2015年8月31日月曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 20/50)


 最後は少し書き足した

10章 医師という自己愛者

米国にいるとき、次の様な話を聞いた。「医者とナルシシストとは同義語synonym である」。きわめてシンプルな表現だが、これはよくわかる。医師は自己愛的で人の話を聴かず、傲慢であることが多い。米国も日本もこの事情は変わらない。米国では患者に対する丁寧な接し方は教え込まれているものの、元々のベースラインが自己愛的な方向にずれているから、結局日本と変わらない気がする。
 もちろん例外もたくさんいる。人の話に耳を傾ける、人間的で心優しい医師だっているだろう。でもやはり圧倒的に自己愛的な人間が多い。
 私は精神科医だが、外来で聞く患者からの、彼らのかつての主治医に対する言葉は、ほとんど常に辛らつである。「前の先生は、ろくに話を聞かず、一方的に自分の考えを伝えてきました。」「薬について質問したり、治療方針に注文をつけようものなら、露骨に不機嫌そうでした。」あるいは患者の方をむいてきちんと話をしない、目を合わせないなど。はっきり言って医師に関するいい評価はほとんど聴いたことがない。
もちろん患者さんたちが、元の主治医を悪く脚色しすぎている可能性も否定はできない。そして同様のことを、彼らが私のもとを去った時には、今度は私自身にもそのようなコメントをするかもしれないと思うと、しかし彼らの訴えは真摯なものと受け止めざるを得ない場合が大半なのだ。
医師は患者としては非常に扱いにくいということもよく知られている。特に精神科病棟に入院してきた医師、そのなかでも精神科医は扱いにくい。精神科医が精神科に入院することがあるのか、と思われるかもしれないが、もちろんある。

 私ははるか昔、メニンガークリニックでその体験を持った。メニンガーには、PIC病棟(Professional in Crisis 危機状態にあるプロフェッショナル)というのがあり、うつ病や薬物依存に陥った医師たちが多く入院していた。メニンガークリニックはカンザス州の田舎町にあったから、地元の州の人々の目を避けて、はるばるやって来てお忍びで入院するケースがよくあったのだ。当時の私はまだ30歳代のレジデント(研修生)の身だったが、40代の白人女性精神科医の主治医となった。彼女はアルコール依存とうつ病を持ち、仕事が続けられなくなって入院してきていたが、彼女の態度にはとても悩まされたのである。彼女は外国人で不慣れな、自信のない私の立場を見透かし、馬鹿にし、さげすみの目を向けた(もっとも私の方もそのように感じやすかったことはあるだろう)。アポイントメントの時間になっても私のオフィスにきてくれない、迎えに行くと自分の部屋で寝ている、ということが繰り返されたり、病棟で呼びかけても気がつかないふりをしたりする、ということもざらであった。面接をしても顔をそむけて退屈そうな顔をする。ろくに返事もしない、病棟での活動にもしぶしぶ参加をするだけ、あとは自室で不貞寝をしていることが多い、という様子である。しかし私のスーパーバイザー(50歳代、白人女性の精神科医)には急に態度を変え、丁寧な接し方をするので腹が立った。
この女性患者の日常の仕事は、自分と同様の問題を持つ患者の診療をする立場である。その自分が精神科の患者として入院を余儀なくされたことにプライドが痛く傷ついていた可能性はある。そのせいか病棟でも「自分は他の患者とは違うんだ」というオーラを一生懸命はなっていた。自分の境遇のふがいなさを、自己愛的な振る舞いにより隠していたのである

どうして医師に自己愛が多いのか。人の命を救う重要な仕事についているからか?しかし医者が丁重に扱われるといっても、それは最近の話だ。大河ドラマの「花燃ゆ」に久坂玄瑞が出てくる。彼はかつて医者の修業を行ったが、「医者風情」とか「医者坊主」などと呼ばれている。もともとそんなものだったのだ。それが現在では医師免許を持っていることは一種の特権扱いをされる傾向にある。しかし人の命を預かっているとしたら、バスやタクシーや電車の運転手さんはもっともっと尊敬されてもよくないだろうか?
狭き門を、難しい試験を潜り抜けたから偉いのだろうか?でも現代の日本なら獣医になる方が、よほど狭き門のはずだ。しかし偉そうにふんぞり返っている獣医さんなんて聞いたことがない。
結局医者のナルシシズムの理由は私にはよくわからない。しかし態度が横柄で傲慢な医者の話を聞くことには事欠かない。なぜだろうか?
ここでふと考えた。彼らがナルシシストのようにふるまうのは、患者さん、そして看護師さんの前に、比較的限定されるのではないか。彼らはそれ以外では、案外普通の人々ではないか? そういう意味で昔や今の同僚のことを思い浮かべてみる。といっても主として精神科医だが仲間同士での付き合いで、精神科医たちが特別横柄で自己愛的という印象は受けない。日本精神神経学会という巨大な学会に年に一度出かけるが、そこに集まる数千人の精神科医に交じっていても、特別異常な人間の集団に交じっているという印象はない。皆ふつうの言葉で穏やかに、あるいは楽しげに談笑している。会場係の人たちともごく普通に、あるいは丁寧に話している。
 医学部の同窓会というのに一度だけ出かけたことがあるが、50歳代に差し掛かった昔の同級生たちは、最初はどこかのおやじの集団に見えたが、しばらく一緒の時間を過ごすと20代の学生の頃と全然変わらない雰囲気を残していることが分かった。しかし彼らが現在の職場に戻り、多くの場合部長や教授や医院長としてふるまう際には、全然違うのだろうな、という想像も容易に出来た。昔が想像できないほどに恰幅がよくなっていたり、パネライの大きな腕時計などをしていたりする。交換する名士なども、肩書は立派なものだ。おそらく彼らが自己愛的なのは、患者さんや、自分の指示の下で動く看護師さんたちの前におおむね限定されるのであろう。
医師がなぜ患者さんの前で自己愛的になるのか? そこにはおそらく患者さんの置かれた立場に対する彼らの相対的な立場が関係している可能性がある。自分の体や心に異常が生じた場合、人は簡単には相談できず、誰かに助けを求めてすがりつきたいような、きわめて弱弱しくヘルプレスな精神状態に陥る。検査を受ける時には下着すら脱がされ、情けない検査着姿で、寒い廊下で順番を待ったりする。検査結果に一喜一憂する。その前に立ち、診断を告げる白衣の医師は、やはり絶対的な権力を持った人間として映ってしまうのだ。そして医師の方もそれをよくわきまえている。
ところで読者の中で「ナルシシストな医師というのは、男性に限った話ではないか?」という勘違いをなさっているかたもいるかもしれない。しかし女医さんでも事情はあまり変わらない。ただ日本においてはナルの表れ方もそれなりに異なるだろう。というのも女医さんの立場は多少男性の医師と異なることもあるからだ。
 医師の世界は伝統的には男性社会であったということもあり、女医さん自身が堂々と振舞うことに抵抗を感じたり、圧倒的に数の多い看護職の女性たちから複雑な目で見られたりすることを意識せざるを得ない。しかし基本的には実力社会である医療現場で、十分な技量と経験ないし人望を備えた女医さんは、それなりのリスペクトを受ける。そしてそれにしたがって彼女たちの心の持ちようや態度は、自己愛的な要素を高めていく傾向にある。思い出していただきたいのだが、自己愛とは社会がその人を丁重に扱ったり、その人が実質的な権力を有することにより、ある程度自然と備わっていくものである。偉くなった人が少しも自己愛的でない、というのは不自然なことですらある。
 私がかつて外来を担当していた精神科は、大きな総合病院の中にあるが、私のオフィスにたどり着くまでにさまざまな医療関係者が行きかうのに出会う。エレベーターに乗ると、白衣を身につけた女性でも、看護スタッフであったり、検査技師であったり、医師であったりする。そのうち女医さんたちが、それなりの雰囲気をかもしているのは、見ていて興味深かった。それをあえて特徴付けるならば、彼女たちが「着崩している」ということだろうか。彼女たちは白衣のボタンを一つ余計にはずしたり、あるいは白衣の前のボタンを一つもはめずに、白衣を「翻して」颯爽と歩くことになる。あとはポケットに無造作に手を突っ込んでいたり、ちょっとツンとすました表情をしていたり。首の回りに聴診器を巻いていたらもう間違いないか。(時々ナースもやるようだが。)要するに彼女たちはちょっとだらしなく、ちょっとエラそうでナルシシスティックな雰囲気を作ることで、女医「以外」の女性との差別化を図っているというニュアンスがある。
ここで「大門未知子」のことを思い出す。例の「ドクターX~外科医」というテレビ番組に出てきた、米倉涼子演じる、フリーの「失敗しない」手術の天才の外科の女医である。検索すればわかる通り、やはり白衣の前のボタンを全部はずした画像しか出てこない。医師が白衣の前を空けているのは定番だが、女医さんもこれをやることで女医っぽくなり、ナルっぽくなるのである。
なぜダラしなくなるとそれだけ偉そうになるのか。例のサルのMRI画像の話を思い出していただきたい。上位のサルは前頭葉が忙しく働いていない。つまり「自分の態度が誰かに対して失礼に当たるのではないか?」と周囲を見ながらせわしく頭を働かせる必要がないのだ。自分の身なりや態度に「手を抜いて」いい。自室で気楽に過ごしている姿に近くていい。だからダラしなくていいというわけである。
というわけで女医さんもしっかりナルになる可能性があるということを主張したかったわけだが、では男性医師と女性医師でどちらがナル度が高いか、などという疑問にはあまり意味はないかもしれない。どっちもどっちであり、どちらも相当周囲を困らせる自己愛者になる可能性がある。

