2015年8月28日金曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 17/50)

8章 いじめ型の自己愛者

 いじめという現象にもナルシシズムの満足が関係する。他人をいじめている時は、「自分や強者なんだ」という満足体験が伴う。特定の対象をいたぶることでその満足が高まるという事態が生じているのであろう。それに陥っている状態の人を「いじめ型ナルシシスト」と位置づけよう。またいじめのこのナルシシズムは、日本社会においては複数の人々によって共有されるという特徴がある。これらの事情について検討しよう。
クレイマー型の自己愛者について書いた時、彼らが社会の中である状況で、限定的に自己愛者になってしまうという事情について述べた。彼らは普段は職場や家庭で、周囲とも特に問題なくやれているが、あるサービスを受ける側になると、魔が差したように、自分の権利や特権意識を声高に訴えるようになる、というわけだ。いじめ型ナルシシストにも類似の事情がある。彼らの場合は自分がいじめられる側であったという体験も大きく関与している場合がある。つまり「自分もいじめられたのだから」という体験は、彼らのいじめを正当化したり、それに拍車をかけたりする可能性があるのだ。
 ちなみにいじめは普通の人でも行う場合がある、とは言ったが、つねに積極的にいじめのリーダーシップを取る人間の多くは、厚皮型型、サイコパス型の自己愛を持った人間である可能性も否定できない。しかしその周辺の、いじめに加担する人の多くは、実はそれ以外の場面では案外普通の人々なのだ。彼らが体験するのは、「自分がやらなければ、今度は自分が狙われる」という恐怖心と、いじめに伴う若干のナルシシズムの満足の両方であろう。
 おそらくいじめる側の心理を探る上では、いじめる者の自己愛の問題を考える場合には、リーダー格の人間による積極的ないじめと、それ以外の普通の人々による、消極的ないじめを分けて考える必要があろう。しかしいじめを行っている瞬間には、いずれの種類にせよ、そこにある種の「俺は強いんだ!」的な高揚感が体験されていることには変わらない。その瞬間には「いじめ型のナルシシスト」になっているのである。また普通の人でも、いじめの最中はリーダー格の心性が乗り移るかのように、被害者に対しての同情の念がわかず、遊び感覚でいじめに加担するという話を聞く。この後者のいじめは一種のマインドコントロールに近いと考えら得る。
いじめの問題は、以前にも述べた「ナルシシズムの階段」とも結びつく議論でもある。[この部分、後で追加する必要あり。]「上には媚びて、下には傲慢」という自己愛的な社会における行動原則は、良きにつけ悪しにつけ、社会に生きる私たちの多くが、程度の差こそあれ、従っているものである。そこでは「上から下へ」への権力の誇示や支配はむしろ当たり前のように行われる。
 しかしいじめにおいてはこの「上から下へ」とは別の力、すなわち「集団から個へ」という力が働く。クラスの中で、本来は学年差がなく、「ナルシシズムの階段」の段差がそこに明白な形では存在しないはずなのに、そこにいじめる集団といじめられるという関係は出来上がってしまうのである。ただしもちろん、そこに「上から下へ」のベクトルが加わると、いじめはさらに深刻になろう。たとえばいじめる集団のリーダーシップを、年上、目上、学年が上の誰かがとっている場合である。
最近耳目を集めた「川崎のいじめ殺人」事件を振り返ってみよう。
この事件は20152神奈川県川崎市の河川敷で13歳の中学1年生の少年A殺害され、遺体を遺棄された事件という悲惨な事件である。事件から1週間後に少年3名が殺人容疑で逮捕されたが、このうちの主犯格B18歳で、Aに直接手を下したとされる。この場合、BBに命令される形でくわえられた暴行においては、「上から下へ」と「集団から個へ」の両方の力が働いていたことになる。
いじめが生じるメカニズム
いじめはおそらく集団が存在するところには何らかの形で生じる運命にはあるにしても、それが1980年代ごろより、わが国でもしばしば問題になっているとしたらそれはなぜだろう? これもモンスター現象と同様の社会的な背景が関係しているのだろうか?
