


中立性と自己開示、禁欲規則
CRの概念は伝統的な精神分析の諸概念とどのような関連を有するのであろうか。たとえば中立性を考えよう。フロイト的な中立性の概念は、間主観性や関係論の立場からは批判の対象になることが多い(Mitchell, 1988, Stolorow, Atwood GF, 1997、など。しかし広義の中立性は最適な治療者としての在り方を追求する柔軟性ともつながる。現代的な中立性の概念は、分析家の「最適な応答性Optimal response」ないしは「最適な存在 Optimal presence」(Ricci, Broucek, Bacal 1998, Bromberg, 1996)と事実上同等であると著者は考えるが、この概念は分析家がその時々で患者が必要としているものに応じて平等にかつ柔軟に対応するという意味である。これは分析家がCRを構築することに貢献する中で、自分の現実と患者の側の現実を平等に扱うという姿勢と関係する。 言うまでもないことだが、分析家も患者もどちらが優位に立つというわけではなく、共同の作業を行うことでCRを構築していくのである。
 中立性として、治療者が現実の持つ主観的 subjective, 対象的 objective な性質の両側面を平等に扱うという意味を含むと考えるならば、それもCRの構築に貢献することになる。その意味での中立性は、治療者が自分の考え方がいかに自分独自の主観的な見方に左右されるかを考えることと同時に、自分にとって自然な見方は、相手にとっては異物にも似た外的な対象としての意味を持つものでもあるという両方を認識することだからだ。
 臨床例に則して言えば、シンディが元の彼に電話をしたという話を聞いて示した筆者の反応も、その反応を見たシンディの反応も、ともにそれぞれにとって主観的なものであり、かつ相手にとって対象的なものであった。そして一方が主観的なインパクトを持ったということが、他方にとっての対象性を増す上で重要な意味を持っていたのである。治療者としての筆者が努めなくてはならなかったのは、両者がまぎれもない現実であり、その「正確さ」についてどちらに優先順位をつけるべきものでもないということの認識であった。そしてそれが広義の中立性であり、そのような役割を発揮することが治療者に期待されているのである。
 分析家の匿名性についてはどうか。CRを患者とともに作り上げることは、匿名性の原則に抵触すると考えられるかもしれない。CRには言うまでもなく、治療者の主観的な体験が含まれるからだ。しかしCRは分析家の個人的な情報やファンタジーを開示することを必ずしも要請しない。分析家は治療場面において物事が彼の目に客観的にどう映るかを提供することで、治療に貢献する。Ricciも述べているように (Ricci, 1998)、重要なのは治療者の自己開示self-disclosureというよりは、自己提示self-presence (Ricci, 1998)なのである。筆者のシンディとのかかわりでも、筆者は自分の個人的な成育歴やファンタジーを披歴するつもりはなく、ただその場での主観的な感じ取り方を治療場面に貸与したという感覚を持っていたのだ。
禁欲規則との関係はどうであろう? 患者に禁欲を迫るべきかどうかという問題は決して全か無かという問題ではないものの、多くの臨床家が現実の日常臨床において直面するジレンマであるといえるだろう。古典的な精神分析家の関心はもっぱら、患者に過剰で不必要な満足体験を与えてはいないであろうか、という点に向けられる傾向にある。他方ではより支持的なアプローチを選ぶ傾向にあったり、いわゆる「コフート的」なアプローチに親和性を持ったりする療法家は、むしろそれとは逆の方針を選ぶ傾向にあるかもしれない。ともかく臨床家の関心の多くは、フロイトが述べたような「禁欲原則に従った」治療方針か否かということに向けられる。
 しかしCRを構築するということは、この患者を満足させるかフラストレーションを与えるかという問題に頭を悩ますことから臨床家を解放してくれる。あるいはその問題をやり過ごしてくれると言った方がいいかもしれない。現実は患者に満足体験を与えもするし、失望も与える。それはまさに現実(一般的な意味での)の性質そのものなのだ。分析家の役割は、CRが患者を満足させるか失望させるかではなく、筆者が「良質の現実 good reality」と呼ぶところのものを、いかに提供するかという問題である。
 では「良質の現実」とは何か。それはそれを患者に提供することが、外傷的とはなることなく患者の自己理解を促進し、それまで彼が見ようとしなかったことへの洞察を深めるようなものだ。その意味では分析家の提供する解釈もその「良質の現実」の一つとなりうる。
 伝統的な分析過程はストレスと苦痛に満ちたものと考えられがちであった。それは患者が神経症的、ないしは幼児的な願望を放棄することを促すものだったのである。たとえばFreud,Sは「精神分析療法の一連の進歩」(1919, p.164)で次のような指摘を行っている。「心の温かさや人を助けたい気持ちのために、他人から望みうる限りのことを患者に与える分析家は、神経症のための非分析的な施設が陥るような過ちをおかす。彼らの目標の一つは、すべてをできるだけ心地よくすることで、人が人生の試練から退避することである。そうすることで患者に人生に直面する力や、人生の上での実際の課題をこなす能力を与えるための努力を奪いかねない。精神分析的な治療においては、そのような甘やかしspoiling は回避しなくてはならない。(p.164)」という。ここでフロイトの言う「人生の試練」は、筆者が「良質の現実」と事実上同義であると言いたい。
 おそらく患者にとって一番重要でかつ過酷な現実とは、治療者が主観を持った存在であるということだろう。治療者は患者といて陽性の感情も陰性の感情も体験する可能性がある。時にはそれらのうちの陰性の感情も、として患者に伝えられることの意味があるかもしれない。なぜならそれは逆転移感情とは別の由来を持ち、患者が人生で出会う人々も同じ感情を持ちつつ、患者に伝えることが出来ないものであったかもしれないからだ。
 この文脈で重要なのは、Donald Winnicott の客観的な嫌悪 objective hate であろう。彼は患者が嫌いでなくなったときに「実はあなたが嫌いでした」と言ったという。そして書いている。「これは彼にとって重要な日であり、現実への適応の意味を持っていた。Winnicott, 1947、イタリックは筆者が付加)。
もちろん治療者の陰性感情をことごとく患者に表現していいはずもない。過剰な現実はトラウマとなりうるからだ。どの現実が患者にとって発達促進的となり、何がトラウマ的になるかについては、正確には知りようがないところがある。それらの意味はことごとく状況依存的だからだ。
 Freud, S.に関するエピソードであるが、彼が癌であるということを知った時、その事実を知らされなかった場合のほうがより外傷的であったと述べたと言われる(Kohut, 1977. p65)。しかし無論フロイト以外の誰かにとっては、癌の宣告は外傷的で自殺を引き起こす可能性がある。このように現実を他者にいかに伝えるかには十分な配慮が必要となろう。
 もちろん現実はつらいばかりではなく、充足的な、満足を与えてくれるものでもありうる。治療者が温かく共感的な態度を示したとしたら、これはフロイトの「禁欲原則」には反しているかもしれない。しかしもし患者が「他者はみな自分に対して敵対的で冷たい」という確信を抱いている場合には、治療者のそのような温かい態度は、その確信を打ち崩すような新たな現実を提供することになるだろう。Franz Alexander1956)の、非常に批判を浴びている概念である「修正感情体験」も、ここで新たな意味を持ち始めるといえよう。なお、この「修正感情体験」は、操作的な意味で用いられた場合に、より臨床的な力をそがれるというのが筆者の理解である。
 先に示した臨床例では、シンディが筆者を最初は懲罰的で、のちにはそれよりも優しい他者として体験したことは、その全体が意味のある現実として役に立った可能性があろう。