2015年7月31日金曜日

自己愛(ナル)な人(49/100)

周囲が馬鹿に見えてしまう
それでも高知能者のナルシシストは、少数だが存在する。彼らは特に努力をすることもなく、むしろ興味に惹かれて数学や物理の法則を吸収していく。特に理科系に強い彼らは、自然界に整然と存在していたり、テキストに数式として収められていたりする秩序をすばやくマスターしてしまう。努力や詰め込みという感覚はあまりない。自然に頭に入り、整理されていく。すると同様のやり方で社会のあり方や人間関係上の法則を見出すことができるような気がする。もちろん人間関係の在り方に法則などないが、彼らはごく単純なロジックやアフォリズム、自らの経験則をかなり強引にあてはめていく。もちろん社会名人間関係はいかようにも「切れる」わけであるから、彼らの論法はそれなりに筋が通っていることも多い。こうして彼らは世界を「わかった」つもりになるのである。
 彼らは概して文科系の、あるいは単純記憶を必要とするような学科にはあまり興味を持たないかも知れないが、彼らはの優れた記憶力をもって暗記モノが必要な科目は無難にこなし、受験は難なくクリアーする。こうして試験と名の付くものには、絶対的な自信を持つことになるのだ。
 順調に仕上がった高知能なナルたちは、たいていは「一般人」に対する優越感を持つにいたる。彼らは数字にアレルギーを示したり、初歩の数学についていけなくなったり、話の少し込み入ったロジックを飲み込めない人たちを、自分とは別種の人間と見なすであろう。もちろん「一般人」に対してあからさまに差別の目を向けたりはしないが、「自分は別人種」という認識は常に持っている可能性がある。露骨な言い方をすれば、「周囲はバカに見えてしまう」わけである。
高知能の人たちはかなり社会性に関しては危ういところがある。人とのかかわりに関しては興味や関心が薄い場合が多いからだ。しかし「自分がどのように動けば周囲がどのように反応する」「自分が~を達成したい時には、~すればいい」ということを判断する能力も非常に高いことが多い。必要に応じてそれを用いて無難に対人関係を乗り切ることで、集団の中で地位を得て、しばしば非常に有能な人材として評価され、重用されたりする。頭脳優秀な彼らは大学の教授や研究職を得るだろう。
さて高知能な彼らのナルシシズムは、実は彼らの優秀さとは裏腹の、人間理解の浅薄さが関係していると見て言い。システマティックな知識やそれを使いこなす頭脳は、かなりの程度情緒的な知能、EQとは綱引きの関係にある。一般的に言って、理科系的な意味で優秀な頭脳は、共感に関する能力を犠牲にした上で成り立っている。そしてそのことを彼らは知らないか、あるいは知っていても重要と考えない。人に共感すること、他人のために尽力することは、彼らの頭脳においては「無駄なこと」「意味のないこと」として棄却されてしまう。
 私はこの高知能のナルシシズムを発揮している人たちに何人か会ったが、彼らのひとつの特徴があった。それは彼らが他人と交わす会話は、よくよく聞いてみると、彼の成功体験、いかに彼らの頭脳が優れているかを示すようなエピソードに終始しているということである。彼らの体験談はそれなりに興味深く、魅力的であるが、それは結局は、彼らの優れた頭脳がどのような驚きを周囲に与え、そのために事態がどのように彼らに有利に展開していったかの自慢話なのである。考えてみれば特別優秀な彼らの頭脳は、結果的に多くの成功体験を生んでいるので、自分の人生を話せば結局自慢になる、というのは彼らにとっても不幸なことかもしれない。しかし彼らは周囲が「エー、すごいじゃないですか!」「いったい先生の頭の中はどうなっているんでしょうね。」という、周囲の反応から来る心地よさには勝てない。そのような羨望を向けられるような話を期待されてしまうという認識もある程度あるだろう。と言うことで「口を開けば自慢話」というパターンが出来上がる。また記憶力が非常にいい彼らにとっては不思議なことに、同じ話の繰り返し、焼き直しも多い。
彼らの話の中で自慢話以外に多いのが、彼らの薀蓄、知識の披露である。何しろ記憶力に優れ、また知識の吸収には貪欲なところがある。興味を持ちしばらく没頭することで、少なくとも知識のレベルではその分野の玄人はだしになる。それを求められるがままに、あるいは求められない場合にでも彼らの知識を披露することも、彼らの対人関係を維持する上で用いる重要なレパートリーのひとつになる。
 しかし彼らが自らの知識を披露し、あるいは成功体験を得々と語っているのを我慢する、苦々しく思う、という人も少なくない。自慢話も、知識の披瀝も、彼らの自己愛を満足させはするであろうが、周囲に不快感や羨望を抱かせる可能性は十分にあるのである。
私は「高知能はその人を滅ぼしかねない」という説を持つが、それは彼らの知的なこだわりが、異常なまでの細部への執着、いわば「重箱の隅つつき」へ向かわせ、それにより彼らが物事の全体像を見落とす傾向があるからだ。もちろんそれが彼らの高い知能の「賢い」使い方ではない。もし自らの高い知能を内省や自己に関する洞察に向ける事が出来たら、彼は自らの自己愛的な振る舞いを客観的に観察することが出来、必要に応じて抑制できるはずだ。そしてそのような高知能者は、おそらく外見上はほとんど一般人と区別が出来ないのかもしれない。特に自慢話もせず、目立ちもせず、淡々と、あるいは飄々と生きているに違いない。

