2015年9月27日日曜日

精神分析における「現実」を再定義する 推敲 3

精神分析における現実を再定義する
上に示したビニエットの中では、シンディは元夫に怒りのこもった電話をしたことを語ったが、それは治療者である筆者にとっては一つの明らかな現実であった。それはそれ相応のインパクトを伴って、筆者にある強い印象を与えた結果、記憶に刻まれたのである(注1)。そしてシンディの話を聞いた時の筆者の反応は、今度はシンディにとっての現実であり、それは拒絶的な印象を伴っていたのである。ここで注意すべきなのは、筆者がここで用いている現実の概念は、その内容もさることながら、その情緒的なインパクトをその内実として有しているということである。そしてそれゆえに一方にとっての現実は、今度は他方にとっての現実ともなりうる。筆者が失望したように感じられたことを意外に思ったということは、シンディにとっての現実となり、シンディが筆者に失望されたと感じて意外に思ったという現実は、今度はその意外性とともに、筆者にとっての現実ともなった。そしてその様な現実の体験の連鎖について話し合うことで、その間主観的な世界においてこれらの現実が共有されて「共同の現実」を構成したのである。
(注1)その意味で現実を「(その人の)記憶に刻まれるもの」と言い換えることさえも可能であろう。というのも筆者たちのエピソード記憶は、その出来事の新奇性や意外性ないしは情緒的な力価が伴うことで、はじめて海馬に刻印されるからである。逆に言えば、新奇でも意外でもない事柄は記憶にとどまることなく心の中を通過して行くに過ぎず、私たちの現実体験を構成することすらないのだ。
現実が外界に対象として存在し、その在り方を直接的にかつ正確に知ることなどできないかわりに、何らかの主観的な感覚印象を与えるという性質は、この例でわかるとおり、患者にとっても治療者にとっても同じである。それはカント哲学で言う「もの自体」、Wilfred Bion のいう”K”1970)につながる概念ともいえよう。
 このような現実の捉え方は、精神分析における患者治療者関係を転移的な側面と現実的な側面に分けるという二分法(Greenson, 1969)の意義への再考を促すことになる。この二分法は、分析家が優先的に把握することのできる現実を歪めた形での転移、という考え基づく。すなわち客観的に知りうる現実を想定する実証主義的positivistic な世界観に立ったものである。しかし筆者がこの論考で論じている現実は、転移の内側のことでも、外側のことでもありうる。いわば転移の中での歪められた治療者のイメージは、それ自体がもう一つの現実なのである。上述の臨床例では、筆者のことを自分のことを否定する母親のような存在と感じたというシンディの体験は、それが現実の筆者の歪曲されたイメージかどうかにかかわらず、彼女にとっての重要な現実となっていたことになる。
 このような現実の概念の重要な性質は、新たな現実が体験された場合は、それがそれ以前の現実にとってかわるのではなく、それに追加されるという形で更新される点である。現実はそれが追加されていくだけなのだreality is only added to reality。たとえばシンディは最初は筆者を懲罰的な人として体験し、それをこの電話のエピソードの後の最初の筆者についての現実としよう。そして次に彼女は筆者をそれほど懲罰的ではない優しい人と体験しなおしたが、それも現実であった。すると更新された現実とは、「シンディは最初は筆者を懲罰的と見なし、次にそれほど懲罰的とは感じなくなった」となるわけである。
 ここで筆者が強調している点は、現実は基本的には無謬的unfalsifiableであると表現できるかもしれない。これは、現実は新たな現実へと追加されるために、どこにも「正確」で「正しい」ものがないという意味である。そして主観的な現実はそれゆえにまさに現実になるということである。