ナルな医師が困る理由

医師がナルになること自体は、ある程度は仕方がないだろう。しかしそのせいで患者に迷惑がかかることは止めてほしいものだ。患者の多くは医師を怒らせたらどうしよう、という恐れのようなものを抱き、その顔色を伺いながら医者の前に座るものなのだ。
 例えば処方された薬が多すぎたり、副作用がキツイと感じるとしよう。そしてそれを遠慮がちに口にする。医者がそれをきちんと受け止めて、処方の量を検討してくれるのなら、もちろん問題はない。しかしそれに対して医師の側が「余計な口出しをしないでほしい」というような態度を取るとしたら、それは大きな問題である。そのような医師なら、おそらく「誰かから、Aという薬がいいと聞きましたが、どうでしょう?」という患者さんの問いかけにはもっと憤慨するかもしれない。
「あなたは医者じゃないんだから。あなたが何を飲むべきかは、私が決めるんですよ。」という返事が返って来るとしたら最悪だろう。そんなことを言う医者がいるかと思うかもしれないが、一昔前の医者の多くはそうだったのだ。ちなみに英語では、“You are the doctor”といういい方がある。アメリカで患者さんに「この薬にしましょうか?」と勧めると、患者から“You are the doctor”といわれて、最初は意味が取れなかったのを覚えている。でもこれは慣用句で、「あなたが決めることです。私は言われた通りにします」ということなのだ。医師の指示には従わざるを得ない、という考え方は米国でも同じなのだ。
 もちろん「誰かからAという薬についてのいい噂を聞いたから、自分も出してほしい」というリクエスト自体は、とても安易かも知れない。ただ患者の側は、何が安易で、何が正当な問いかけかすらもわからない場合が多いので、それを頭ごなしに叱られるいわれはないだろう。
「あなたは医者じゃないんだから」という返答が返って来る可能性がより高いのは、診断に関することである。患者から
「私はA(診断名)ではなくB(診断名)ということはないのでしょうか? 」
 と言われることがある。これに対しては激しい怒りや自尊心の傷つきを覚える医師も少なくない。
更に困るのは、医師の変更やセカンドオピニオンのリクエストに際しての医師の反応である。最近では精神科の場合は「前医の紹介状(診療情報提供書)がなければ、新患として受け入れられない」という方針を取っている精神科が少なくない。すると診療情報提供書を書いてほしいと言い出せない、という患者の場合は、結局は現在の主治医を変更できないという問題が生じてしまう。
しかし最近では医師の意識も少しずつ変わりつつあるようである。私もその立場に近いが、患者からのリクエストがひとたび受けたら、それを取り入れるという立場である。例えば薬の変更や追加のリクエストは、それが意味があるのであれば、試みることを考える。診断については、取りあえずは除外診断のリストに加えてみる。セカンドオピニオンのリクエストには原則として応じる。
 この立場の利点は、後に「私の主治医は私の声を聞き入れてくれませんでした。」という批判を受けないためにも重要なのである。もしセカンドオピニオンを求められた別の医者が全く異なる意見なら、どちらを選ぶかを患者本人に決めてもらうといいだろう。もちろんそれに対して患者が「私には決められません。“You are the doctor」と言うなら、でももともと別の人の判断を仰ぎたくてセカンドオピニオンにいらしたのでしょう?と尋ねる。もしお望みなら、サードオピニオンを求めるように促すこともいいだろう。
 またセカンドオピニオンが、「今の先生の診断や治療方針でいいと思います」ならば、今の主治医は現在のやり方にもう少し自信を持っていということにもなるのだ。
ということで医師のナルシシズムはあまりそれを保つ根拠がなくなりつつあるのが現実であろう。
最後につい最近触れたニュースから。ある人物が医師を騙って長い間「診療」を行っていたが、最近になってそれが露見したという。その「ニセ医者」についてもと「患者」やもと同僚に尋ねると、たいてい次のような返事が返ってくる。
A先生はいつも愛想がよく、子どもの患者には「大丈夫だからね」と優しく声をかけていましたよ。無断欠勤や遅刻はせず、患者からの苦情もなかったと思います。」「一緒に仕事をしていて嫌な思いをしたことはない。医師ではないと聞いて驚いた」。「ただ、出身地など個人的な話はしたことがありませんね。」
A先生は実は普通に働いていたにすぎないのだろう。普通にあいさつにして、普通にお客さん(患者さん)には丁寧に接して。つまりナルでないというだけで、その腕は関係なく信望を得る傾向にある。そう、ナルな医者は患者を現実に失うのである。


2015年8月30日日曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 19/50)