しかし不幸なことに、高知能者は自らが事情にそれに詳しく、またこだわりや一家言を持っている場合には、その話題になったときには黙っていられないものである。自分にとってのこだわりのテーマについての知識を披瀝することが、そこにいる皆の興味を惹き、彼らの好奇心を満足させると信じてしまうのである。

2015年7月30日木曜日

自己愛(ナル)な人(48/100)

 ニホンザルはナルシストか?(雑談)
ここでふと思いついた。確か山極寿一先生の本にあった。ニホンザルは互いに視線が合うと、挑戦と取り、まずは威嚇してくるという。彼らにとっては、対人(対猿?)関係は、自分の方が偉い、という前提から出発する。いわばブラフをお互いに仕掛けることになる。こちらが目を伏せたり弱気な態度を取ったりすると、相手は早速攻撃してくるという。したがってわれわれ人間がサルと出会っても、まず目を合わせないこと、そもそもの出会いを避けるわけだ。そして目が合ってしまったら、今度は急にそらしたりはしないこと。それは敗北を認めることで、それをきっかけに相手が攻撃してくるかもしれないというのだ。
 ちなみにこの視線の意味が、たとえばゴリラの視線などと全く異なるということを山極先生が書いていらした。ゴリラの場合は、その視線はむしろ人間のそれに近く、さまざまなメッセージを含みうる、というのだ。そこでゴリラの視線について調べていくうちに面白い記事に出会った。(http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/d6a46f1d4c474ff9a37136fe52b9eec5
オーストラリアのある動物園で、ゴリラに人が襲われるということが起きて、それから特殊なメガネをつけることになったという。そのメガネには、レンズの部分に目が描かれてあり、ただしその黒目が横を向いているために、ゴリラは、そのメガネをかけた目で見られても、自分が見られていると感じないという。要するにやくざで言う「ガン付け」防止メガネというわけだ。(面白いだろうな。繁華街などでやくざに狙われないように、人々が皆横眼を描いたメガネをかけているとしたら。私は若い頃「ガンを付けただろう」と言われてすごく怖い目にあった体験があるだけに、すごく興味深い。)ともかくもニホンザルだけでなく、ゴリラでも結局ガン付けが意味を持つ。そこでは相手を弱い立場であるという前提でかかわりを始める。この話を思い出したのは、何か中国人的なかかわりと似ている気がするからだ。相手を威圧し、プレッシャーをかけるというところから出発するところが似ているのだ。ボクシングでも試合の前日の計量の際に対戦相手が睨み合い、威嚇しあうのが定番になっている。亀田兄弟の場合は極端だったな。俺ほど強い人間はいない、という表情、態度をぶつけ合うことが、お決まりになっているわけだ。
 そこで考える。ニホンザルは、ヤクザは、ボクサーたちは自己愛的なのだろうか? やはり中国という国について考えたのと似たような議論になる。彼らにとってはそのような態度がお決まりになっている。それは彼らの社会におけるルールのようなものだ。そしてそのルールに従っている際には、互いに相手を自己愛的とは感じないのかもしれない。単に互いに持っている実力を照合しあう、嗅ぎ分けるといったニュアンスしか持たない可能性がある。ナルシシズムを考える時、その人の持つ特性、性格傾向ということを前提としている。その議論は社会のルールとして力を示し合うような人々、動物などにはどうもなじまないのである。
 高知能なナルシシスト
