2015年8月26日水曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 15/50)

台風一過。


アスペルガー障害の自己愛的な怒り-「浅草通り魔殺人事件」を例に

 アスペルガー型の自己愛についてはすでに項目を立てて述べたが、その怒りの問題について、ここで改めて述べたい。
 「自己愛トラウマ」→怒り という図式については、すでに説明したとおりである。問題はこの自己愛トラウマが実に理不尽で、身勝手なものであるということであった。自己愛者たちは、きわめて不可解な理由で傷つき、怒る。一般人からみたら「どうしてそんなことでキレるの?」「それって逆ギレじゃない?」と言いたくなるような理由で怒るのだ。そしてその怒りの理不尽さ、理解不可能さは、実は彼らの自己愛の病理の深刻度に比例していると言える。自己愛の病理が深く、彼らの「ナルシシズムの風船」が異様に膨らんでいると、普通の人には思いつかないような理由でも、その風船への刺激となり、それが破裂して怒らせてしまう可能性が高くなるのだ。
そこにアスペルガー障害の病理が加わると、自己愛トラウマの起き方もその不可解さが増す。彼らが独自のロジック、考え方のパターンを持っていて、通常の考え方では追えないということが一番の原因と言えるのだ。

2001430日、東京の浅草で19歳の短大生が刺殺されるという事件が発生した。ずいぶん前の話だが、犯人のレッサーパンダの帽子をかぶった奇妙な男の写真を覚えている方も多いだろう。札幌市出身で当時29歳の無職のこの男は、普段は非常におとなしい性格だったというが、浅草の繁華街で見かけた女性に「友達になりたいと思って」声をかけようとして、結局この凶行にいたったという。「歩いていた短大生に、後ろから声をかけたらビックリした顔をしたのでカッとなって刺した」と供述しているとのことである。

これは私の憶測であるが、この犯人はおそらく普段他人から相手にされていないことにいらだち、フラストレーションをためていたという可能性がある。アスペルガー症候群にしばしば見られるのはこの種の被害者意識であり、自分を理解しない社会への憤りである。興味を持った女性に対して向けられた攻撃性の一部はそれに関係しているのだろう。
 ここで重要なのは、犯人はこの若い女性に「びっくりされた」ことにプライドを傷つけられた可能性が大きいということだ。彼女に馬鹿にされた、というのが体験としては近いのではないだろうか。つまり「自己愛トラウマ」だった可能性があるのである。もちろんそう感じた思考過程はブラックボックスの中であるが、人の表情に見られる感情表現を誤認する、あるいは理解できないという問題は特にアスペルガーの患者さんたちに顕著である場合が多い。彼らの予測不可能な自己愛の傷つき → 不可解な怒りの暴発 というのがアスペルガー型の自己愛を特徴づけているわけだ。
すでに紹介した「恥と自己愛トラウマ」の中でもう一つ私が挙げている怒りの例も、アスペルガー型の自己愛の傷つきに由来するものとして比較的いい例となっているので、これも紹介したい。(と言いながら、自己剽窃を続ける。)

「秋葉原通り魔事件」における犯人の怒り

この事件は20086東京秋葉原で発生し、7人が死亡、10人が負傷したというものである。その唐突さと残虐性のために、おそらく多くの私たちの心に鮮明に記憶されているだろう。犯人の運転する2トントラックは、交差点の赤信号を突っ切り、歩行者天国となっている道路を横断中の歩行者5人を撥ね飛ばした。トラックを降りた犯人は、それから通行人や警察官ら14人を立て続けにダガーナイフでメッタ刺しにしたのである。
犯人は青森県出身の25歳の男性KTで、岐阜県の短大卒業後、各地を転々としながら働いていたという。「生活に疲れた。世の中が嫌になった。人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」などと犯行の動機を供述したが、携帯サイトの掲示板で約1000回の書き込みを行っていたという。携帯サイト心のよりどころにしていたわけだが、そこでも無視され続けたという思いが募り、さらに孤立感を深め、殺人を予告する書き込みを行うようになっていった。当日の犯行の直前にも、沼津から犯行現場まで移動する間に約30件のメッセージを書き込んでいたという。
さて極めて凄惨な出来事であり、日本人を震撼させたとはいえ、既に旧聞に属しかけたこの事件について、のちに犯人が最近になり獄中から手記を発表した。それが「Psycho Critique 17[解](JPCA, 2012年)」であるが、その手記を読む限り、やはりこの犯行には犯人の自己愛の傷つき、「自己愛トラウマ」が関係していると考えられるのである。つまり自分のメッセージに誰も反応してくれないことで、犯人は深刻な「自己愛トラウマ」を体験していたのだ。例によって全く理不尽な、加害者不在のトラウマを、である。

