2015年7月28日火曜日

自己愛(ナル)な人(46/100)

 中国人と面子
中国という国、ないし中国人の自己愛について考える際、特に重要なのが、彼らにとっての面子(メンツ)の持つ意味である。上述の遠藤滋氏は、中国人の行動基準となるのは、「銭」、「報」、「面子」であるという。そしてこのうちの面子が、「中国人にとっては命のように大切」であるという。日本人は面子がつぶされた、ということをよく言うが、中国人はこれを自分から口にしないものの、はるかにこれを重要視しているという。そしてそのためには事実を捻じ曲げることもあるというのだ。
この面子という概念、中国という国やその国民のナルシシズムを考える上でとても重要なのかもしれない。彼らは外見上は倫理的に正しく、高い能力を備え、自信にあふれているというイメージを、外に向かって示し続ける。そしてそれを否定され、恥をかかされるような体験を死に物狂いで回避する。そしてこれは、それとは逆の内面重視の思考、つまり内なる倫理性、高潔さ、内面的な強さを求める傾向とはまったく異なる。後者の場合は人を欺くことも否定され、恥ずべきことと考えられるだろう。しかし「面子」を重んじるということは、しばしば他者を搾取したり利用したりすることとにも結び付く。何しろ「事実を捻じ曲げる」ことで犠牲になるのは他者だからだ。
遠藤氏が用いている体験談が面白い。昔ゴルフボールがまだ高価だった頃のことである。中国でゴルフをする機会があったが、周囲の林には飛んできたボールを拾おうと、何人かの人が立っていたという。あるとき彼のボールが右にそれて、林の中に飛んだので探しに行くと、そこにも一人の男が立っていた。彼が飛んできだボールを拾って隠し持っているのが明らかであった。しかし彼を問い詰めても決して認めることはない。そうすること彼の面子をつぶすことだからだ。そこで一緒にボールを探すふりをしたという。するとその男はポケットからひそかにボールを落として、「このボールがあなたのであろう」と言ったという。
この意味での面子はほぼ自己愛と同類と言っていいと思うが、そこにはある種のルールといったものが存在しているようにも思える。互いの面子をつぶさない、は中国社会ではある種の常識ないしは作法となっているのだろう。すると人と人との関わり合いも日本のそれとはずいぶん違ってくるはずだ。中国では自分たちの面子を守るための事実の歪曲の応酬ということになる。それは一種のパワーゲームであり、極端に打算的でシビアな世界と言える。日本人がその中に入ってどの程度彼らと渡り合っていけるのだろうか?およそ別の世界観や人間観を持つことでしか、自らの主張を貫いたり、有利にビジネスを展開したりすることなどできないだろう。
国的なナルシシズムは国を利するのか?
中国という国についてのナルシシズムを考えていくと、一つの重要なテーマが浮かんでくる。国のナルシシズムは、その国のためになるのだろうか?
 この問いの根拠を示す前に、「(人の)ナルシシズムは、その人のためになっているか?」を考えてみよう。ナルシシストは自分の満足のために、他者を利用する。それは最終的にその人を利するのだろうか?答えはある程度分かっていると思うが、一応順番として考える。
ナルシシズムは、その人が権力や能力を獲得すると、それに従って膨らんでいくものだ。ナルな人たちは、自分たちのナルシシズムを、自分のために利用しているというわけではない。彼らはその地位や権力のために、ナルシシストとして振る舞うことを許されるのだ。恐らく大多数のナルシシストたちは、そのナルシシズムのせいで人に疎まがられ、信頼を失い、敵を増やす。誰だってナルな上司や友人から搾取的な扱いをされるのは好まないだろうし、彼らの自慢話を聞き続けたくはない。「あの高慢さや人を見下すところさえなかったら、あの人もいい人なのに…」と言われている人は大勢いるだろう。
ナルシシズムとは、権力や能力を持った人が得るご褒美のようなものかもしれない。自慢話を聞いてもらうことは、拍手喝さいを浴びることは、ナルシシストたちには快感だろう。その快感は、彼らの努力や運の見返りという事が出来る。しかし同じ見返りでも、たとえば金銭的な報酬と違い、自己愛の満足という報酬は、人にはしばしば不快感を与える。そしてそれはやがては対人関係を通じて自分に跳ね返ってくる。
 結論から言えば、自己愛的な人たちは、自分のナルシシズムにより、結果的に損をしている場合が多いと考えるべきだろう。だから「自己愛はその人を最終的に利するのか?」という問いには、一応否、としておくことができよう。 (もちろん大まかに言って、と断っておこう。例外もおそらく多いであろうからだ。)
さて最初の問い、つまり「国としてのナルシシズムは、その国を利するのだろうか?」について考えよう。外交は、自国を利するための駆け引きである。最終的に国を利するためには、あらゆる策が弄されてしかるべきである。そしておそらく確かなのは、外交に関して、中国は日本よりはるかに長けているということだ。その中国が、どうして自己愛的に振る舞うのだろうか?個人として考えるならば自分を害するはずの自己愛が、どうして中国という国の態度をそこまで特徴づけているのだろうか?
中国はその長い歴史の中で、何度も異民族による統治を受けてきた。アヘン戦争の後は、列強に支配されるという長い屈辱の時代を過ごした。外交を有利に進めることは自国にとって死活問題のはずである。他国を苛立たせ、時には警戒感を募らせるような自己愛的な振る舞いは、個人を利することにはつながらないはずなのに、なぜ国策として、外交の手段として採用されているのだろうか?
私はこの問題について興味を持っているものの、一つの答えを出し切れていない。私は個人の病理を扱う精神科医である。国を一つの人間のように見立てる本章のような議論には、多大な困難さを感じる。やはりこのテーマは専門外なのである。従って以下の考察は、非専門家の戯言と思っていただきたい。

一つの可能性。中国は壮大な「勘違い」をしているのかもしれない。中国は一党独裁であり、おそらく権力の中枢にあるごく一部の人間たちにより国を運営する方針が決定されている。少なくとも彼らが人民をどのようにコントロールし、掌握するかについては、とんでもない勘違いをしていることは確かであろう。それは反対派を弾圧し、口封じをすることが最善な手段であるかのごとき政策をとり続けていることだ。最近でも中国の人権派弁護士らが相次ぎ拘束されているというニュースが報道された。(2015714日のニュース)しかしその種の弾圧による統治が安定的に永続的に成功することはおそらくないということは、ベルリンの壁の崩壊を通じて、世界の常識となりつつある。一党独裁の政権が安定して存続したためしなどないのだ。
 中国の政府の首脳が、単なる政権の延命策としてこのような方針を取っているのか、それとも真剣にそれが最善の方策と考えているのかはわからないが、もし後者だとしたら、上の「勘違い」の可能性も高くなるのではないか。つまり人民に行っている、強引で力ずくの政策が最善であり、そこに永続性があるという「勘違い」を外交場面でも行っているということだ。