2015年8月22日土曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 11/50)

5.アスペルガー的な自己愛者たち
アスペルガー障害という名前は、日本では散々広まった挙句、「もうその名前は使われなくなった」という人もいる。しかしそんなことはない。バイブル「DSM-5」からその名前が抜けたというだけだ。ただしそれにすぐに従う必要はない。
 2013年に発表されたDSM-5には一つの傾向がある。それは人の名前を冠した病名(ミュンヒハウゼン症候群、アスペルガー障害、レット症候群、など)を回避し、なるべく一般的で馴染みやすい名前にするという方針である。しかしその方針自体が、一つの流行であり、私たちはそれにすぐ左右されてしまう傾向がある。また一度使われてしまっている病名を、一般名にすること自体が面倒だということがある。それに何年後かの「DSM6」では変えられてしまう可能性があるのだ。
 DSM-5ではアスペルガー障害の代わりにASD(自閉症スペクトラム障害)が掲載されたが、これはこれまでのアスペルガー障害に近い概念である。というかそれを含んだ広い障害の総称というわけだ。アスペルガー障害がなくなったわけではなく、呼び方が変わったということである。それだってもう一つのバイブルWHOICD-12でどうなるかはわからない。私の予感では、アスペルガーの名はあまりに広がったため、臨床場面でも一般人の間でも、これからも使われ続けるのではないかと思う。
ともかくも・・・・。このアスペルガー障害ないしはASDを持った人たちも、時々すごくナルシシストに見えてしまうことがある。そのような例を示したいが、もちろん詳細はかなり変更してプライバシーを保護してある。
米国で出会った40代の白人女性Bさん。海外体験だから、比較的自由に書ける。学校の数学の教師をしていた彼女は、これまでも赴任先で様々な問題を起こし、職を失いそうになっていた。Bさんは愛想を振りまくタイプではなく、どちらかというと無口で黙々と授業の準備をすることが多く、職場でも無愛想で周囲はどのように話しかけていいか困ってしまうことが多かったらしい。それに大学院の数学科でかなり優秀な成績を収め、研究者として残る選択肢もあったというBさんは、そこら辺の高校教師には負けないというプライドもあるらしい。
 さてBさんは話し相手が見つからずに、人知れず寂しさを抱えていたらしい。その結果うつ気味になり、誰かに精神科医に会うことを薦められたという。そして私に会い、少し話せる相手だと分かると、かなり強引に私に毎週の30分の面接を要求してきた。これは私の多忙な外来では例外的な条件ということになるが、私はBさんの勢いに圧倒され、気がついたらそれを引き受けていた。この面談は彼女の体験する職場での理不尽さを辛抱強く受身的に聞くことの繰り返しとなったが、私にとってかなり辛い体験だった。「Bさん、でもそれは・・・」と相手方に少しでも理解を示すようなことを私が言おうものなら、Bさんは烈火のごとく怒るのである。「先生の意見なんか聞いていません!余計な口は挟まないでください。」
 やがて私はBさんにぞんざいに扱われているという感じがしてきた。Bさんの一週間の予定表のひとコマにされたという感じである。Bさんの不満を吐き出すゴミ箱になった気持である。彼女は面接時間の開始が少しでも遅れると私を糾弾し、また私に書かせた診断書の文言の細かい点について、何度も訂正を要求した。私の英語の問題もあり、これには相当苦労した。
 私はダメもとでBさんを地元の低料金のカウンセリングセンターに紹介した。彼女の前でその隔週の30分を過ごす人物は、私である必然性はないと思えたからだ。Bさんは一見大学教授風の風貌の男性心理士に会うことになったが、すでに初回の半分の時間も過ぎていないのに、「精神の専門家ともいえない心理士に、私の深い悩みはわかるはずない!」と、たちまち彼を解雇して戻ってきてしまった。私が後からその心理士から話を聞くと、次のようなことだった。「Bさんのこれまでの対人関係について話を聞き、彼女の方にも原因があるのかを尋ねたところ、彼女は突然怒り出し、『初めて会ったあなたに何がわかるの?』と言って部屋を出て行ってしまった」のだそうだ。
