2015年9月19日土曜日

カウンセリングの初学者に向けて(3)


2.理解(共感)することそのための明確化で行くべし
私はよく初学者が心理療法の進め方がわからず、途方に暮れている姿を見かける。それも無理はない。心理療法とは本来海図のない航海のようなものである。ベテランの面接者でも、自分が何をすべきか、治療がどこに向かっているかが、ふとわからなくなってしまうことがしばしばあるものだ。
 もちろんこのような考えがあまり起きないようなセッションもある。クライエントがある辛い体験について息をつく間もなく訴えかけ、治療者がその話に共感することで時間が過ぎていく。セッションの終了時にクライエントは少し気持ちが楽になったと感謝し、次回のセッションを待ち望むというような状況である。しかしクライエントが最初は持っていた治療への期待や情熱を失いかけた時、あるいは最初から受診に消極的だったり、治療時間中ずっと黙っていたりする時、治療者はふと疑問を感じる。「そもそも心理療法とはなんだろう?私は今クライエントの前で何をすべきだろう?」そのような疑問は面接者が初学者であればなおさら起きてもおかしくない。
 そのような時、面接者がクライエントの治療動機、ニーズを改めて捉えなおすことは重要であると思う。「結局セッションに何を期待しているのだろう?」さらに端的に言えば、「セッション中の面接者とのかかわりの中で、何に、どこに達成感や安心感や癒され感、心地よさを感じているのだろうか?」と自らに問うてみることだ。

 面接者とクライエントの関係は非常にドライなものになりかねない。特に決して安くない料金が絡む場合にはなおさらである。クライエント側としては、自らのニーズが満たされなければ、一回一万円近い料金を支払うセッションを続ける意欲を早晩失ったとしても、それはもっともなことだ。一セッションごとにニーズが満たされれば、治療は継続していくと考えていい。逆にそれが起きていない時、面接者は大海原で無風状態に遭遇した帆船のような気分になるのである。
 クライエントのニーズは実にさまざまである。とにかく一方的に気持ちを吐き出す機会を求める人。セッション中ずっと面接者が目を見て言葉の一つ一つにうなずいてほしい人。あるいは自分の持ち込む質問に的確に答えてほしい人。しかしその表面上のニーズとは別に、あるいはそれらの根底にあるものとして、クライエントの「理解してもらう」ことのニーズがあることを、面接者は心得るべきである。それはかなり直接的に面接における心地よさや満足感と結びついている。
 私がなぜこのように考えるかといえば、これまでの経験上、クライエントの置かれた状況や有している精神疾患にかかわらず、「理解してもらう」ことが満足感の重要な部分を形成しないというケースは思い出せないからだ。人が心を持つとはすなわち、他者からそれを「理解される」ことを希求することとほとんど同義である。どんなに深刻な妄想にとらわれていても、どれほど深刻な自閉傾向を持とうとも、理解してもらえることが安心感や心地よさを生まないということは考えられない。
 もちろんクライエントが被害妄想に駆られている場合には、「理解される」ことは「知られる、暴かれる」という感情をも生み、恐ろしい体験ともなりうる。しかし「理解されることが恐ろしさを生む」ということの苦しさを「理解される」ことは、その人にとって安心感を生むはずである。またアスペルガー障害のクライエントで、人の気持ちを理解することにほとんど興味がなくても、あるいはいかに特異で奇妙な思考パターンや想念を持ち、それが人には理解しがたいということを思い当たらないような場合でも、それだからこそ「理解される」ことを渇望するというところがある。なぜなら彼らはおそらくその独特の思考や行動パターンのために、これまで誰からも理解されずにさびしい思いをし、孤独感を抱え続けてきた可能性が高いからだ。少し逆説的な言い方をすればこうである。「世の中でもっとも人から理解しがたい考えを持っている人こそ、人から理解してもらえることを強く希求しているということになる」のである。
この問題は、治療者のセッション中の問いかけの意味にもつながる。精神分析ではよく「分析家は余計な質問はすべきでない」ということを聞くことが多いが、実際の臨床場面では、たとえ精神分析でも治療者が患者に何らかの問いかけをすることはきわめて多い。その質問にはどのような意味があるのだろうか?和たちたちは何らかの目的を持って、あるいは興味本位で質問を患者に向けているのだろうか?
ここで一つのシンプルな理解を示すならば、治療者の質問は患者を理解し、最終的に共感をするための手段だということである。患者の体験を心に移しこむためには、詳細を明らかにしなくてはならない。そのためには情報が必要である。患者が「大変なことになりました」と深刻な顔で治療者に伝えたとする。その時点では治療者には「何か深刻なことが起きた、大変だ」ということしかわからない。漠然とした黒い雲を投げかけられたようなものである。それに対して質問を投げかけることでその黒い雲が徐々に形を表していく。それを把握したことを伝えることで、クライエントの側は理解されたという感覚をより確かのものにしていくのである。その意味では質問は「明確化」のためであり、それは患者の体験の理解とそれに向けての共感を深めるために、そしてそれのみのために行われるのである。
ちなみに治療者が自分を理解してくれようとして投げかけてくる質問は、おおむね患者にとっては侵入的には体験されないものである。もしそれがぶしつけだったり侵害を意味していて、それを患者が伝えるのであれば、もちろん治療者はそれ以上その件について問いかけることは控えるべきであろう。しかし相手を理解するという目的のために投げかけられた質問である限りは、治療者はその質問をしたことを後悔する必要はないのである。
  ところでここでの主張は、いわゆる支持的な療法の考えには沿っているものの、伝統的な分析的精神療法や認知療法にはなじまないと考える方もいるかもしれない。たしかにそれはクライエントの洞察を深めようとか、その思考プロセスを考え直そうといった考え方とは、大きく異なるように見えるだろう。しかしそれらと相入れないというわけではない。むしろクライエントが「理解された」と思えることは、それらの治療の出発点として考えるべきである。クライエントが人生の中で他者と似たような問題を繰り返し起こしたり、不適応的な考えを持ったり不用意な行動を起こしてしまうということが生じている場合、その際の当惑やいら立ち、不条理さや不全感を含めて面接者が理解することは治療の成立する前提条件とさえ言える。そこで「(そのような状況であれば)そう感じるのも無理はありませんね。」という気持ちを面接者が持つ事が出来、それをクライエントに伝えることなしには、クライエントがそこから抜け出すことを援助することなどできるはずはないのだ。
 ただし、とここで付け加えなくてはならない。人を理解することは難しい。否、面接者がクライエントを理解したと感じることはやさしくても、クライエント自身が理解された、と感じるような仕方で理解することは時として非常に困難なことである。とくに発達障害やパーソナリティ障害をともなうクライエントの場合、彼らの考えは私たちの理解しようという努力をすり抜けていくことがある。それはいくらダイヤルを微調整してもとらえることのできない周波数のラジオ局のようなものである。クライエントの持っている「理解されたい」という希求は、実はそれが完全な形で実現することは決してありえないことでもあるのだ。そしてそれに直面することを助けることもまた、心理療法の一つの重要な役割なのかもしれない。

