2015年9月23日水曜日

治療の終結 推敲 3

さて心理療法において終結は大切であるという意見を持ちつつも、私はこの言葉にならない終了プロセスもまた味があると思っている。それは何よりも治療者とクライエントの両者が、それを体感し、味わっているからである。私は別れは言葉を交わすことではなく、味わい、感じ合うものであると思う。それは時には言葉にすることで、その重要な性質が損なわれる性質のものであるかもしれないのだ。敢えて言えば、すべて言葉にするのは、日本の文化に必ずしもそぐわないという気もする。取り立てて口にせず、しかし別れが近づくのを味わう。ここで口にしないのは相手への気遣いでもある。
 大切な人との別れの日に、一言も言葉を交わさずにいつもの道を歩いた、という体験を、私たちは持っていないだろうか? 言葉にしないことで耐えられる別れがある。あるいは別れそのものがはるか先に進行してしまっていて、言葉では追い付かないのだ。それはもちろんフロイトに言わせれば、「別れの辛さを否認している」ことにもなるかもしれない。しかし言葉にしないことで味わう別れもあるのではないだろうか? それが精神療法において生じることも自然なことだと私は考える。
この「自然消滅」のもう一つの特徴としては、クライエントの側に、あるいは治療者の側に、「いざとなったらまた会える」という気持が残されているという点が挙げられる。そこら辺をあいまいにする意味でも、別れをあまり口にしないというところがあり、この側面はまさに否認であり防衛かもしれない。でもそれさえ奪い去る根拠があるかについては、私には自信がない。
私はこの種の自然消滅的な終結を考えた場合、親子関係を二重写しにしている。あれほど濃密な時間のなかで、あれほど親を必要とし、親の側も自分の存在がこれほど求められるのだと感じていた子供との関係が、ある時期からどんどん遠ざかっていく。気がつくと子供は自分たちを必要としていないどころか、ことさら遠ざかっていこうとするのである。あたかも自分の世界を築くためには、親との関係はかえって足かせになるとでも言わんばかりに。そしてある日家を出て行ってしまう。時にはほとんど喧嘩別れのようにして。親は自分の命が少し軽くなったことに少しホッとすると同時に、一抹の寂しさを覚える。
 ところが子供の方も親のほうも、関係が終わったとは露ほど思っていない。子供の方は、「今はとりあえず必要ない。でもいずれはまた帰っていくだろう。」程度の気持ちはある。親のほうも「今は自分の人生で精一杯なのだろう。でもやがて帰ってくるだろう。」実はその「帰っていく」は盆暮れや法事程度なのだ。それこそ親の臨終のときでなければ、あるいはそのときになっても「別れ」は告げられない。それどころか、親の側が「私ももう長くは…」とでも言おうものなら「何を言っているの?」とすぐにでも否定されてしまうのがふつうである。こうして決定的な別れの言葉は回避され、その代わり別れはより心に刻まれるのである。こうして私たちの人生における別れは「自然消滅」の形をとる。
 治療者との内的な関係が残る
精神分析理論とも異なり、別れの否認にもつながる可能性のある「自然消滅」にもそれなりの意味があるのだろうか? そうだとしたら、治療関係には、あるいはそれを含めた人間の関係には、明確な別れがないからだろう。別れても、その人とは関係は心の中でつながっているからである。あとはごくたまに顔を合わせて、あるいは墓前で手を合わせて「確かめる」だけでいいのである。お別れや終結は、一つの、しかも重要な区切りではあっても、関係自体は決して終わらないのである。
こう言うことには少し勇気がいるのだが、人間はある時期が来れば、別れることで、よい関係に入ることが出来るとは言えないだろうか。もっと勇気を出して言えば、それが死別であっても、である。安定した穏やかな関係は、距離のある関係である。距離を持ちつつ、心の中ではお互いを考えているのだ。臨床家ならわかっていただけるだろう。過去に出会ったケースで頭に時折浮かんでこない人はいるだろうか?私はいつも回想の中で出会っているし、対話をしているのだ。それは別れ方によってはほろ苦いものになるかもしれない。そしておそらく向こうもそうやって出会っている。人との関係がそういうものである以上、別れは言葉では言わないものである。あるいは言ったとしても必ず「いつかまた会いましょう。」私はこれは特に別れや喪の作業の否認とは必ずしも言えないと思う。
とすれば終結とは、常に起きうるし、毎回起きている種のものであることがわかる。いつも「これで終わりかもしれない」ことを言語化しないものの、その覚悟で会うのだ。こうなるとドロップアウトすらも終結ということになる。


◆ある終結例