本書はもちろんいじめに関する本ではないが、私自身のこの問題についての立場を簡単に示しておきたい。
 まず、私はいじめ自体は決して異常な現象だとは思わない。それは人間の集団の持つ基本的な性質に由来すると見てよいだろう。私たちはある集団に所属し、そこで考えや感情を共有することで心地よさや安心感を体験する。逆に集団から排除され、孤独に生きることは、不安で恐ろしい体験にもなりうる。これは「社会的な動物」としての人間の宿命と言える。
 そこで問題となるのがその集団の有している凝集性だ。それが高いほど、そのメンバーはその集団に強く結び付けられ、その一員であることを保障される。そこには安心感や、時には高揚感が生まれる。ところがある集団の凝集性が増す過程で、そこから外れる人たちをいじめ、排除するという力もしばしば働くようになる。それを「排除の力学」と呼んでおこう。前著「恥と自己愛トラウマ」でも強調したことである。この「排除の力学」自体は異常な現象ではないが、それがいじめを加速し、犠牲者を自殺にまで追い込むという事態が、この高度に発達した現代社会においても放置されてしまうことが異常であり、憂慮すべきことなのである。
ある集団が凝集性を高める条件は少なくとも三つある、と私は考える。一つは①利害の共有である。集団にとっての共通の利益に貢献するメンバーは、集団に大歓迎される。オリンピックで活躍した選手は無条件でヒーロー扱いされ、空港ではたくさんのファンからの出迎えを受ける。錦織君がテニスの試合に勝つたびに、私たちは彼の母国である日本の国民であるという誇りや昂揚感に浸るわけである。
もう一つは、②仮想敵の存在、すなわち集団のメンバーが共に敵ないしは想像上の敵を持っている場合である。集団はある種の信条を共有することが多いが、そこに「~ではない」「~に反対する」「~を排除する」というネガティブな要素が加わることで、より旗幟鮮明になり、メンバーたちの感情に訴えやすくなる。そしてその仮想敵を非難したり、それに敵意を示したりする人は当然そのグループの凝集性に貢献し、それだけ好意的に受け入れられることになる。
そうして第三番目に③グループの閉鎖性が挙げられよう。すなわちメンバーはその社会から外に出ることが出来ず、その中だけで生きていかなければならないという事情である。
昨今は日本の政治家の発言に対して中国や韓国が反発して声明を発表するということが頻繁に起きているが、反日であるということはそれらの国民の間の凝集性を高める上でさぞかし大きな意味を持っていることと思う。そして集団がまとまる、凝集力を発揮するという力学は、その中の一部の人々を排除するという方向にも働くということが問題なのだ。そしてメンバーはその集団から外に出て行くことが出来ない。
 上に述べた二つの条件(①利害の共有、②仮想敵の存在、③グループの閉鎖性)はそのまま、仲間はずれや村八分、いじめの対象を生む素地を提供しているのである。なぜなら集団の共通の利益に反した行動を取ったり、集団の仮想敵とみなせるような集団に与したり、それと敵対することを躊躇しているとみなされたメンバーが排除されることによっても、集団の凝集性が高まるという条件が成立するからだ。そしてここが肝心なのだが、そのようなメンバーが存在しないならば、それは人為的に作られることすらある。これがいじめによるトラウマを負わされるのきっかけとなることも多いのだ。
ここで私たちは次のような疑問を持っても不思議ではない。
人は「どうして仲間外れを作らなくてはならないのか? そうしなくても集団の凝集性を高めることができるのではないか?」