B
さんとの治療関係は、私の帰国を期に切れてしまったが、私はあれほど面接の際に緊張し、何とかに睨まれたカエルのような心境になったことはない。そしてやはりBさんはある意味でナルシシストだったと感じるのだ。

それ以来私が出会ったアスペルガー傾向のある人たちは、ある特徴を持っていた。彼らはある種独特の世界観を有していて、そこから物事を見る。そこには一種の達観があり、「人はこのようなものだ」という開き直りがある。でもそれが一方的であり、物事の一面しか見えていないという印象を与える。周囲はそれを伝えようとするのだが、彼らは動じない。むしろ「どうしてこんなこともわからないのか?」という視線を一般人に向ける。それが時にはひどく傲慢な、あるいは自己愛的な印象を与えるのである。
 もちろん彼らは苦しさを抱え、満たされない愛情欲求を持つことがある。彼らだって人とわいわい騒いだり、友達や恋人と楽しい時を過ごしたい。しかし人といてどうしようもない壁を感じる。自分を異質と感じ、それ以上に周囲が自分を異質に感じていると感じる。どのように異質なのかはわからない。彼らには「周囲にヒカれている、遠ざけられている」という感覚しかない。自分たちの振る舞いが、他人のように「自然」ではないということは感じる。しかしどのようにふるまったら「自然」になれるのかは見当がつかない。彼らは「ふつう」になりたいと思う。自分を「異星人」のように感じる人たちもいる。
見方によっては、アスペルガーの人たちは気が弱く、臆病なのだ。事実非常に引っ込み思案でいつも隅っこにいる人たちもいる。しかし中にはある一芸に秀で、それを通して自分が優れているという感覚を過剰に持つ人もいる。すると変な自信がついて傲慢にふるまうようになる。彼らの能力からすれば、周囲はあまりに平凡でバカみたいに見えるのかもしれない。そのような一部の人たちが、確かにナルシシストの一部を形成しているのである。
アスペルガーの当事者は、どのようなことを思っているのか?「権田真吾著:ぼくはアスペルガー症候群」(彩図社)」は、機能が高く社会適応を果たしている当事者が内側からアスペルガーの世界を描いているが、とても参考になる。そこにもアスペルガー型自己愛を理解する上でのヒントが多く書かれている。
 著者(Gさん、としよう)は同僚の高機能自閉症と思われる女性社員Iさんについて描く。
Iさんは仕事の腕は確かなのだが、言動に少々問題がある。会社が推奨している目標管理について「気に入らない」といった発言を社内で平気でするのだ。本人に悪気はないらしく、言った後もあっけらかんとしている。ある日、僕がトラブル対応で他部署に行ったときのことだ。そこの部署の女性社員からこんなことを言われた。「Iさんって、おたくの社員?ちょっと気に触る発言があったのだけど・・・」(p77)
こんなエピソードを語りつつ、Gさんは自分の体験に触れる。
「かく言う僕も、暴言を吐いてしまって苦い思いをした経験がる。ある日僕は業務が立て込んでいて不機嫌だった。そこへ、多拠点から業務依頼があり、僕は「まあいいけど、何でそんなこと引き受けなあかんの?」と文句を言ってしまったのだ。すぐに「しまった!」と思ったが、後の祭り。上司に呼び出されてこっぴどく叱られた。たとえ虫の居所が悪かったとしても暴言はいただけない。ビジネスマンなら感情のコントロールを的確に行う必要がある。」(p78)
 IさんもGさんも、これらのエピソードを通して会社で相手に「なんて傲慢で自己チューなナルなんだろう?」と思われている可能性がある。人の評価は恐ろしい。一度出会っただけでも、あるいはそれだからこそ、そこでのひとこと、態度は決定的な印象を与え、それは周囲にも伝わる。
 もちろんこれだけで両者をアルペルガー的なナルシシストと決め付けるつもりはない。しかし彼らは時に自己愛的と思われる際のひとつの特徴を表している。それは自分の姿を外側から見る力が、最初から、つまり生まれつき乏しいということだ。それはどういうことか?