9章 ウーマナイザーな自己愛者 
「ウーマナイザー」とは、まだ日本語になりきっていない用語である。ちょっと聞いただけでは、意味が分からないという人はまだ多いかも知れない。英語のwomanizer は慣用的な表現で、「彼は大変なwomanizer だ」などという言い方をするが、日本語にすると「彼は女たらしだ」という訳が一番近いかもしれない。Womanizerはウェブスターの辞書によれば、「カジュアルな性的な関係を複数の女性と持つ人」となっている。つまり職場などで女性社員とイチャイチャしてメールアドレスの交換をしたり、デートの約束をしたりする人々である。世の中にはこの手のカテゴリーに入れるべきナル人間もたくさんいる。
 しかしこのwomenizer にはもう少し侵襲的なニュアンスもある。Womanize の元の意味は、effeminate (女性にする、女性化させる)もあるそうである。つまり普段は女性としてふるまっていない人を一方的に女性にしてしまう、というニュアンスがあるのだ。
 さてどうしてウーマナイザーなナルが多いのか? そこにはひとつの事情がある。ウーマナイザーは、定義上ある程度は「モテる」からだ。それが彼らを増長させ、自己愛的にさせる。少しもモテないウーマナイザーというのはありえない。ただのセクハラ親父に限りなく近いであろう。先ほども述べたように、ウーマナイズには、「女性にする」という意味もあるそうである。つまり相手の女性性を自覚させ、引き出してしまうということだが、そもそも女性が自分自身の女性性を意識するのは、彼女自身が相手を心惹かれる男性として認識した場合である。若い魅力的な男性を前にして、御年配の女性が突然恥らう乙女のように振舞うというシーンを、テレビなのでご覧になったこともあるであろう。あの現象である。 
ウーマナイザーの犯す初歩的な誤りを見てみよう。それは例えば女性の同僚ないしはスタッフへの「呼び方」の誤りである。
 30年前のアメリカでの体験である。あるわかい女性の精神科レジデントの前で、彼女の男性のスーパーバイザーの前で発した一言がちょっとした問題になりかけたことがある。男性のスーパーバイザーはドクターD。実はすでに第3章に登場させている。メキシコ人の彼は、ちょいワルの精神科医と言えたが、その言動にも時々問題が見られた。ある日自分の病棟で患者にコント担当になるDドクターGを紹介した。彼女はまだ医学部を出て間もない、20代半ばの若い精神科医である。見た目も実際愛らしあった。そのドクターGを患者に紹介する時、ドクターDはやってしまった。「○○さん(患者の名前)、これからはドクターGがあなたの担当ですよ。何でもわからないことは、このyoung ladyに聞いてくださいね。」これを耳にしたドクターGは憤慨した。「あたしのことをヤングレディーだって?なんて呼び方をするんですか!」ドクターDはおそらくこれまではそんな呼び方を、年若い女性のレジデントにはしていたのだろう。しかし女権社会のアメリカでは気を付けなければならないのがこの種の表現だ。ちなみに私はこのころはまだ英語に慣れていず、このyoung lady のどこがいけないのか、ピンと来なかった。でもこれはニュアンスとしては、もし日本で中年の医者が、研修医を患者に紹介し「今日からこのカワイ子ちゃんがあなたの主治医ですよ」と言うようなものだ。これでは日本でも問題発言になるだろう。その後ドクターDはその発言で、自分より年若いレジデントトレーニング長からおしかりを受けたという。
 日本でもおそらく会社なので若い女性社員に向かって「××ちゃん、お茶をいただける?」などと言う表現はパワハラ発言にあたるだろう。
上の例は、まだ継承の部類に属するであろうが、次に出す例は、結構深刻なウーマナイザーの例として、私が結構事情を詳しく知る機会があったものである。
はるか昔のことである。私がたまたま事情を知ることになったある文科系のE教授(50歳代前半)の振る舞いが問題にされたことがある。彼は自らのゼミ生の中で、特定の女性の学生に目をつけては、きわめて長時間の個人授業を行うことで知られていた。他のゼミ生には冷淡で指導もスパルタ式だったりあまりにも短時間で済ましたりするため、E教授の特定の女子学生へのこの態度は特に目立った。E教授は端正な顔立ちで、若いころはそれなりにモテたという思いがある。しかし歳もとり、顔立ち以外の要素がそれから大きく変わってしまっている。しかしそれでも自分がモテるという意識は不思議と強いらしく、女子学生を食事に誘ったり、さりげなく手を握ったり、キスを迫ったりするという行為へと発展した。そしてとうとう女子学生がハラスメント委員会に相談することがきっかけでE教授の振る舞いが明るみに出た。委員会の調査により、E教授のそのほかの女子学生への同様の行為も明らかになり、また家庭内でも、特に夫婦間で深刻な危機を抱えているということがわかった。E教授は解雇寸前まで行ったが、どうにか職にとどまった。
E教授のきわめてわかりやすい特徴があった。彼は通常は人に厳しく、またその博識ぶりを生かして学生の研究に厳しい注文をつけたり、論文を何度も書き直させたりするなどの行為が、指導を受ける学生の間でも有名で、またそれだけ畏れられてもいた。しかし自分が異性として関心を示す相手に関しては、相好が簡単に崩れ、話すときは生き生きとして身を乗り出すという態度の変化が誰の目にも歴然としているということだった。その態度の違いがあまりに歴然としていて、彼の人間性を疑う声は多く挙がっていた。話によればE教授の父親は地方の名士で、家庭外で複数の女性と関係を持ち、かなりお盛んだと有名であったという。
ウーマナイザーE教授は、ウーマナイザー一般の持つもうひとつの特徴を示していた。それは教授としての権力により学生たちが自分を一目置き、時には尊敬のまなざしを向けるという現象が、自分はモテる、カッコいいという幻想を生み、助長していたということだ。E教授には複数の著書もあり、またテレビに一度出演したということもあり、彼の教えを請うために大学に入学してくる学生もいた。その中には若い女子学生もいて、彼は彼女たちに尊敬の目を向けられることにより、外見上はそれなりに「モテ」ていたことになる。その彼が女子学生を長時間の「ゼミ指導」に誘い込み、アルバイトと称して自分の研究資料の整理ためにポケットマネーを費やして長時間一緒に過ごそうと試みた際、多くの女子学生は最初はその申し出を戸惑いつつも受け入れた。そこから彼の勘違いが始まり、それが徐々に膨らんで行ったわけである。
 E教授のもうひとつの典型的な特徴は、周囲からその問題行動を指摘された際に、まったく悪びれる様子がなかったということだ。直接訴えを持ち出した女子学生の話を間接的に聞き、E教授は「そうか、彼女はそんなことを言っていたのか・・・。ちょっと困らせちゃったかな。」という反応であり、全く懲りていない感じなのだ。
その後の調べで、E教授はウーマナイジングのためのさまざまな「技」を駆使していることが分かった。彼は自分にとって魅力的に映る女子学生や女性教員、事務員に対しては明らかにニコニコと愛想よく話し、時々それとなく顔を近づけて、フッと鼻息を吹きかけるそうなのだ。その時の相手の微妙な表情の変化から、自分に脈があるかを察知していたらしい。(と言っても相手があからさまに顔をそむけないのであれば、E教授にとっては「脈あり」と判断されていたらしいが。)さらには机を挟んで話をするときなど、自分の靴のつま先で相手の靴に触る、それで相手が足を引かなければ、靴下になって相手の靴を包み込む、という仕草もしていたという。これも彼の相手の「脈あり」を知るための方法であったらしいが、相手は自分の足に何が起きたのだろうとパニックになり、足をひっこめられなかったというのが実際らしい。
E教授に対するその後の検討から、女性のスタッフや学生たちの至った結論の一つは興味深かった。それは「E教授は結局、本当の意味でモテたという体験がないのだろう」ということだった。E教授は顔立ちこそ端正だったが、若い頃は学業に専念していたということもあり、またその頃はいかにも堅物という外見から、女性に敬遠されていたというところがあったらしい。「女性にモテたい」は若い頃のE教授にとっては念願であり、また決してかなわない夢でもあった。だから自然な会話や人間的な魅力で女性の関心を惹くという体験がそもそも持てなかった。彼は父親が町の名士ということもあり、見合いで現在の妻を得たが、最初から奥様に対する情熱は薄く、また非常に気の強い奥様に完全に尻に敷かれるという状態であったのだ。大学の教授職を得て突然女性が自分に注目をしてくれるという機会を得て、彼はいくつかの「技」を編み出すにいたったらしい。

E教授は勘違い男だったわけだが、では男性がそこそこ、あるいはかなりのモテ男だったらどうだろうか?事態はかなり厄介になる。権力にすり寄る女性はその分だけ多くなり、本人の勘違いもそれだけ深刻になる。
 私がよく例に出す米国のクリントン元大統領は、それに該当する人だった。もう一度登場していただこう。 タイムマガジンの記事を参考にする。
Bill Clinton By Claire SuddathThursday, Jan. 21, 2010Time Magazine電子版)

モニカ・ルインスキーだけが、クリントン元大統領の個人的な生活を公のもとにさらした女性ではなかった。もう一人話題となったジェニファー・フラワー女史は、1977年に、将来の大統領がアーカンサー州の知事だった時代に、ニュースレポーターとして彼に出会っている。彼女はそれからクリントン氏と12年間関係を結び、州の仕事を紹介されたこともあったという。フラワー氏は、クリントンが1992年に大統領候補だった時にこのことを明らかにし、クリントン氏は「シックスティミニッツ」という米国の有名なニュース番組で、それを否定している。フラワー氏はその後クリントン氏との電話の会話をテープに収めたものを公にし、それをクリントン氏は最終的に認めたのだが、それは1998年の裁判の席であった。この時クリントン氏は、アーカンサ―州の公務員であったポーラ・ジョーンズ女史にセクハラで訴えられていたのである。
ポーラ・ジョーンズのケースは、何しろ彼が大統領のときに始まった裁判なので、クリントン氏は大恥をかいたことになるが、あくまでも性的な関係を彼女と持ったことを否定。しかし結局巨額の金を払って和解したのだから怪しい、というより真っ黒である。
このようにクリントン氏のウーマナイザーぶりはよく知られるようになったが、それでも1996年には大統領に再選された。そしてルインスキー女史のケースで万事休すとなったわけである。
 2005年には、“Their Lives: The Women Targeted by the Clinton Machine” Candice E. JacksonWorld Ahead Pub. )という本が出版された。この本には、クリントン氏とかかわりを持った(持たされた)7人の女性のことが詳しく書かれている。その中には、クリントン氏に襲われたassaulted と自ら表現する女性の証言もある。
クリントン氏の話が「普通の」ウーメナイザーと異なるのは、クリントン氏がきわめてチャーミングな側面を併せ持っていたことだろう。長身でハンサム、非常に頭の切れる彼は、女性をかどわかすことにも命を懸けていたというところがある。それを妻のヒラリー氏はよくわかっていた。彼らの結婚生活は、最初の頃からクリントン氏の女癖の悪さに彩られていた。しかし何度も離婚の危機を迎えながら、ヒラリー氏がクリントン氏と別れなかったのは、彼女なりの計算があったと言われる。彼女自身の政治的な野心である。ヒラリー氏は結局彼と一緒に居続けることを選択し、次々と明らかになる夫のスキャンダルの火消しに躍起となった。大統領時代にはそこに彼らを取り巻くスタッフの強引なもみ消し工作が加わったことは容易に想像できる。結果としてクリントン氏のウーマナイザーぶりが、彼自身の妻の歪んだ「寛容さ」により助長されていたとすれば、なんと皮肉なことではないか。

2015年8月29日土曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 18/50)