特定の事例というわけではないが、私が接することの多い解離性同一性障害(以下「DID」とする)を持つクライエントの場合について紹介したい。というのも彼女たちにとっては、そのおかれた状態について面接者が理解を示すというプロセスは、それ自体が非常に大きな意味を持つようだからだ。DIDにおいては一人の人間の中に複数の人格が存在するという事態が生じるが、そのこと自体が通常の私たちの想像を超えている。その事情は現在のわが国の精神科の臨床に携わる人々にとってもあまりかわりがない。その結果としてDIDの訴えに耳を傾けた多くの臨床家がそれを不可解に感じたり、懐疑的になったりするということが実際に生じている。交代人格を持つという体験は、それ自体を聞くべきではない、話題にしてはならないという方針を持っている臨床家も少なくなく、それもあってDIDならではのさまざまな悩みを話すこともままならないということも起きている。するとDIDを有するクライエントの生活歴をとり、その抱える問題を真正面から捉えて理解を示すことそれ自体が、彼らにとっては大きな意味を持つのである。
 その意味では心理療法に携わる人たちにとってはさまざまな精神疾患についてそれらに馴染み深くなり、クライエントの持つさまざまな障害に対する深い理解を示すことができるようになることは大切なのだ。さらにはクライエントが人生上体験するさまざまな問題、たとえば離婚、別離、事業の失敗、破産、受験の失敗・・・などの体験を直接間接に持つことで、臨床家のクライエントを理解する力は深まる。ただし、それらの体験により臨床家自身が疲弊してしまわなければ、の話ではあるが。 
 
ところでこの「理解してもらうこと」というテーマは、患者の持つ孤独感の問題に行きつくことがわかる。自分の問題を理解してもらうことは、それまで誰にもわかってもらえずにひとりで人生を生きてきたクライエントの孤独感を和らげるという意味があるのだ。このように考えると理解される事を望まない人はいない、という意味はより明確になるだろう。それは人は深刻な孤独に耐えることはできない、ということだ。本来人は孤独を嫌うし、それを苦痛に感じるものなのである。孤独が好きだという人の場合には、それまで自分を理解し、愛してくれた存在の内的イメージが豊富なので、現実の友人やパートナーを持たないということがそれほど響かないというわけだろう。それらの内的イメージを持てるほどに幸運でない人たちは、それだけ孤独に耐えることができなくなる。