2015年7月31日金曜日

自己愛(ナル)な人(49/100)

周囲が馬鹿に見えてしまう
それでも高知能者のナルシシストは、少数だが存在する。彼らは特に努力をすることもなく、むしろ興味に惹かれて数学や物理の法則を吸収していく。特に理科系に強い彼らは、自然界に整然と存在していたり、テキストに数式として収められていたりする秩序をすばやくマスターしてしまう。努力や詰め込みという感覚はあまりない。自然に頭に入り、整理されていく。すると同様のやり方で社会のあり方や人間関係上の法則を見出すことができるような気がする。もちろん人間関係の在り方に法則などないが、彼らはごく単純なロジックやアフォリズム、自らの経験則をかなり強引にあてはめていく。もちろん社会名人間関係はいかようにも「切れる」わけであるから、彼らの論法はそれなりに筋が通っていることも多い。こうして彼らは世界を「わかった」つもりになるのである。
 彼らは概して文科系の、あるいは単純記憶を必要とするような学科にはあまり興味を持たないかも知れないが、彼らはの優れた記憶力をもって暗記モノが必要な科目は無難にこなし、受験は難なくクリアーする。こうして試験と名の付くものには、絶対的な自信を持つことになるのだ。
 順調に仕上がった高知能なナルたちは、たいていは「一般人」に対する優越感を持つにいたる。彼らは数字にアレルギーを示したり、初歩の数学についていけなくなったり、話の少し込み入ったロジックを飲み込めない人たちを、自分とは別種の人間と見なすであろう。もちろん「一般人」に対してあからさまに差別の目を向けたりはしないが、「自分は別人種」という認識は常に持っている可能性がある。露骨な言い方をすれば、「周囲はバカに見えてしまう」わけである。
高知能の人たちはかなり社会性に関しては危ういところがある。人とのかかわりに関しては興味や関心が薄い場合が多いからだ。しかし「自分がどのように動けば周囲がどのように反応する」「自分が~を達成したい時には、~すればいい」ということを判断する能力も非常に高いことが多い。必要に応じてそれを用いて無難に対人関係を乗り切ることで、集団の中で地位を得て、しばしば非常に有能な人材として評価され、重用されたりする。頭脳優秀な彼らは大学の教授や研究職を得るだろう。
さて高知能な彼らのナルシシズムは、実は彼らの優秀さとは裏腹の、人間理解の浅薄さが関係していると見て言い。システマティックな知識やそれを使いこなす頭脳は、かなりの程度情緒的な知能、EQとは綱引きの関係にある。一般的に言って、理科系的な意味で優秀な頭脳は、共感に関する能力を犠牲にした上で成り立っている。そしてそのことを彼らは知らないか、あるいは知っていても重要と考えない。人に共感すること、他人のために尽力することは、彼らの頭脳においては「無駄なこと」「意味のないこと」として棄却されてしまう。
 私はこの高知能のナルシシズムを発揮している人たちに何人か会ったが、彼らのひとつの特徴があった。それは彼らが他人と交わす会話は、よくよく聞いてみると、彼の成功体験、いかに彼らの頭脳が優れているかを示すようなエピソードに終始しているということである。彼らの体験談はそれなりに興味深く、魅力的であるが、それは結局は、彼らの優れた頭脳がどのような驚きを周囲に与え、そのために事態がどのように彼らに有利に展開していったかの自慢話なのである。考えてみれば特別優秀な彼らの頭脳は、結果的に多くの成功体験を生んでいるので、自分の人生を話せば結局自慢になる、というのは彼らにとっても不幸なことかもしれない。しかし彼らは周囲が「エー、すごいじゃないですか!」「いったい先生の頭の中はどうなっているんでしょうね。」という、周囲の反応から来る心地よさには勝てない。そのような羨望を向けられるような話を期待されてしまうという認識もある程度あるだろう。と言うことで「口を開けば自慢話」というパターンが出来上がる。また記憶力が非常にいい彼らにとっては不思議なことに、同じ話の繰り返し、焼き直しも多い。
彼らの話の中で自慢話以外に多いのが、彼らの薀蓄、知識の披露である。何しろ記憶力に優れ、また知識の吸収には貪欲なところがある。興味を持ちしばらく没頭することで、少なくとも知識のレベルではその分野の玄人はだしになる。それを求められるがままに、あるいは求められない場合にでも彼らの知識を披露することも、彼らの対人関係を維持する上で用いる重要なレパートリーのひとつになる。
 しかし彼らが自らの知識を披露し、あるいは成功体験を得々と語っているのを我慢する、苦々しく思う、という人も少なくない。自慢話も、知識の披瀝も、彼らの自己愛を満足させはするであろうが、周囲に不快感や羨望を抱かせる可能性は十分にあるのである。
私は「高知能はその人を滅ぼしかねない」という説を持つが、それは彼らの知的なこだわりが、異常なまでの細部への執着、いわば「重箱の隅つつき」へ向かわせ、それにより彼らが物事の全体像を見落とす傾向があるからだ。もちろんそれが彼らの高い知能の「賢い」使い方ではない。もし自らの高い知能を内省や自己に関する洞察に向ける事が出来たら、彼は自らの自己愛的な振る舞いを客観的に観察することが出来、必要に応じて抑制できるはずだ。そしてそのような高知能者は、おそらく外見上はほとんど一般人と区別が出来ないのかもしれない。特に自慢話もせず、目立ちもせず、淡々と、あるいは飄々と生きているに違いない。

しかし不幸なことに、高知能者は自らが事情にそれに詳しく、またこだわりや一家言を持っている場合には、その話題になったときには黙っていられないものである。自分にとってのこだわりのテーマについての知識を披瀝することが、そこにいる皆の興味を惹き、彼らの好奇心を満足させると信じてしまうのである。