 確かにそうかもしれない。互いを励ましあい、助け合うことで和気あいあいとした平和的な集団となることもあるだろう。しかしそこでリーダーの性格が集団の雰囲気に大きな影響を与えることに注意したい。リーダーが温厚で面倒見のいい性格であれば、いじめも起きにくいだろう。しかしリーダーが若干でもサディスティックな性格を持っている場合は、あるいは先述したとおり厚皮型やサイコパス的なナルシシストの場合は、攻撃の対象をすぐに見つけ出し、周囲を扇動していじめに向かわせる。そこで上記の二番目の条件(仮想敵の存在)が働くことで強い「排除の力学」が働き、いじめの構造は簡単に作り出されてしまう。
そしてそのような時、仲間外れをされそうになっている人に関して、別のメンバーが「どうして彼を除外するのか。彼も仲間ではないか? みんな仲良くやろう!」と訴えるのは極めてリスキーなことである。なぜならグループを排除されかけている人を援護することは、その人もまた排除されるべき存在とみなされてしまうからだ。「みんなが仲良くやろう」というメッセージは事態を抑制するどころか逆方向に加速させる可能性がある。こうしてグループから一人が排除され始めるという現象は、それ自体がポジティブフィードバック・ループを形成することになり、事態は一気に展開してしまう可能性があるのだ。
いじめの被害に遭った人たちが多く語るのは、一番恐ろしいのは、その集団から外されてしまうことだという。そのためにいじめを甘んじて受け、また誰かの受けているいじめを傍観したり、いじめに加担したりすることになるのである。
この「排除の力学」は、実際には排除が行われていない時も、常に作動し続けることになる。メンバーはその集団内で不都合なことや理不尽なことを体験しても、それらを指摘することで自分が排除の対象になるのではないかという危惧から、口をつぐむことになる。私がこの集団における「排除の力学」についてまず論じたのは、結局このような事態が日本社会のあらゆる層に生じることで、いじめによるトラウマを生み出していると思えるからである。
日本の社会におけるいじめの問題を考える時、その構成メンバーの均一性は非常に大きなファクターとなる。一般に集団においては、お互いが似たもの同士であるほど、少しでも異なった人は異物のように扱われ、「排除の力学」の対象とされかねない。日本は実質上単一民族国家に非常に近いといってよく、メンバーは皆歩調を合わせて行動し、何よりも「ほかの人と違っていないか」に配慮をする傾向にある。
ほかの人と違ってはいけない、という発想は、すでに学校生活が始まる時点で生じている。私が小学校に上がった年、学校に制服はなかったものの、みな判で押したように、男子は黒のランドセル、女性は赤のランドセルだった。その中で一人だけ黄色のランドセルだったU子ちゃんのことは、いまでも鮮明に覚えている。それだけ目立っていたのだ。幸いU子ちゃんはいじめの対象にはならなかったが。なぜU子ちゃんのランドセルのことを私はそれほど鮮明に覚えているのだろう。おそらく6歳の私の中には、既に「みんな同じでなくてはならない」があったのだ。だから黄色のランドセルを背負っているU子ちゃんに対して強烈な違和感を持ったのだろう。「よくみんなと違う色のランドセルで平気なんだな。」
因みに最近のネットの宣伝を見ると、ランドセルはその気になればネット上でいくらでもカスタマイズでき、好きな色や飾りを選んで自分独自のオリジナルなランドセルを作ることができるらしい。しかしそうなると、そのうち普通の既成のランドセルを背負っていることが目立つことになりかねない。世の中でいじめの種は尽きないのである。
6歳ないしはそれ以前から日本人の心の中にある「皆と同じでないと・・・」という気持ち。このような現象はもともと生物学的、民俗学的に「似た者同士」の集団においてより生じやすいはずではないか? アメリカなどでは、所属する集団の構成員のどこにも目立った共通点が見出せないということは普通に起きる。彼らの皮膚の色も人種も体型も最初から全く異なっているのである。そして小学生達は色も形もまちまちのカバンを背負い、あるいはぶら下げているのである。