「群生秩序」の理論
このようないじめの生じる機序について、巧みな説明を行っているのが、内藤朝雄氏の、「群生秩序」の理論である。
 内藤氏の描くいじめの世界は、私達が通常想像していたより遥かに深刻で恐ろしいが、同時に極めて説得力がある。いじめの生じている空間では、いじめや犠牲者の死を悪いこと、痛ましいこととする通常の感覚や常識が通用しないような「普遍秩序」が存在するというのだ。そのような社会において一番大事なのは、今、ここの「ノリ」であり、それにしたがって犠牲者をいじめ、喜ぶことである。そして一番いけないのは、その集団のノリを制止しようとする試みである。つまりそれに異議を唱えたり、そのような行為を悪いこととして制止しようとしたり、外部に相談したり訴えたりすることだ。そのように試みた人間はすぐさま、いじめられる側にされ、その社会で生きていけない。
 このような秩序の存在を前提とすることで、いじめに関与した人たちに見られる不可解で信じがたいような行為も理解可能となる。いじめの自殺が生じた際も、彼らには同情の念はなく、「Aが死んでせいせいした」とか 「Aがおらんけん暇や」「誰か楽しませてくれるやつ、おらんと?」という反応を見せるという。つまり「群生秩序」においてはいじめは正当化され、いじめられた人が自殺したとしても、それは仕方のないか音であるとされる。そしていじめに加担したとされる教師に対する同情が寄せられる。またいじめにより子供を失った親御さんは、いじめの首謀者を訴えようとしても、そうすることでその地域に居られなくなってしまう危機感を持つという。
 いじめの実態を知らない人は、いったいそんな世界があるのかと疑うであろう。しかし閉鎖された社会ではそれが起きうる。というより人間の生きている社会では、A秩序、B秩序、C秩序といった秩序のすみわけが行われ、個人がそのどこに属するかによりどれに従うかが決まる。群生秩序においていじめに加担した人が普遍秩序に属している場合には、それまでの虐待者とは全く異なる常識に従うことになる。するとたとえば学校社会とは全く関連のない塾で出会った場合には、いじめっ子、いじめられっ子とは異なる関係性がそこに生じることになり、ごく普通に挨拶をしたり振る舞ったりする。いじめ型のナルシシストが、常にどこでもそうだというわけではなく、状況依存的であり、群生秩序に属している時にだけ発揮されるということも生じてくる。
私はこの群生秩序の話は、日本社会一般の話に拡張できると考える。それは日本の学校や企業に蔓延する隠蔽体質に表される。この問題は昔ほど深刻ではないのかもしれないが、今でもしっかり存在する。最近の東芝問題などは、それをある意味で典型的な形で露呈しているのではないかと考える。
日経新聞電子版(2015/7/20 23:12)によれば、超一流企業である東芝が組織的に利益操作をしていたことが判明し、2015年の720日には歴代3社長が辞任へ追い込まれた。前代未聞の不祥事であるが、なんと東芝の歴代3社長が現場に圧力をかけるなどして、「経営判断として」不適切な会計処理が行われたということである。利益操作は2008年度から14年度の4~12月期まで計1562億円にのぼるというのだから、ただ事ではない。報告書では、経営トップらが「見かけ上の当期利益のかさ上げ」を狙い、担当者らがその目的に沿う形で不適切会計を継続的に行ってきたという。つまり不正は内部で関係していた人間にとっては明白な事実であったが、それを告発できない。「上司の意向に逆らえない企業風土」があったとされる。
この際具体的にどのような不正が働いたのかはさほど重要ではない。ある集団、この場合は東芝の中で群生秩序が成立し、そこでは全体のノリが最優先されるという事態が起きていたということである。そこでは個人が善悪に従った意見(すなわち普遍秩序に立った見解)を述べても、それはその秩序を乱すことであり、その秩序の中では悪である。そしてそれを告発したり異議を唱えたりする行為はその人が即座に排除するという結果を導く。
そのような組織に君臨し続けた3代の社長は、そこでいわばいじめ役としてのナルシシズムの満足を体験していたということになる。ただしここで東芝という組織の中で、いじめが起きていたかは私は知らない。しかし群生秩序の支配する集団においては、そこで不正をすることを迫られているということ自体が、それに従わない場合にこうむるであろういじめの脅しに常にさらされていたことを意味し、それがいじめ体質であることと実質的には変わらないであろう。
さらには戦時中の日本においては、日本社会そのものが群生秩序に支配されていたとみなすこともできよう。その際はまさに個々人の命は、戦争に熱狂する日本全体の「ノリ」に反する場合には価値のないものとして葬りさえられた。つい最近のニュース記事を引用しよう。
反戦の訴え、命続く限り 元特攻隊員、沈黙破り体験語る
今村優莉(朝日新聞 WEB20157231341分)
 あと1日戦争が長引いていたら、なかった命だった。1945年8月15日に出撃を命じられたが、終戦を迎えて命拾いした90歳の元特攻隊員が、長い沈黙を破り、自らの体験を若い世代に語り始めている。命が軽く扱われるのが戦争だという意識が、多くの人から薄れてきたと感じるからだ。
 埼玉県熊谷市の沖松信夫さん(90)。日中全面戦争のきっかけとなった盧溝橋(ろこうきょう)事件から78年を迎えた今月7日、東京都内の中国大使館に講演者として招かれ、こう語った。
 「日本国民として生まれたからには、死にたくないと言えば非国民とみなされた。特攻隊員は、命を惜しんではいけなかった」
 「平穏な生活が一番幸せなんだと、特攻を命じられて初めてわかった」
「死にたくない」「人の命は尊い」は、普遍秩序の文脈では正しくても、群生秩序においては悪になる。
いじめ型ナルシシズムの本体

 ここで改めて、いじめ型ナルシシズムの本質について考えてみよう。いじめが行われている時、どのような自己愛の満足が体験されているのだろう? それは「自分たちはマジョリティであり、特別なんだ」という満足感や特権意識であろう。その際立った特徴は、それを複数の人間が共有しているということだといえる。これまで検討してきたいくつかのタイプのナルシシストにはなかった特徴がこれだ。そして内藤氏があげているのが、いじめに伴う他者をコントロールすることによる全能感であるという。人はまず心の中に不全感を抱えている。ところが「心理システムの誤作動」(内藤)が生じることで、「突然自己と世界が力に満ち」「すべてが救済されるかのようなあいまいな無限の感覚が生まれる」と説明する。
この自己愛的な満足が、後ろめたさや罪悪感により軽減されることはあるのだろうか? もし当然だ、と考えるならば、これは普遍秩序にのっとっている私たちの発想であろう。もちろんその可能性も無視できない。心の中で手を合わせながら、虐待に加担する人もいるだろう。ただし群生秩序が浸透している場合には、おそらく虐待者の目には、非虐待者は通常の人間とは別に、おそらく贖罪の山羊のように目に映っている可能性がある。その集団の「ノリ」という絶対に侵すべからざるものものにとって必要な犠牲者である。恐らくその際の罪悪感は深く抑圧、解離されているはずだ。さもないと苦しくてその場にいられなくなってしまうであろう。

私たちはこの群生秩序と類似性のあるものを、たとえばある種の教団や独裁政権の中に見ることが出来る。そこでは集団全体のノリの代わりに、独裁者、教祖様が絶対となり、その命令が善悪の判断を超える。「ポアする」ことが人類を救うと言われれば、その意味するところを批判できずに、優秀な学歴を持つ人間でも、地下鉄にサリンを撒きに出かけてしまうのである。

2015年8月28日金曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 17/50)