 ここでサイコパス型と比べてみよう。彼らには理想的な自己イメージと同一化した際の満足があった。それ自体は自己愛の定義そのものである。そしてそこに同時に虚偽、嘘、自分を大きく見せるための偽りの姿を臆面もなく表にさらし、周囲をだましおおせた。他方のアスペルガー型には、虚偽の要素は少ない。むしろ虚偽のなさ過ぎ、自分のさらけ出しすぎ、なのだ。サイコパスが他人にどう見られるかを徹底的に知り尽くし、それを武器に使うとしたら、アスペルガー型は、他人にどう見られているかを感じ取れないので、「これをここで言ったらマズイ」「ここでこのような振る舞いをしたら、自分はこんな見られ方をしてしまう!」という心のアラームがならない。つまり事前に自分をチェックできずに思ったとおりのことを言ってしまう。
 もちろん「思ったまま」を表現することそれ自体を一概に否定できない。というよりは本音、本心の部分は、それを抑え付けすぎる事で精神のバランスを失う可能性がある。だからそれを仕事の後の飲み会で、気の置けない同僚に愚痴ったり、帰宅して家族に話したり、あるいは独り言を言ったりして処理をする。しかしアスペルガー型では、その独り言の部分を社内で、それも聴かれてはいけない人の前でポロっと口に出してしまうというところがある。人はそのような行為を「空気が読めない」せいだと表現したりするのだ。 
「空気が読めない」正体
しかしよく言われるアスペルガー者たちの「空気が読めない」という現象とはいったいなんだろうか?私の考えでは、「空気」とは結局弱肉強食のこの世界で生き延びるための一番大切な感覚、つまり自分はどの序列にいて、誰に対して取り入り、誰には高圧的に出ていいかという、基本中の基本の感覚に対する感度が低いということだ。これは集団で生きていくうえで決定的な問題を引き起こすし、そのような人がグループに自然に入っていけなかったり、みながドン引きするような発言をしたり、最終的に虐めの対象になったりする原因にもなる。
ある新入社員である事務の女性が、他の社員のいる前で、上司に当たる部長に対して「でも部長さんって、一見ツンデレですよね。」と発言し、一瞬周囲が凍りついた。
聞いている同僚たちは、一瞬「あれ、この新入社員、部長とデキているのかな?」「この新入社員は実は社長の御令嬢だったっけ?」と思い、そんな事情などありえないと思いなおして、改めて聞く耳を疑った。部長を「ツンデレ」呼ばわりするだけの関係性も、職場での地位も、まだまったくない彼女がそれを言うことで、彼女はその場でどのように振舞うべきかの感覚をまったく欠いている、つまり「空気を読めない」ことを一瞬でさらけ出したことになる。
この新入社員の例は改めて、空気を読むということが私たち人間社会にとって、おそらく動物社会にとってもいかに必要不可欠で、かつ自然なことかを物語っている。いわゆる群生動物は、その秩序維持のために序列を必要不可欠としている。それを守れない個体はすぐにハブられ、生き残れない。ということは今生き残っている固体はすべてえり抜きということになる。誰が自分より強いか、自分が集団のどの位置にいるのかのモニタリングはまさに生存の条件といえる。かなり高度の脳の機能といえるが、それを社会で普通に生きて行く私たちは、みな備えているのである。
 アスペルガーの人たちの空気の読めなさを集団での位置づけの不得手さと理解すると、彼らが持つ、自分の(集団内での)姿を外から眺め、感じ取るという能力が欠如しているということが改めてわかる。彼らが独り言をぶつぶつ言ったり、地下鉄のホームを「ヒヤー」と素っ頓狂な声をあげて、あるいはニタニタ笑いを浮かべて行ったりきたりする時、彼らは外側から自分を見る視点をまったく欠如している。いわば天真爛漫な子供のようなものだ。
ある見るからにアスペルガーの思春期少年が、地下鉄のいすに座って、周囲の目をはばかることとなく、おヘソの掃除をし、パンツに手を入れてポリポリ掻いていた。頭はボサボサで、くしを入れた形跡も、おそらく鏡で自分を見たという形跡もない。体にはいろいろな道具や財布をぶら下げ、忘れ物を防止しているようだ。手には文庫本を持ち、それを読みこなすだけの知性は備えていることがわかる。
私たちだって時にはヘソの掃除をし、下着の中をポリポリやることもある。独り言も出るだろう。でもそれは一人で部屋にいるとき、あるいはよっぽど気の置けない家族や友達の前に限定される。それらのある意味では普通の行為が、公衆の面前で出来てしまうことがアスペルガーの特徴である。これもまた彼らが自分を外側から見られていない証拠だ。
 私たちは集団の中で何かをしたり言ったりする場合は、その直前にそれをシミュレーションしてモニタリングをする。冗談を言うときは、それを心の中であらかじめ一瞬言ってみて、集団からの受けを推し量る。ある事柄について発言する際は、それを言うことがセンシティブな人がそこに含まれないことを確かめる。たとえばある種のマイノリティーについてコメントする場合、その当事者がいないことをあらかじめ確かめておくなど。「空気を読む」ことの正体とは結局そういうことだ。そしてそれを程度の差こそあれ欠いているのがアスペルガーの人たちということになる。すると結果として彼らが自己愛的に見られるとしたら、その多くは誤解、錯覚ということになるかもしれない。