 7章 モンスターという名の自己愛者
(本章は、自著「恥と自己愛トラウマ」からかなりの引用を行っていることをお断りしておく。)
ある患者さんがこう言った。「なかなか外に出られなかったんですが、ようやく近くのスーパーに行けたんです。それでレジでお金を払う時、小銭を出そうとして財布の中を探して、それでちょっと、ほんの数秒ですが支払いに時間がかかったんです。すると次に並んでいる男の人が聞こえないくらいの音で、がチッと舌打ちをしたんです。この世の中はなんて怖いところなんだろう、と思うと、外出するのがまた怖くなりました。」
この話の本当に怖いところは、この状況での舌打ち程度なら、だれでもしてしまう可能性があるということだ。私も駅で急いでいる時などに、改札で前の人のICカードがはじかれたりすると、ため息程度は簡単についてしまう。私も含めて、世の中は、少しでもミスをしたり、秩序を乱した人に対してすぐに文句を言うような、いわばプチ・モンスターたちがウヨウヨしているようなのだ。
いま「モンスター化現象」なるものが我が国のいたるところで起きている。生徒が、保護者が、部下が、カスタマーが、患者が、対応に出る相手に厳しくクレームをつける。彼らのクレームに根拠がないわけではない。しかしその言い方が攻撃的で、やたら感情的なのだ。
 彼らに責め立てられる教師や管理職や店員や医療職従事者は、場合によっては深刻なトラウマを受けている。教師や管理職や医療従事者の中にはそれでうつ状態に陥ったり、仕事を休んだりするということも起きている。
 しかしモンスター化現象は、一部の異常な人たちによる現象ではない。私たち一人一人が、社会の中で、あるときある状況でモンスターになってしまうという可能性だ。たとえばレジでチッとやるプチ・モンスター客のように。日本で一番数の多い自己愛な人たちは、このモンスターの姿を借りているかもしれないのだ。
私がこれらのモンスターたちをナルシシストの仲間に入れて論じるのには根拠がある。彼らはモンスターぶりを発揮している時は、クレームをつけている相手のことが見えていない。そして自分はサービスを受ける側である、という一種の特権意識を感じている。相手に対して、自分を持ち上げてリスペクトを向けるべきであるという、ある意味では見下した視線を向けている可能性が高いからだ。そしてそれはナルシシストの典型的な心性なのである。
 このモンスター型のナルシシストには一つの特徴がある。それは社会の限られた状況で、それこそ一般人がナルシシストとして出現する、ということだ。病院の受付で対応のまずさに文句を言うモンスター患者は、しかし職場であるコンビニのレジでは、まじめに黙々と顧客対応をしている。時にはモンスター型の客の対応に四苦八苦することもあるかもしれない。彼女はまたいったん家庭に帰れば、いいお母さんだったり、いい妻だったりする。ただ少しむしゃくしゃした時に、自分がカスタマーという立場に立てる状況で、ある時プチ・モンスター化するのだ。
 私たち一般人のプチ・モンスター化は、だから日常的でよくある現象かもしれない。しかし問題はそれが社会のあらゆる場面で増えているらしいということなのだ。一体現代の日本で何が起きているのだろうか。どうして私たちは最近になり、これまで以上にプチ・モンスターという形での自己愛者になり、たがいにトラウマを与え合っているのだろう?
モンスター現象のひとつの説明としてよく聞かれるのが、現代人の未熟さや他罰性(他人を責める傾向)のせいというものである。
 モンスターたちを「未熟な人たち」とする根拠
モンスター化は人格の未熟さだという説を提唱する人の一人が嶋崎政男氏である(「学校崩壊と理不尽クレーム」集英社新書、2008)。彼らはナルシシスト、というよりは子供っぽい、未成熟な人たちととらえるのだ。
嶋崎氏によれば、モンスターペアレントの問題が生じ出したのは1990年の後半か、あるいは公立学校で学校選択制が導入された2000年の可能性もあるとする。ただ社会の耳目を集め、マスコミがこぞって取り上げるようになったのは2007年であったという。「投石での窓ガラス破損に弁償を要求したら、親が『そこに石があるのが悪い』と言った」とか「学校で禁止されている携帯電話を没収したところ『基本料金を支払え』と親が言った」という例は有名らしく、他の関連書にもしばしば登場する。
嶋崎氏の著書では、モンスター化現象の「原因」について触れている。彼はまずモンスターペアレントの問題が、彼らの年代にあるとする。この問題が深刻化した1990年代の半ばに義務教育を受けた子供を持つ親は、現在40歳代、50歳代である。それはかつて新人類と呼ばれ、共通一次世代とも言われた人々でもある。そして彼らの特徴として、諸富祥彦明大教授の説を引用している。つまり「他人から批判されることに慣れておらず、自分の子供が批判されると、あたかも自分が傷つけられたかのように思って逆ギレしてしまう」というのだ。