8章 いじめ型の自己愛者

 いじめという現象にもナルシシズムの満足が関係する。他人をいじめている時は、「自分や強者なんだ」という満足体験が伴う。特定の対象をいたぶることでその満足が高まるという事態が生じているのであろう。それに陥っている状態の人を「いじめ型ナルシシスト」と位置づけよう。またいじめのこのナルシシズムは、日本社会においては複数の人々によって共有されるという特徴がある。これらの事情について検討しよう。
クレイマー型の自己愛者について書いた時、彼らが社会の中である状況で、限定的に自己愛者になってしまうという事情について述べた。彼らは普段は職場や家庭で、周囲とも特に問題なくやれているが、あるサービスを受ける側になると、魔が差したように、自分の権利や特権意識を声高に訴えるようになる、というわけだ。いじめ型ナルシシストにも類似の事情がある。彼らの場合は自分がいじめられる側であったという体験も大きく関与している場合がある。つまり「自分もいじめられたのだから」という体験は、彼らのいじめを正当化したり、それに拍車をかけたりする可能性があるのだ。
 ちなみにいじめは普通の人でも行う場合がある、とは言ったが、つねに積極的にいじめのリーダーシップを取る人間の多くは、厚皮型型、サイコパス型の自己愛を持った人間である可能性も否定できない。しかしその周辺の、いじめに加担する人の多くは、実はそれ以外の場面では案外普通の人々なのだ。彼らが体験するのは、「自分がやらなければ、今度は自分が狙われる」という恐怖心と、いじめに伴う若干のナルシシズムの満足の両方であろう。
 おそらくいじめる側の心理を探る上では、いじめる者の自己愛の問題を考える場合には、リーダー格の人間による積極的ないじめと、それ以外の普通の人々による、消極的ないじめを分けて考える必要があろう。しかしいじめを行っている瞬間には、いずれの種類にせよ、そこにある種の「俺は強いんだ!」的な高揚感が体験されていることには変わらない。その瞬間には「いじめ型のナルシシスト」になっているのである。また普通の人でも、いじめの最中はリーダー格の心性が乗り移るかのように、被害者に対しての同情の念がわかず、遊び感覚でいじめに加担するという話を聞く。この後者のいじめは一種のマインドコントロールに近いと考えら得る。
いじめの問題は、以前にも述べた「ナルシシズムの階段」とも結びつく議論でもある。[この部分、後で追加する必要あり。]「上には媚びて、下には傲慢」という自己愛的な社会における行動原則は、良きにつけ悪しにつけ、社会に生きる私たちの多くが、程度の差こそあれ、従っているものである。そこでは「上から下へ」への権力の誇示や支配はむしろ当たり前のように行われる。
 しかしいじめにおいてはこの「上から下へ」とは別の力、すなわち「集団から個へ」という力が働く。クラスの中で、本来は学年差がなく、「ナルシシズムの階段」の段差がそこに明白な形では存在しないはずなのに、そこにいじめる集団といじめられるという関係は出来上がってしまうのである。ただしもちろん、そこに「上から下へ」のベクトルが加わると、いじめはさらに深刻になろう。たとえばいじめる集団のリーダーシップを、年上、目上、学年が上の誰かがとっている場合である。
最近耳目を集めた「川崎のいじめ殺人」事件を振り返ってみよう。
この事件は20152神奈川県川崎市の河川敷で13歳の中学1年生の少年A殺害され、遺体を遺棄された事件という悲惨な事件である。事件から1週間後に少年3名が殺人容疑で逮捕されたが、このうちの主犯格B18歳で、Aに直接手を下したとされる。この場合、BBに命令される形でくわえられた暴行においては、「上から下へ」と「集団から個へ」の両方の力が働いていたことになる。
いじめが生じるメカニズム
いじめはおそらく集団が存在するところには何らかの形で生じる運命にはあるにしても、それが1980年代ごろより、わが国でもしばしば問題になっているとしたらそれはなぜだろう? これもモンスター現象と同様の社会的な背景が関係しているのだろうか?
本書はもちろんいじめに関する本ではないが、私自身のこの問題についての立場を簡単に示しておきたい。
 まず、私はいじめ自体は決して異常な現象だとは思わない。それは人間の集団の持つ基本的な性質に由来すると見てよいだろう。私たちはある集団に所属し、そこで考えや感情を共有することで心地よさや安心感を体験する。逆に集団から排除され、孤独に生きることは、不安で恐ろしい体験にもなりうる。これは「社会的な動物」としての人間の宿命と言える。
 そこで問題となるのがその集団の有している凝集性だ。それが高いほど、そのメンバーはその集団に強く結び付けられ、その一員であることを保障される。そこには安心感や、時には高揚感が生まれる。ところがある集団の凝集性が増す過程で、そこから外れる人たちをいじめ、排除するという力もしばしば働くようになる。それを「排除の力学」と呼んでおこう。前著「恥と自己愛トラウマ」でも強調したことである。この「排除の力学」自体は異常な現象ではないが、それがいじめを加速し、犠牲者を自殺にまで追い込むという事態が、この高度に発達した現代社会においても放置されてしまうことが異常であり、憂慮すべきことなのである。
ある集団が凝集性を高める条件は少なくとも三つある、と私は考える。一つは①利害の共有である。集団にとっての共通の利益に貢献するメンバーは、集団に大歓迎される。オリンピックで活躍した選手は無条件でヒーロー扱いされ、空港ではたくさんのファンからの出迎えを受ける。錦織君がテニスの試合に勝つたびに、私たちは彼の母国である日本の国民であるという誇りや昂揚感に浸るわけである。
もう一つは、②仮想敵の存在、すなわち集団のメンバーが共に敵ないしは想像上の敵を持っている場合である。集団はある種の信条を共有することが多いが、そこに「~ではない」「~に反対する」「~を排除する」というネガティブな要素が加わることで、より旗幟鮮明になり、メンバーたちの感情に訴えやすくなる。そしてその仮想敵を非難したり、それに敵意を示したりする人は当然そのグループの凝集性に貢献し、それだけ好意的に受け入れられることになる。
そうして第三番目に③グループの閉鎖性が挙げられよう。すなわちメンバーはその社会から外に出ることが出来ず、その中だけで生きていかなければならないという事情である。
昨今は日本の政治家の発言に対して中国や韓国が反発して声明を発表するということが頻繁に起きているが、反日であるということはそれらの国民の間の凝集性を高める上でさぞかし大きな意味を持っていることと思う。そして集団がまとまる、凝集力を発揮するという力学は、その中の一部の人々を排除するという方向にも働くということが問題なのだ。そしてメンバーはその集団から外に出て行くことが出来ない。
 上に述べた二つの条件(①利害の共有、②仮想敵の存在、③グループの閉鎖性)はそのまま、仲間はずれや村八分、いじめの対象を生む素地を提供しているのである。なぜなら集団の共通の利益に反した行動を取ったり、集団の仮想敵とみなせるような集団に与したり、それと敵対することを躊躇しているとみなされたメンバーが排除されることによっても、集団の凝集性が高まるという条件が成立するからだ。そしてここが肝心なのだが、そのようなメンバーが存在しないならば、それは人為的に作られることすらある。これがいじめによるトラウマを負わされるのきっかけとなることも多いのだ。
ここで私たちは次のような疑問を持っても不思議ではない。
人は「どうして仲間外れを作らなくてはならないのか? そうしなくても集団の凝集性を高めることができるのではないか?」
 確かにそうかもしれない。互いを励ましあい、助け合うことで和気あいあいとした平和的な集団となることもあるだろう。しかしそこでリーダーの性格が集団の雰囲気に大きな影響を与えることに注意したい。リーダーが温厚で面倒見のいい性格であれば、いじめも起きにくいだろう。しかしリーダーが若干でもサディスティックな性格を持っている場合は、あるいは先述したとおり厚皮型やサイコパス的なナルシシストの場合は、攻撃の対象をすぐに見つけ出し、周囲を扇動していじめに向かわせる。そこで上記の二番目の条件(仮想敵の存在)が働くことで強い「排除の力学」が働き、いじめの構造は簡単に作り出されてしまう。
そしてそのような時、仲間外れをされそうになっている人に関して、別のメンバーが「どうして彼を除外するのか。彼も仲間ではないか? みんな仲良くやろう!」と訴えるのは極めてリスキーなことである。なぜならグループを排除されかけている人を援護することは、その人もまた排除されるべき存在とみなされてしまうからだ。「みんなが仲良くやろう」というメッセージは事態を抑制するどころか逆方向に加速させる可能性がある。こうしてグループから一人が排除され始めるという現象は、それ自体がポジティブフィードバック・ループを形成することになり、事態は一気に展開してしまう可能性があるのだ。
いじめの被害に遭った人たちが多く語るのは、一番恐ろしいのは、その集団から外されてしまうことだという。そのためにいじめを甘んじて受け、また誰かの受けているいじめを傍観したり、いじめに加担したりすることになるのである。
この「排除の力学」は、実際には排除が行われていない時も、常に作動し続けることになる。メンバーはその集団内で不都合なことや理不尽なことを体験しても、それらを指摘することで自分が排除の対象になるのではないかという危惧から、口をつぐむことになる。私がこの集団における「排除の力学」についてまず論じたのは、結局このような事態が日本社会のあらゆる層に生じることで、いじめによるトラウマを生み出していると思えるからである。
日本の社会におけるいじめの問題を考える時、その構成メンバーの均一性は非常に大きなファクターとなる。一般に集団においては、お互いが似たもの同士であるほど、少しでも異なった人は異物のように扱われ、「排除の力学」の対象とされかねない。日本は実質上単一民族国家に非常に近いといってよく、メンバーは皆歩調を合わせて行動し、何よりも「ほかの人と違っていないか」に配慮をする傾向にある。
ほかの人と違ってはいけない、という発想は、すでに学校生活が始まる時点で生じている。私が小学校に上がった年、学校に制服はなかったものの、みな判で押したように、男子は黒のランドセル、女性は赤のランドセルだった。その中で一人だけ黄色のランドセルだったU子ちゃんのことは、いまでも鮮明に覚えている。それだけ目立っていたのだ。幸いU子ちゃんはいじめの対象にはならなかったが。なぜU子ちゃんのランドセルのことを私はそれほど鮮明に覚えているのだろう。おそらく6歳の私の中には、既に「みんな同じでなくてはならない」があったのだ。だから黄色のランドセルを背負っているU子ちゃんに対して強烈な違和感を持ったのだろう。「よくみんなと違う色のランドセルで平気なんだな。」
因みに最近のネットの宣伝を見ると、ランドセルはその気になればネット上でいくらでもカスタマイズでき、好きな色や飾りを選んで自分独自のオリジナルなランドセルを作ることができるらしい。しかしそうなると、そのうち普通の既成のランドセルを背負っていることが目立つことになりかねない。世の中でいじめの種は尽きないのである。
6歳ないしはそれ以前から日本人の心の中にある「皆と同じでないと・・・」という気持ち。このような現象はもともと生物学的、民俗学的に「似た者同士」の集団においてより生じやすいはずではないか? アメリカなどでは、所属する集団の構成員のどこにも目立った共通点が見出せないということは普通に起きる。彼らの皮膚の色も人種も体型も最初から全く異なっているのである。そして小学生達は色も形もまちまちのカバンを背負い、あるいはぶら下げているのである。




