2015年8月29日土曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 18/50)

「群生秩序」の理論
このようないじめの生じる機序について、巧みな説明を行っているのが、内藤朝雄氏の、「群生秩序」の理論である。
 内藤氏の描くいじめの世界は、私達が通常想像していたより遥かに深刻で恐ろしいが、同時に極めて説得力がある。いじめの生じている空間では、いじめや犠牲者の死を悪いこと、痛ましいこととする通常の感覚や常識が通用しないような「普遍秩序」が存在するというのだ。そのような社会において一番大事なのは、今、ここの「ノリ」であり、それにしたがって犠牲者をいじめ、喜ぶことである。そして一番いけないのは、その集団のノリを制止しようとする試みである。つまりそれに異議を唱えたり、そのような行為を悪いこととして制止しようとしたり、外部に相談したり訴えたりすることだ。そのように試みた人間はすぐさま、いじめられる側にされ、その社会で生きていけない。
 このような秩序の存在を前提とすることで、いじめに関与した人たちに見られる不可解で信じがたいような行為も理解可能となる。いじめの自殺が生じた際も、彼らには同情の念はなく、「Aが死んでせいせいした」とか 「Aがおらんけん暇や」「誰か楽しませてくれるやつ、おらんと?」という反応を見せるという。つまり「群生秩序」においてはいじめは正当化され、いじめられた人が自殺したとしても、それは仕方のないか音であるとされる。そしていじめに加担したとされる教師に対する同情が寄せられる。またいじめにより子供を失った親御さんは、いじめの首謀者を訴えようとしても、そうすることでその地域に居られなくなってしまう危機感を持つという。
 いじめの実態を知らない人は、いったいそんな世界があるのかと疑うであろう。しかし閉鎖された社会ではそれが起きうる。というより人間の生きている社会では、A秩序、B秩序、C秩序といった秩序のすみわけが行われ、個人がそのどこに属するかによりどれに従うかが決まる。群生秩序においていじめに加担した人が普遍秩序に属している場合には、それまでの虐待者とは全く異なる常識に従うことになる。するとたとえば学校社会とは全く関連のない塾で出会った場合には、いじめっ子、いじめられっ子とは異なる関係性がそこに生じることになり、ごく普通に挨拶をしたり振る舞ったりする。いじめ型のナルシシストが、常にどこでもそうだというわけではなく、状況依存的であり、群生秩序に属している時にだけ発揮されるということも生じてくる。
私はこの群生秩序の話は、日本社会一般の話に拡張できると考える。それは日本の学校や企業に蔓延する隠蔽体質に表される。この問題は昔ほど深刻ではないのかもしれないが、今でもしっかり存在する。最近の東芝問題などは、それをある意味で典型的な形で露呈しているのではないかと考える。
日経新聞電子版(2015/7/20 23:12)によれば、超一流企業である東芝が組織的に利益操作をしていたことが判明し、2015年の720日には歴代3社長が辞任へ追い込まれた。前代未聞の不祥事であるが、なんと東芝の歴代3社長が現場に圧力をかけるなどして、「経営判断として」不適切な会計処理が行われたということである。利益操作は2008年度から14年度の4~12月期まで計1562億円にのぼるというのだから、ただ事ではない。報告書では、経営トップらが「見かけ上の当期利益のかさ上げ」を狙い、担当者らがその目的に沿う形で不適切会計を継続的に行ってきたという。つまり不正は内部で関係していた人間にとっては明白な事実であったが、それを告発できない。「上司の意向に逆らえない企業風土」があったとされる。
この際具体的にどのような不正が働いたのかはさほど重要ではない。ある集団、この場合は東芝の中で群生秩序が成立し、そこでは全体のノリが最優先されるという事態が起きていたということである。そこでは個人が善悪に従った意見(すなわち普遍秩序に立った見解)を述べても、それはその秩序を乱すことであり、その秩序の中では悪である。そしてそれを告発したり異議を唱えたりする行為はその人が即座に排除するという結果を導く。
そのような組織に君臨し続けた3代の社長は、そこでいわばいじめ役としてのナルシシズムの満足を体験していたということになる。ただしここで東芝という組織の中で、いじめが起きていたかは私は知らない。しかし群生秩序の支配する集団においては、そこで不正をすることを迫られているということ自体が、それに従わない場合にこうむるであろういじめの脅しに常にさらされていたことを意味し、それがいじめ体質であることと実質的には変わらないであろう。
さらには戦時中の日本においては、日本社会そのものが群生秩序に支配されていたとみなすこともできよう。その際はまさに個々人の命は、戦争に熱狂する日本全体の「ノリ」に反する場合には価値のないものとして葬りさえられた。つい最近のニュース記事を引用しよう。
反戦の訴え、命続く限り 元特攻隊員、沈黙破り体験語る
今村優莉(朝日新聞 WEB20157231341分)
 あと1日戦争が長引いていたら、なかった命だった。1945年8月15日に出撃を命じられたが、終戦を迎えて命拾いした90歳の元特攻隊員が、長い沈黙を破り、自らの体験を若い世代に語り始めている。命が軽く扱われるのが戦争だという意識が、多くの人から薄れてきたと感じるからだ。
 埼玉県熊谷市の沖松信夫さん(90)。日中全面戦争のきっかけとなった盧溝橋(ろこうきょう)事件から78年を迎えた今月7日、東京都内の中国大使館に講演者として招かれ、こう語った。
 「日本国民として生まれたからには、死にたくないと言えば非国民とみなされた。特攻隊員は、命を惜しんではいけなかった」
 「平穏な生活が一番幸せなんだと、特攻を命じられて初めてわかった」
「死にたくない」「人の命は尊い」は、普遍秩序の文脈では正しくても、群生秩序においては悪になる。
いじめ型ナルシシズムの本体

 ここで改めて、いじめ型ナルシシズムの本質について考えてみよう。いじめが行われている時、どのような自己愛の満足が体験されているのだろう? それは「自分たちはマジョリティであり、特別なんだ」という満足感や特権意識であろう。その際立った特徴は、それを複数の人間が共有しているということだといえる。これまで検討してきたいくつかのタイプのナルシシストにはなかった特徴がこれだ。そして内藤氏があげているのが、いじめに伴う他者をコントロールすることによる全能感であるという。人はまず心の中に不全感を抱えている。ところが「心理システムの誤作動」(内藤)が生じることで、「突然自己と世界が力に満ち」「すべてが救済されるかのようなあいまいな無限の感覚が生まれる」と説明する。
この自己愛的な満足が、後ろめたさや罪悪感により軽減されることはあるのだろうか? もし当然だ、と考えるならば、これは普遍秩序にのっとっている私たちの発想であろう。もちろんその可能性も無視できない。心の中で手を合わせながら、虐待に加担する人もいるだろう。ただし群生秩序が浸透している場合には、おそらく虐待者の目には、非虐待者は通常の人間とは別に、おそらく贖罪の山羊のように目に映っている可能性がある。その集団の「ノリ」という絶対に侵すべからざるものものにとって必要な犠牲者である。恐らくその際の罪悪感は深く抑圧、解離されているはずだ。さもないと苦しくてその場にいられなくなってしまうであろう。

私たちはこの群生秩序と類似性のあるものを、たとえばある種の教団や独裁政権の中に見ることが出来る。そこでは集団全体のノリの代わりに、独裁者、教祖様が絶対となり、その命令が善悪の判断を超える。「ポアする」ことが人類を救うと言われれば、その意味するところを批判できずに、優秀な学歴を持つ人間でも、地下鉄にサリンを撒きに出かけてしまうのである。