 嶋崎氏はさらに1980年代に全国の中学で校内暴力が吹き荒れたことにも言及している。それを間近に見て、「何をやっても許されるという幼児的な万能感に基づいた身勝手な不条理がまかり通るのを体験して育った世代が、『教師への反発、反抗は当たり前』という感覚を持つようになったことは容易に頷ける」、とも書かれている。
 モンスターペアレントに関する論述は多いが、その原因についての論調はこの嶋崎氏や諸富氏のそれと類似しているという印象を受ける。
しかしよく考えると、このことはモンスター化が急増する理由を十分に説明していない気がする。もしモンスターたちが「未熟な性格」なら、なぜ彼らは社会の別の場面では普通に振る舞えるのだろうか? もちろん彼らが育った環境は、彼らのナルシシズムにそれなりに貢献しているのであろう。しかしそれ以外の要素も考慮に入れるべきであろうと考える。
  クレイマー社会の由来
それでは私の考えを述べよう。現在の日本がモンスター型の自己愛者をたくさん生んでしまうのは、社会がそれを許容する様な培地を提供しているからだ。現代の日本では人の意識が以前と少しずつ変わって来ている。人が自分に与えられた権利を主張するということは、ある意味では当然のことである、という意識が少しずつ浸透している。人は社会でお互いを尊重し合い、不当な扱いを受けたら正当な手段で不満を述べ、場合によっては相手を訴えることは、基本的には正当なことだ。それは欧米社会では、おそらく数十年は先に行われてきたことだ。それが、日本でもここ2030年でようやく行われ始めたのである。
 しかし問題は、自分の主張を訴える側も、訴えられる側も、お互いにどのように対応していいかわからないという事態が見られることなのだ。ちょうど人々が一斉に柔道の投げ技をまず教わったものの、まだ力の加減を知らず、また受身の仕方もわかっていないかのように、である。組手で投げる側がむしゃらに投げて相手を痛めつけ、今度は攻守交代になると逆のことを相手にするわけである。
 一つの例を挙げよう。クレイマーからの電話はしばしば、延々と続く。カスタマー対応の方はそれをこちらから切ってはいけないというルールをどこからか教えられて、通常の仕事を犠牲にしてまで聞き続ける。ひたすら謝罪のみの対応だから、クレイマーの態度は増々自己愛的になっていき、その対応に当たる人はそれをトラウマとして体験し、一部はうつになり、そしてまた一部は ・・・・・・ 自分自身が別の場所でモンスター化するのだ。
先日は近くのコンビニで、店員の対応が悪いと猛烈な勢いで食って掛かっている客を見かけた。若い店員は平身低頭だったがそれでも埒があかず、困り果てていた。このような時、かつてのアメリカでの生活を思い出した。アメリカでは誰かが声を荒げた時点で、「力の誇示 show of force」となるのが普通だ。つまり警備員や警察が呼ばれるのである。怒鳴ることは「言葉の暴力」であり、人を殴ったり物を壊したりする「身体的な暴力」と同等の反社会的な行為とみなされる。
一般にアメリカでは人前で怒鳴るのは覚悟がいることだ。人はすぐ「力の誇示」に訴えようとする。結果として制服の人々が現れればあっという間におとなしくなるしかない。下手をすると逮捕されてしまうからだ。
 それに比べて日本では怒った市民への対応が非常に甘い。まず別室に招いて宥めようとしたりする。酷い時は派出所で暴れる酔っぱらいを警官がなだめようとしていたりする。
 実は私はそのような平和な日本が好きなのだ。それに一時的に激昂した客や患者も、なだめすかされ、謝罪することで、大部分の人は落ち着くのだろう。しかし一部はクレイマー化、モンスター化するのである。
 ある時日本からアメリカに向かう飛行機で興味深い光景に遭遇した。私の隣の席の日本人の中年男性が、離陸後間もなくワインを飲んですっかりいい気分になった。そしてCAに絡みだしたのである。最初は日本人のCAが対応し、何度もその客のもとに足を運んでは苦情を聞いていた。内容はと言えば、挨拶の仕方がなっていない、飲み物を持ってくるのが遅れた、などの他愛もないものだったが、CAは恐縮して、その上司にあたる日本人スタッフも謝罪に見えた。しかし男は調子に乗って「もっとしっかり説明できるやつを呼んで来い!」などといい気になってしまった。私は隣でいったいどのような形で収集を付けるのかと、半ば不安で、半ば興味深く様子をうかがっていた。すると同じ機内の中国人のCAが変わって対応するようになった。彼女の方はそっけない英語で「お話は承りました」的なことを言っている。男が相変わらず駄々をこねてもあまり相手にしない。そのうち男も諦めたらしく、眠ってしまった。
私はこの様子を見て、おそらく日本人のクレイマーに対するマニュアルに従っているのかと想像をしてみたが、日米(日中?)のクレイマー対応の違いを見せてもらった気がした。向こうではスタッフが日本のようにカスタマーに平身低頭はしないようである。