2015年8月27日木曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 16/50)

 「お・も・て・な・し」とも関係している
もう少し言えば、このモンスター化の問題は、日本人の「おもてなし」の心ともかなり関係しているのだ。他人をもてなすことが、モンスター化の誘因となる、ということは十分考えられることである。もてなすという善意に基づく行為が、それによりトラウマを受けてしまう原因となるというのは何とも矛盾した現象といえよう。
 日本はもともと、もてなしの文化と考えられ、サービス業における客対応の質は極めて高いレベルにあることが知られている。「お・も・て・な・し」は、一昨年(2013)の流行語大賞にもなったが、これにはどのような意味があるのだろうか? 現代の日本人の精神性が最近になってさらに高められ、愛他性や博愛の精神が日本人の行動の隅々まで行き届くようになったのだろうか? いや、そう考えるのは短絡的だろう。
 「おもてなし」は、一種の戦略としてとらえられるべきなのだ。
 飲食業そのほかのサービス業間の競争が進む中で、いかに一人でも多くの顧客を取り込むかに関するマーケットリサーチが進み、顧客がより心地よさを感じるような対応を各企業が目指すようになっている。これは市場経済の原則に従った結果である。店員が「おもてなし」の精神をうたうことは、ちょうどコンビニ間の競争が激化したおかげでお弁当がよりおいしくなり(あるいは少なくとも口当たりがよくなり)、菓子パンがより食欲をそそるようになるのと同じである。今のコンビニのパン売り場はどれだけ厳選された菓子パンが並んでいることだろう?それは企業があらゆる手を使って顧客をつかもうとした結果勝ち残った商品たちだ。つまりは売る側の最大の「もてなし」とは、売り上げとして反映されているような菓子パンを供給することなのだ。
 私が小さい頃は、パン屋さんに行っても丸いアンパンと楕円形のジャムパンと、グローブ型のクリームパンと渦巻き型のチョコレートパンの4種類しかなかったと記憶している。きっとパン屋さんは「パンとはこんなものだ」という慣習と常識に従い、購買者の顔をあまり思い浮かべずに作っていたのであろう。
「おもてなし」の精神が強調されるようになったことは、日本がそれまでの伝統からより自由になったこととも関係しているだろう。菓子パンはこのようにあるべき、ジャムパンはこの形、という伝統と、何が好まれるか、ということは別の問題なのだ。だから時代が遡ればさかのぼるほど、人は慣習を優先させた。「おもてなし」は、心優しい人が、それぞれの状況で、個別的に発揮しているにすぎなかったのである。
 思い出せば、昔は人のサービスは今ほど行き届いてはいなかった。「おもてなし」は例外的だったのである。JRの前身の、「国鉄」といわれていた時代の改札口で、切符切りバサミをパチパチやっていた駅員さんは、いつも愛想がなく仏頂面だった。タクシーの運転手もまた不機嫌そうで、近距離のタクシーに乗る時は、乗車拒否されるのではないかと運転手の顔色を窺ったものだ。
それでも諸外国よりはましだったのであろう。私は米国に留学している間には、店員に愛想よく扱われるという発想はあまり持たなくなっていた。彼の地での客の扱いはかなり大雑把である。客を待たせて店員同士がおしゃべりをするということはよく見かけるシーンだった。
  私が2004年に帰国して再び暮らすようになった日本は、サービス向上の努力や民営化の影響で、以前よりさらに改善されたという印象を持った。お店の従業員はみな顧客にとても愛想がいいのである。コンビニで100円のアイスを買っただけで手を胸の前に合わせて最敬礼されるなど、1980年だ(留学前)に留学する前にはなかったことだ。
 こうなるとお店におけるマナーの良さは横並びという感じで、少しでも不愛想な店員のいる店はそれだけですぐに後れを取ってしまう。「お客様に失礼があってはならない」ことを至上命令として刷り込まれている店員は、モンスター・カスタマーからとんでもない要求を突きつけられて一瞬絶句しても、まずは「大変申し訳ありませんでした」とまず受けてしまうことだろう。そうすることで、無理難題を受け入れるというベクトルを最初に定めてしまうのである。
 今の時代に「お・も・て・な・し」が改めて流行語になることは興味深いが、これも日本にオリンピックを招致するための戦略から発していたことを忘れてはならない。そしてそれがそれなりにウケるということは、諸外国もその価値がわかるほどに追いついてきたということだろう。そしてその時点で私たちは諸外国からの訪問客からの無理難題を聞かざるを得ない立場に自らを追い込んでいるのではないかと、少し心配にもなる。「お・も・て・な・し」は確実に、カスタマーが増長する一因となっていると思う。
本書をこれまでお読みの方は、この問題は自己愛トラウマとも結びついていることを理解されるかもしれない。「おもてなし」を受けて当然と思っているカスタマーは、もうちょっとやそっとでは満足しない。高いお金を出して飛行機のファーストクラスに乗った時のことを想像していただきたい。搭乗後、何かの都合で飲み物がエコノミークラスの人たちに先に配られているのを知ったとしたら、「こちらは高いお金を出したのに何だよ!」と、ファーストクラスとしてのプライドを痛く傷つけられるに違いない。人より先に飲み物を飲めないので怒る、とはいかにも子供っぽいが、プライドを傷つけられた人間には極めて重大な問題なのである。モンスター化している人はこの、本来受けるべきだと信じているサービスを受けられないいことから来る自己愛的な傷つきに反応している可能性があるのだ。