2015年8月27日木曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 16/50)

 「お・も・て・な・し」とも関係している
もう少し言えば、このモンスター化の問題は、日本人の「おもてなし」の心ともかなり関係しているのだ。他人をもてなすことが、モンスター化の誘因となる、ということは十分考えられることである。もてなすという善意に基づく行為が、それによりトラウマを受けてしまう原因となるというのは何とも矛盾した現象といえよう。
 日本はもともと、もてなしの文化と考えられ、サービス業における客対応の質は極めて高いレベルにあることが知られている。「お・も・て・な・し」は、一昨年(2013)の流行語大賞にもなったが、これにはどのような意味があるのだろうか? 現代の日本人の精神性が最近になってさらに高められ、愛他性や博愛の精神が日本人の行動の隅々まで行き届くようになったのだろうか? いや、そう考えるのは短絡的だろう。
 「おもてなし」は、一種の戦略としてとらえられるべきなのだ。
 飲食業そのほかのサービス業間の競争が進む中で、いかに一人でも多くの顧客を取り込むかに関するマーケットリサーチが進み、顧客がより心地よさを感じるような対応を各企業が目指すようになっている。これは市場経済の原則に従った結果である。店員が「おもてなし」の精神をうたうことは、ちょうどコンビニ間の競争が激化したおかげでお弁当がよりおいしくなり(あるいは少なくとも口当たりがよくなり)、菓子パンがより食欲をそそるようになるのと同じである。今のコンビニのパン売り場はどれだけ厳選された菓子パンが並んでいることだろう?それは企業があらゆる手を使って顧客をつかもうとした結果勝ち残った商品たちだ。つまりは売る側の最大の「もてなし」とは、売り上げとして反映されているような菓子パンを供給することなのだ。
 私が小さい頃は、パン屋さんに行っても丸いアンパンと楕円形のジャムパンと、グローブ型のクリームパンと渦巻き型のチョコレートパンの4種類しかなかったと記憶している。きっとパン屋さんは「パンとはこんなものだ」という慣習と常識に従い、購買者の顔をあまり思い浮かべずに作っていたのであろう。
「おもてなし」の精神が強調されるようになったことは、日本がそれまでの伝統からより自由になったこととも関係しているだろう。菓子パンはこのようにあるべき、ジャムパンはこの形、という伝統と、何が好まれるか、ということは別の問題なのだ。だから時代が遡ればさかのぼるほど、人は慣習を優先させた。「おもてなし」は、心優しい人が、それぞれの状況で、個別的に発揮しているにすぎなかったのである。
 思い出せば、昔は人のサービスは今ほど行き届いてはいなかった。「おもてなし」は例外的だったのである。JRの前身の、「国鉄」といわれていた時代の改札口で、切符切りバサミをパチパチやっていた駅員さんは、いつも愛想がなく仏頂面だった。タクシーの運転手もまた不機嫌そうで、近距離のタクシーに乗る時は、乗車拒否されるのではないかと運転手の顔色を窺ったものだ。
それでも諸外国よりはましだったのであろう。私は米国に留学している間には、店員に愛想よく扱われるという発想はあまり持たなくなっていた。彼の地での客の扱いはかなり大雑把である。客を待たせて店員同士がおしゃべりをするということはよく見かけるシーンだった。
  私が2004年に帰国して再び暮らすようになった日本は、サービス向上の努力や民営化の影響で、以前よりさらに改善されたという印象を持った。お店の従業員はみな顧客にとても愛想がいいのである。コンビニで100円のアイスを買っただけで手を胸の前に合わせて最敬礼されるなど、1980年だ(留学前)に留学する前にはなかったことだ。
 こうなるとお店におけるマナーの良さは横並びという感じで、少しでも不愛想な店員のいる店はそれだけですぐに後れを取ってしまう。「お客様に失礼があってはならない」ことを至上命令として刷り込まれている店員は、モンスター・カスタマーからとんでもない要求を突きつけられて一瞬絶句しても、まずは「大変申し訳ありませんでした」とまず受けてしまうことだろう。そうすることで、無理難題を受け入れるというベクトルを最初に定めてしまうのである。
 今の時代に「お・も・て・な・し」が改めて流行語になることは興味深いが、これも日本にオリンピックを招致するための戦略から発していたことを忘れてはならない。そしてそれがそれなりにウケるということは、諸外国もその価値がわかるほどに追いついてきたということだろう。そしてその時点で私たちは諸外国からの訪問客からの無理難題を聞かざるを得ない立場に自らを追い込んでいるのではないかと、少し心配にもなる。「お・も・て・な・し」は確実に、カスタマーが増長する一因となっていると思う。
本書をこれまでお読みの方は、この問題は自己愛トラウマとも結びついていることを理解されるかもしれない。「おもてなし」を受けて当然と思っているカスタマーは、もうちょっとやそっとでは満足しない。高いお金を出して飛行機のファーストクラスに乗った時のことを想像していただきたい。搭乗後、何かの都合で飲み物がエコノミークラスの人たちに先に配られているのを知ったとしたら、「こちらは高いお金を出したのに何だよ!」と、ファーストクラスとしてのプライドを痛く傷つけられるに違いない。人より先に飲み物を飲めないので怒る、とはいかにも子供っぽいが、プライドを傷つけられた人間には極めて重大な問題なのである。モンスター化している人はこの、本来受けるべきだと信じているサービスを受けられないいことから来る自己愛的な傷つきに反応している可能性があるのだ。

モンスター化は普通の人に生じる
ここで再び問うてみたい。モンスターたちは、深刻な自己愛の病理や、未熟なパーソナリティを有した人たちなのだろうか。本書では、私は彼らを、一種の自己愛者ととらえている。しかしそれは彼が社会の与えらえた状況で、一時期的にそうなる、という意味である。そのことは、モンスターと言われる人たちを観察してみるとわかる。
 モンスターと言われる人々の多くは、少なくとも社会適応が出来ていているのだ。学校側を困惑させる例として本などに描かれるモンスターペアレントたちは、曲がりなりにも家庭を築き、「子供思い」で「熱心な」親で通っている。家族のあいだに重大な亀裂が生じている様子はないのが普通だ。最近では夫婦が歩調を合わせて、あるいは親子が連携してモンスター化するとさえ伝えられているのである。彼らは主婦として、会社員としてそれなりの機能を果たしている以上、彼らを病的なパーソナリティの持ち主と考えることには無理がある。
 私の印象では、モンスター化する人たちは性格的にも特に特徴となる点もない、私たちの中にもたくさん存在するような人々のである。彼らがクライエントとして店や企業と関わったり、子供の通っている学校側と対峙したりする状況で、「魔が差して」しまったかのように無理難題を持ち出す、ということが起きているようである。
 もちろんモンスターの中には人格的に極端な偏りがあったり、精神疾患を抱えていたりする人たちもいる。その場合には彼らが既にかかわっている医療側の介入により、事態は比較的早く解決に向かう傾向にある。問題はそれ以外では適応がよく、それなりに社会でリスペクトを受けているような人々が、ある特定な場面でストップが効かなくなってしまうような状況なのだ。

学生運動の闘士たちは自己愛的だったり「未熟」だったりしたのか?

