2015年7月24日金曜日

自己愛(ナル)な人(42/100)

医師という名のナルシシスト

米国にいるとき、次の様な話を聞いた。「医者とナルシシストとは同義語synonym だ」。きわめてシンプルな表現だが、これはよくわかる。医師は自己愛的で人の話を聴かず、傲慢であることが多い。米国も日本もこの事情は変わらない。
 もちろん例外もたくさんいる。人の話に耳を傾ける、人間的で心優しい医師だっているだろう。でもやはり圧倒的に自己愛的な人間が多い。
 私は精神科医だが、外来で聞く患者からの、かつての主治医に対する言葉は、ほとんど常に辛らつである。ろくに話を聞かず、一方的に自分の考えを伝えてくる。薬について質問したり、治療方針に注文をつけようものなら、露骨に不機嫌さを表す。患者の方をむいてきちんと話をしない、など。はっきり言って医師に関するいい評価はほとんど聴いたことがない。
もちろん患者さんたちが、元の主治医を悪く脚色しすぎている可能性も否定はできない。そして同様のことを自分自身も言われていることを考えると、(必然的にそういうことになる)決して心地よいものではない。しかし彼らの訴えは真摯なものと受け止めざるを得ない場合が大半なのだ。
医師は患者としては非常に扱いにくいということもよく知られている。特に精神科病棟に入院してきた医師、特に精神科医は扱いにくい。精神科医が精神科に入院することがあるのか、と思われるかもしれないが、もちろんある。

 私ははるか昔、メニンガークリニックでその体験を持った。メニンガーには、PIC病棟(Professional in Crisis 危機状態にあるプロフェッショナル)というのがあり、うつ病や薬物依存に陥った医師たちが多く入院していた。メニンガークリニックは田舎町にあったから、地元の人々の目を避けて、お忍びで入院するケースがよくあったのだ。当時の私はまだ30歳代のレジデント(研修生)の身だったが、40代の白人女性精神科医の主治医となった。そして彼女の態度にはとても悩まされた。彼女は外国人で不慣れな、自信のない私の立場を見透かし、馬鹿にし、さげすみの目を向けた(様な気がした)。アポイントの時間にオフィスにきてくれない、迎えに行くと部屋で寝ている、ということが繰り返されたり、病棟で呼びかけても気がつかないふりをしたりする、ということもざらであった。面接をしても顔をそむけて退屈そうな顔をする。病棟での活動にもしぶしぶ参加をするだけ、あとは自室で不貞寝をしていることが多い、という様子である。しかし私のスーパーバイザー(50歳代、白人女性の精神科医)には急に態度を変え、丁寧な接し方をするので腹が立った。
この女性患者はうつ病と深刻な薬物依存を抱えていたが、自分の日常の仕事は、同様の問題を持つ患者の診療をする立場である。その自分が精神科の患者として入院を余儀なくされるほどに病状を悪化させたわけだが、それでも医師としてのプライドがある。「自分は他の患者とは違うんだ」というオーラを一生懸命はなっていた。同時に自分の境遇にふがいなさを感じていたに違いないが、それを自己愛的な応対や振る舞いのうちに隠していたのである

どうして医師に自己愛が多いのか。人の命を救う重要な仕事についているからか?しかし医者が偉い、としても、それは最近の話だ。大河ドラマの「花燃ゆ」に久坂玄瑞が出てくる。彼はかつて医者の修業を行ったが、「医者風情」とか「医者坊主」などと呼ばれている。もともとそんなものだったのだ。それが現在では医師免許を持っていることは一種の特権扱いをされる傾向にある。しかし人の命を預かっているとしたら、バスの運転手さんはもっともっと尊敬されてもよくないだろうか?
狭き門を、難しい試験を潜り抜けたから偉いのだろうか?でも獣医になる方が、よほど狭き門のはずだ。しかし偉そうにふんぞり返っている獣医さんなんて聞いたことがない。
結局医者のナルシシズムの理由は私にはよくわからない。しかし態度が横柄で傲慢な医者の話を聞くことには事欠かない。なぜだろうか?
ここでふと考えた。彼らがナルシシストのようにふるまうのは、患者さん、そして看護師さんの前に、比較的限定されるのではないか。彼らはそれ以外では、案外普通の人々ではないか? そういう意味で昔や今の同僚のことを思い浮かべてみる。といっても主として精神科医だが仲間同士での付き合いで、精神科医たちが特別横柄で自己愛的という印象は受けない。日本精神神経学会という巨大な学会に年に一度出かけるが、そこに集まる数千人の精神科医に交じっていても、特別異常な人間の集団に交じっているという印象はない。皆ふつうの言葉で穏やかに、あるいは楽しげに談笑している。会場係の人たちともごく普通に、あるいは丁寧に話している。
 医学部の同窓会というのに一度だけ出かけたことがあるが、50歳代に差し掛かった昔の同級生たちは、最初はどこかのおやじの集団に見えたが、しばらく一緒の時間を過ごすと20代の学生の頃と全然変わらない雰囲気を残していることが分かった。しかし彼らが現在の職場に戻り、多くの場合部長や教授や医院長としてふるまう際には、全然違うのだろうな、という想像も容易に出来た。昔が想像できないほどに恰幅がよくなっていたり、パネライの大きな腕時計などをしていたりする。交換する名士なども、肩書は立派なものだ。おそらく彼らが自己愛的なのは、患者さんや、自分の指示の下で動く看護師さんたちの前におおむね限定されるのであろう。

医師がなぜ患者さんの前で自己愛的になるのか? そこにはおそらく患者さんの置かれた立場に対する彼らの相対的な立場が関係している可能性がある。自分の体や心に異常が生じた場合、人は簡単には相談できず、誰かに助けを求めてすがりつきたいような、きわめて弱弱しくヘルプレスな精神状態に陥る。検査を受ける時には下着すら脱がされ、情けない検査着姿で、寒い廊下で順番を待ったりする。検査結果に一喜一憂する。その前に立ち、診断を告げる白衣の医師は、やはり絶対的な権力を持った人間として映ってしまうのだ。そして医師の方もそれをよくわきまえている。