モンスター化は普通の人に生じる
ここで再び問うてみたい。モンスターたちは、深刻な自己愛の病理や、未熟なパーソナリティを有した人たちなのだろうか。本書では、私は彼らを、一種の自己愛者ととらえている。しかしそれは彼が社会の与えらえた状況で、一時期的にそうなる、という意味である。そのことは、モンスターと言われる人たちを観察してみるとわかる。
 モンスターと言われる人々の多くは、少なくとも社会適応が出来ていているのだ。学校側を困惑させる例として本などに描かれるモンスターペアレントたちは、曲がりなりにも家庭を築き、「子供思い」で「熱心な」親で通っている。家族のあいだに重大な亀裂が生じている様子はないのが普通だ。最近では夫婦が歩調を合わせて、あるいは親子が連携してモンスター化するとさえ伝えられているのである。彼らは主婦として、会社員としてそれなりの機能を果たしている以上、彼らを病的なパーソナリティの持ち主と考えることには無理がある。
 私の印象では、モンスター化する人たちは性格的にも特に特徴となる点もない、私たちの中にもたくさん存在するような人々のである。彼らがクライエントとして店や企業と関わったり、子供の通っている学校側と対峙したりする状況で、「魔が差して」しまったかのように無理難題を持ち出す、ということが起きているようである。
 もちろんモンスターの中には人格的に極端な偏りがあったり、精神疾患を抱えていたりする人たちもいる。その場合には彼らが既にかかわっている医療側の介入により、事態は比較的早く解決に向かう傾向にある。問題はそれ以外では適応がよく、それなりに社会でリスペクトを受けているような人々が、ある特定な場面でストップが効かなくなってしまうような状況なのだ。

学生運動の闘士たちは自己愛的だったり「未熟」だったりしたのか?

私がモンスターペアレントの現象を現代人の人格の問題と結びつけることに消極的であることのもうひとつの理由は、学生運動の顛末を見ていたことと関係している。1960年代、70年代に日本で、あるいは世界で学生運動という名の大変なモンスター化現象があった。学生が教授を「お前」呼ばわりし、集団でつるし上げる、デモ行進をして大学に立てこもったり国会を取り巻いたりするという大変な時代があったことを、現在五十歳代やそれより上の世代の方なら鮮明に覚えているはずだ。当時の学生たちのナルぶりは驚くべきだろう。敬意を表し、その教えに従うべき教師を、逆に威嚇し恫喝する。それは強烈な快感と、同時に深刻な後ろめたさを伴う行為だったに違いない。
 あれは当時からすれば、当時の学生の未熟さや他罰傾向として説明されたであろう。「近頃の若いものはどうなっているんだろう?」という大人からのコメントが一番聞かれたのもこの時期だったのだろう。
 しかし時代は変わり、学生運動はすっかり過去のものになっている。当時未熟だったり甘やかされていたはずの学生たちは、社会では普通に管理職の側に回ったり、すでに引退をして孫を抱いたりしている(ちなみにかの元都知事も、大学生時代は学生運動の闘士であったという)。彼らはすっかり普通の市民として社会に溶け込み、その一方では現在の学生たちは学生運動世代以前よりさらにノンポリになっている傾向すらある。彼らは未熟な性格、一種のパーソナリティの異常をきたしていたのだろうか? 否、であろう。今から思えばあの運動は時代の産物だったのだ。
以上「モンスタータイプの自己愛者たち」について考えた。結論から言えばモンスターたちは実はその多くが普通の人たちであり、その人たちにより頻繁に「魔が差す」ことを許容するような社会環境が、最近になって生じてきているというのが私の主張である。
ただしモンスター化する人々の一部に何らかの精神医学的な問題が存在する可能性を否定するものではない。事実どのような状況でも決してモンスター化しない人もいれば、簡単にモンスターになってしまう人もいるだろう。この後者の多くは、他人の行動をとりこんでしまう被暗示性の強い人々であると考えるが、パーソナリティ上の問題をより多く抱えている人たちも含まれるようだという点を最後に指摘しておきたい。

参考文献
(1)嶋崎政男 『学校崩壊と理不尽クレーム』 集英社新書、2008
(2)小松秀樹 『医療崩壊「立ち去り型サボタージュ」とは何か』 朝日新聞社、2006
(3)諸富祥彦 『子どもより親が怖い カウンセラーが聞いた教師の本音』 青春出版社、2002
(4)尾木直樹 『バカ親って言うな! -モンスターペアレントの謎-』 角川Oneテーマ212008
(5)岡野憲一郎 「ボーダーライン反応で仕事を失う」『こころの臨床アラカルト Vol. 25, No1. 特集ボーダーライン(境界性人格障害)』星和書店、2006


推敲4/50の追加部分。
この文章を書いている間にも、ニュースは寒い国で副首相が独裁者に銃殺になったという。第1書記が推進する山林緑化政策に不満を表明したことなどが理由という。韓国の情報筋は、現第1書記が2012年に就任して以降、北朝鮮で80人以上が処刑されたと指摘し、見せしめに幹部らの命を奪う「恐怖政治」が続いているとの分析を示したとのことである。自分に異を唱えただけで撃たれてしまう。これほど理不尽なことが続く裏には、指導者の恐ろしいまでに肥大した自己愛と、それを傷つけるいかなるものも激しい怒り(自己愛憤怒)を生むという事情があるのだろう。