私がモンスターペアレントの現象を現代人の人格の問題と結びつけることに消極的であることのもうひとつの理由は、学生運動の顛末を見ていたことと関係している。1960年代、70年代に日本で、あるいは世界で学生運動という名の大変なモンスター化現象があった。学生が教授を「お前」呼ばわりし、集団でつるし上げる、デモ行進をして大学に立てこもったり国会を取り巻いたりするという大変な時代があったことを、現在五十歳代やそれより上の世代の方なら鮮明に覚えているはずだ。当時の学生たちのナルぶりは驚くべきだろう。敬意を表し、その教えに従うべき教師を、逆に威嚇し恫喝する。それは強烈な快感と、同時に深刻な後ろめたさを伴う行為だったに違いない。
 あれは当時からすれば、当時の学生の未熟さや他罰傾向として説明されたであろう。「近頃の若いものはどうなっているんだろう?」という大人からのコメントが一番聞かれたのもこの時期だったのだろう。
 しかし時代は変わり、学生運動はすっかり過去のものになっている。当時未熟だったり甘やかされていたはずの学生たちは、社会では普通に管理職の側に回ったり、すでに引退をして孫を抱いたりしている(ちなみにかの元都知事も、大学生時代は学生運動の闘士であったという)。彼らはすっかり普通の市民として社会に溶け込み、その一方では現在の学生たちは学生運動世代以前よりさらにノンポリになっている傾向すらある。彼らは未熟な性格、一種のパーソナリティの異常をきたしていたのだろうか? 否、であろう。今から思えばあの運動は時代の産物だったのだ。
以上「モンスタータイプの自己愛者たち」について考えた。結論から言えばモンスターたちは実はその多くが普通の人たちであり、その人たちにより頻繁に「魔が差す」ことを許容するような社会環境が、最近になって生じてきているというのが私の主張である。
ただしモンスター化する人々の一部に何らかの精神医学的な問題が存在する可能性を否定するものではない。事実どのような状況でも決してモンスター化しない人もいれば、簡単にモンスターになってしまう人もいるだろう。この後者の多くは、他人の行動をとりこんでしまう被暗示性の強い人々であると考えるが、パーソナリティ上の問題をより多く抱えている人たちも含まれるようだという点を最後に指摘しておきたい。

参考文献
(1)嶋崎政男 『学校崩壊と理不尽クレーム』 集英社新書、2008
(2)小松秀樹 『医療崩壊「立ち去り型サボタージュ」とは何か』 朝日新聞社、2006
(3)諸富祥彦 『子どもより親が怖い カウンセラーが聞いた教師の本音』 青春出版社、2002
(4)尾木直樹 『バカ親って言うな! -モンスターペアレントの謎-』 角川Oneテーマ212008
(5)岡野憲一郎 「ボーダーライン反応で仕事を失う」『こころの臨床アラカルト Vol. 25, No1. 特集ボーダーライン(境界性人格障害)』星和書店、2006


推敲4/50の追加部分。
この文章を書いている間にも、ニュースは寒い国で副首相が独裁者に銃殺になったという。第1書記が推進する山林緑化政策に不満を表明したことなどが理由という。韓国の情報筋は、現第1書記が2012年に就任して以降、北朝鮮で80人以上が処刑されたと指摘し、見せしめに幹部らの命を奪う「恐怖政治」が続いているとの分析を示したとのことである。自分に異を唱えただけで撃たれてしまう。これほど理不尽なことが続く裏には、指導者の恐ろしいまでに肥大した自己愛と、それを傷つけるいかなるものも激しい怒り(自己愛憤怒)を生むという事情があるのだろう。

2015年8月26日水曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 15/50)

台風一過。


アスペルガー障害の自己愛的な怒り-「浅草通り魔殺人事件」を例に

 アスペルガー型の自己愛についてはすでに項目を立てて述べたが、その怒りの問題について、ここで改めて述べたい。
 「自己愛トラウマ」→怒り という図式については、すでに説明したとおりである。問題はこの自己愛トラウマが実に理不尽で、身勝手なものであるということであった。自己愛者たちは、きわめて不可解な理由で傷つき、怒る。一般人からみたら「どうしてそんなことでキレるの?」「それって逆ギレじゃない?」と言いたくなるような理由で怒るのだ。そしてその怒りの理不尽さ、理解不可能さは、実は彼らの自己愛の病理の深刻度に比例していると言える。自己愛の病理が深く、彼らの「ナルシシズムの風船」が異様に膨らんでいると、普通の人には思いつかないような理由でも、その風船への刺激となり、それが破裂して怒らせてしまう可能性が高くなるのだ。
そこにアスペルガー障害の病理が加わると、自己愛トラウマの起き方もその不可解さが増す。彼らが独自のロジック、考え方のパターンを持っていて、通常の考え方では追えないということが一番の原因と言えるのだ。

2001430日、東京の浅草で19歳の短大生が刺殺されるという事件が発生した。ずいぶん前の話だが、犯人のレッサーパンダの帽子をかぶった奇妙な男の写真を覚えている方も多いだろう。札幌市出身で当時29歳の無職のこの男は、普段は非常におとなしい性格だったというが、浅草の繁華街で見かけた女性に「友達になりたいと思って」声をかけようとして、結局この凶行にいたったという。「歩いていた短大生に、後ろから声をかけたらビックリした顔をしたのでカッとなって刺した」と供述しているとのことである。

これは私の憶測であるが、この犯人はおそらく普段他人から相手にされていないことにいらだち、フラストレーションをためていたという可能性がある。アスペルガー症候群にしばしば見られるのはこの種の被害者意識であり、自分を理解しない社会への憤りである。興味を持った女性に対して向けられた攻撃性の一部はそれに関係しているのだろう。
 ここで重要なのは、犯人はこの若い女性に「びっくりされた」ことにプライドを傷つけられた可能性が大きいということだ。彼女に馬鹿にされた、というのが体験としては近いのではないだろうか。つまり「自己愛トラウマ」だった可能性があるのである。もちろんそう感じた思考過程はブラックボックスの中であるが、人の表情に見られる感情表現を誤認する、あるいは理解できないという問題は特にアスペルガーの患者さんたちに顕著である場合が多い。彼らの予測不可能な自己愛の傷つき → 不可解な怒りの暴発 というのがアスペルガー型の自己愛を特徴づけているわけだ。
すでに紹介した「恥と自己愛トラウマ」の中でもう一つ私が挙げている怒りの例も、アスペルガー型の自己愛の傷つきに由来するものとして比較的いい例となっているので、これも紹介したい。(と言いながら、自己剽窃を続ける。)

「秋葉原通り魔事件」における犯人の怒り

この事件は20086東京秋葉原で発生し、7人が死亡、10人が負傷したというものである。その唐突さと残虐性のために、おそらく多くの私たちの心に鮮明に記憶されているだろう。犯人の運転する2トントラックは、交差点の赤信号を突っ切り、歩行者天国となっている道路を横断中の歩行者5人を撥ね飛ばした。トラックを降りた犯人は、それから通行人や警察官ら14人を立て続けにダガーナイフでメッタ刺しにしたのである。
犯人は青森県出身の25歳の男性KTで、岐阜県の短大卒業後、各地を転々としながら働いていたという。「生活に疲れた。世の中が嫌になった。人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」などと犯行の動機を供述したが、携帯サイトの掲示板で約1000回の書き込みを行っていたという。携帯サイト心のよりどころにしていたわけだが、そこでも無視され続けたという思いが募り、さらに孤立感を深め、殺人を予告する書き込みを行うようになっていった。当日の犯行の直前にも、沼津から犯行現場まで移動する間に約30件のメッセージを書き込んでいたという。
さて極めて凄惨な出来事であり、日本人を震撼させたとはいえ、既に旧聞に属しかけたこの事件について、のちに犯人が最近になり獄中から手記を発表した。それが「Psycho Critique 17[解](JPCA, 2012年)」であるが、その手記を読む限り、やはりこの犯行には犯人の自己愛の傷つき、「自己愛トラウマ」が関係していると考えられるのである。つまり自分のメッセージに誰も反応してくれないことで、犯人は深刻な「自己愛トラウマ」を体験していたのだ。例によって全く理不尽な、加害者不在のトラウマを、である。

 7章 モンスターという名の自己愛者
(本章は、自著「恥と自己愛トラウマ」からかなりの引用を行っていることをお断りしておく。)
ある患者さんがこう言った。「なかなか外に出られなかったんですが、ようやく近くのスーパーに行けたんです。それでレジでお金を払う時、小銭を出そうとして財布の中を探して、それでちょっと、ほんの数秒ですが支払いに時間がかかったんです。すると次に並んでいる男の人が聞こえないくらいの音で、がチッと舌打ちをしたんです。この世の中はなんて怖いところなんだろう、と思うと、外出するのがまた怖くなりました。」
この話の本当に怖いところは、この状況での舌打ち程度なら、だれでもしてしまう可能性があるということだ。私も駅で急いでいる時などに、改札で前の人のICカードがはじかれたりすると、ため息程度は簡単についてしまう。私も含めて、世の中は、少しでもミスをしたり、秩序を乱した人に対してすぐに文句を言うような、いわばプチ・モンスターたちがウヨウヨしているようなのだ。
いま「モンスター化現象」なるものが我が国のいたるところで起きている。生徒が、保護者が、部下が、カスタマーが、患者が、対応に出る相手に厳しくクレームをつける。彼らのクレームに根拠がないわけではない。しかしその言い方が攻撃的で、やたら感情的なのだ。
 彼らに責め立てられる教師や管理職や店員や医療職従事者は、場合によっては深刻なトラウマを受けている。教師や管理職や医療従事者の中にはそれでうつ状態に陥ったり、仕事を休んだりするということも起きている。
 しかしモンスター化現象は、一部の異常な人たちによる現象ではない。私たち一人一人が、社会の中で、あるときある状況でモンスターになってしまうという可能性だ。たとえばレジでチッとやるプチ・モンスター客のように。日本で一番数の多い自己愛な人たちは、このモンスターの姿を借りているかもしれないのだ。
私がこれらのモンスターたちをナルシシストの仲間に入れて論じるのには根拠がある。彼らはモンスターぶりを発揮している時は、クレームをつけている相手のことが見えていない。そして自分はサービスを受ける側である、という一種の特権意識を感じている。相手に対して、自分を持ち上げてリスペクトを向けるべきであるという、ある意味では見下した視線を向けている可能性が高いからだ。そしてそれはナルシシストの典型的な心性なのである。
 このモンスター型のナルシシストには一つの特徴がある。それは社会の限られた状況で、それこそ一般人がナルシシストとして出現する、ということだ。病院の受付で対応のまずさに文句を言うモンスター患者は、しかし職場であるコンビニのレジでは、まじめに黙々と顧客対応をしている。時にはモンスター型の客の対応に四苦八苦することもあるかもしれない。彼女はまたいったん家庭に帰れば、いいお母さんだったり、いい妻だったりする。ただ少しむしゃくしゃした時に、自分がカスタマーという立場に立てる状況で、ある時プチ・モンスター化するのだ。
 私たち一般人のプチ・モンスター化は、だから日常的でよくある現象かもしれない。しかし問題はそれが社会のあらゆる場面で増えているらしいということなのだ。一体現代の日本で何が起きているのだろうか。どうして私たちは最近になり、これまで以上にプチ・モンスターという形での自己愛者になり、たがいにトラウマを与え合っているのだろう?
モンスター現象のひとつの説明としてよく聞かれるのが、現代人の未熟さや他罰性(他人を責める傾向)のせいというものである。
 モンスターたちを「未熟な人たち」とする根拠
モンスター化は人格の未熟さだという説を提唱する人の一人が嶋崎政男氏である(「学校崩壊と理不尽クレーム」集英社新書、2008)。彼らはナルシシスト、というよりは子供っぽい、未成熟な人たちととらえるのだ。
嶋崎氏によれば、モンスターペアレントの問題が生じ出したのは1990年の後半か、あるいは公立学校で学校選択制が導入された2000年の可能性もあるとする。ただ社会の耳目を集め、マスコミがこぞって取り上げるようになったのは2007年であったという。「投石での窓ガラス破損に弁償を要求したら、親が『そこに石があるのが悪い』と言った」とか「学校で禁止されている携帯電話を没収したところ『基本料金を支払え』と親が言った」という例は有名らしく、他の関連書にもしばしば登場する。
嶋崎氏の著書では、モンスター化現象の「原因」について触れている。彼はまずモンスターペアレントの問題が、彼らの年代にあるとする。この問題が深刻化した1990年代の半ばに義務教育を受けた子供を持つ親は、現在40歳代、50歳代である。それはかつて新人類と呼ばれ、共通一次世代とも言われた人々でもある。そして彼らの特徴として、諸富祥彦明大教授の説を引用している。つまり「他人から批判されることに慣れておらず、自分の子供が批判されると、あたかも自分が傷つけられたかのように思って逆ギレしてしまう」というのだ。
 嶋崎氏はさらに1980年代に全国の中学で校内暴力が吹き荒れたことにも言及している。それを間近に見て、「何をやっても許されるという幼児的な万能感に基づいた身勝手な不条理がまかり通るのを体験して育った世代が、『教師への反発、反抗は当たり前』という感覚を持つようになったことは容易に頷ける」、とも書かれている。
 モンスターペアレントに関する論述は多いが、その原因についての論調はこの嶋崎氏や諸富氏のそれと類似しているという印象を受ける。
しかしよく考えると、このことはモンスター化が急増する理由を十分に説明していない気がする。もしモンスターたちが「未熟な性格」なら、なぜ彼らは社会の別の場面では普通に振る舞えるのだろうか? もちろん彼らが育った環境は、彼らのナルシシズムにそれなりに貢献しているのであろう。しかしそれ以外の要素も考慮に入れるべきであろうと考える。
  クレイマー社会の由来
それでは私の考えを述べよう。現在の日本がモンスター型の自己愛者をたくさん生んでしまうのは、社会がそれを許容する様な培地を提供しているからだ。現代の日本では人の意識が以前と少しずつ変わって来ている。人が自分に与えられた権利を主張するということは、ある意味では当然のことである、という意識が少しずつ浸透している。人は社会でお互いを尊重し合い、不当な扱いを受けたら正当な手段で不満を述べ、場合によっては相手を訴えることは、基本的には正当なことだ。それは欧米社会では、おそらく数十年は先に行われてきたことだ。それが、日本でもここ2030年でようやく行われ始めたのである。
 しかし問題は、自分の主張を訴える側も、訴えられる側も、お互いにどのように対応していいかわからないという事態が見られることなのだ。ちょうど人々が一斉に柔道の投げ技をまず教わったものの、まだ力の加減を知らず、また受身の仕方もわかっていないかのように、である。組手で投げる側がむしゃらに投げて相手を痛めつけ、今度は攻守交代になると逆のことを相手にするわけである。
 一つの例を挙げよう。クレイマーからの電話はしばしば、延々と続く。カスタマー対応の方はそれをこちらから切ってはいけないというルールをどこからか教えられて、通常の仕事を犠牲にしてまで聞き続ける。ひたすら謝罪のみの対応だから、クレイマーの態度は増々自己愛的になっていき、その対応に当たる人はそれをトラウマとして体験し、一部はうつになり、そしてまた一部は ・・・・・・ 自分自身が別の場所でモンスター化するのだ。
先日は近くのコンビニで、店員の対応が悪いと猛烈な勢いで食って掛かっている客を見かけた。若い店員は平身低頭だったがそれでも埒があかず、困り果てていた。このような時、かつてのアメリカでの生活を思い出した。アメリカでは誰かが声を荒げた時点で、「力の誇示 show of force」となるのが普通だ。つまり警備員や警察が呼ばれるのである。怒鳴ることは「言葉の暴力」であり、人を殴ったり物を壊したりする「身体的な暴力」と同等の反社会的な行為とみなされる。
一般にアメリカでは人前で怒鳴るのは覚悟がいることだ。人はすぐ「力の誇示」に訴えようとする。結果として制服の人々が現れればあっという間におとなしくなるしかない。下手をすると逮捕されてしまうからだ。
 それに比べて日本では怒った市民への対応が非常に甘い。まず別室に招いて宥めようとしたりする。酷い時は派出所で暴れる酔っぱらいを警官がなだめようとしていたりする。
 実は私はそのような平和な日本が好きなのだ。それに一時的に激昂した客や患者も、なだめすかされ、謝罪することで、大部分の人は落ち着くのだろう。しかし一部はクレイマー化、モンスター化するのである。
 ある時日本からアメリカに向かう飛行機で興味深い光景に遭遇した。私の隣の席の日本人の中年男性が、離陸後間もなくワインを飲んですっかりいい気分になった。そしてCAに絡みだしたのである。最初は日本人のCAが対応し、何度もその客のもとに足を運んでは苦情を聞いていた。内容はと言えば、挨拶の仕方がなっていない、飲み物を持ってくるのが遅れた、などの他愛もないものだったが、CAは恐縮して、その上司にあたる日本人スタッフも謝罪に見えた。しかし男は調子に乗って「もっとしっかり説明できるやつを呼んで来い!」などといい気になってしまった。私は隣でいったいどのような形で収集を付けるのかと、半ば不安で、半ば興味深く様子をうかがっていた。すると同じ機内の中国人のCAが変わって対応するようになった。彼女の方はそっけない英語で「お話は承りました」的なことを言っている。男が相変わらず駄々をこねてもあまり相手にしない。そのうち男も諦めたらしく、眠ってしまった。
私はこの様子を見て、おそらく日本人のクレイマーに対するマニュアルに従っているのかと想像をしてみたが、日米(日中?)のクレイマー対応の違いを見せてもらった気がした。向こうではスタッフが日本のようにカスタマーに平身低頭はしないようである。