 高い知能を備えていることと、学校の成績がいい、高学歴である、ということは必ずしも一致しない。本来は高い知能を備えるということは、それだけ物事を理解する力があり、自分の振る舞いや他者との関係性に対する自覚が優れ、それだけ余計な人との葛藤や軋轢を避け、より賢く振る舞うことが期待される。つまり彼の知能は自分や他人の幸福をそれだけ増すことに貢献するはずだ。
ところが実際にそうではない場合が多い。高い知能を備えているということがその人の自己愛を高め、他人を見下し、傲慢な振る舞いを生むということがある。それはなぜだろうか?
まず学校の成績の優秀さがその人を自己愛的にするということはありうる。もちろん学校の成績と知能の高さは必ずしも一致しないが、かなりの相関はある。
 皆さんも小学校中学校の頃を思い出されるといい。クラスで特別扱いされる存在であるためには、いくつかの要旨があったはずである。一つは運動神経の良さ。運動会や体育の時間に抜群の能力を発揮する子は大概、クラスの人気者だったはずだ。そしてもう一つは成績の良さ。小学校の低学年の頃はそれほど重要ではなった「成績」は、やがて受験をする年代が近付くにつれて大きな意味を持ってくる。大概どこの学校にも、運動神経もよく、成績もそこそこ優秀という子がいて、クラスの花形だったりするものだ。しかし運動はダメでも成績抜群という子も中に入る。それまではクラスでも全然目立たなかった子が、小学校の高学年になり、急に大人びて、クラスで指された時に使う言葉も洗練され、成績も優秀で旧に一目置かれたりするようになる。
その成績優秀な子は、おそらく多少なりともそれを意識し、鼻にかけることはあったかもしれない。自己愛的な言動や振る舞いも出てくるだろう。しかしそれはやむを得ないことだ。成績優秀な子は担任の先生にとってもとてもありがたい存在だ。学年でトップの子がクラスから出ると、担任の先生もまんざらな気分ではないはずである。自然とその生徒を見る目や扱い方が違ってくる。そしてその子の自己愛は増していく。その子は学校という環境で、特に受験に力を注いでいる場合には、成績という二文字がいかに難しい扉をこじ開けてくれ、人からの羨望を集めるかということを学習する。運動が苦手、ということさえ成績が優秀ということでディスカウントされ、さほど自分にとって不利に働かないということも知るのだ。
 しかし成績の優秀さがそれほど人の自己愛に貢献しないのは、ごく単純な理由がある。上には上がいくらでもいるということだ。田舎の中学で断トツの成績を修め、都会の進学校の高校を受験して合格する。その中学始まって以来の快挙で、その生徒の両親も鼻が高い。
 しかし都会の進学高校には、結局そのような生徒が集まっているのである。それまでは学年で3番以下にはなったことがないという生徒が、初めての中間テストで、クラスで半分以下の成績を取り、驚愕する。それまでの天狗の鼻はへし折られ、茫然自失になる。それまで成績優秀ということで「勉強ができる」が唯一の誇りだった少年が、たちまちそれを奪われてどん底に叩き落される体験をする。
 彼はそれでもがんばって成績を向上させようとする。ある程度はそれも効果があるかもしれないが、同様のショックを受け、そこから立ち上がろうともがいている田舎の秀才はほかにもいくらでもいる。結局二度と優等生というアイデンティティを勝ち取ることが出来ずに、学校に通う意欲が失われ、クラスでのおかしな言動が見られ、そのうち幻聴が聞こえてきて、教室に姿を見せなくなった・・・・。そういうクラスメートのことを思い出す。

 結局「成績優秀者」のナルは、その大部分が自然淘汰される、ということはお分かりだろうか。そのような人たちが集まる進学校に進み、そこで平凡な生徒になってしまう、という道を歩む運命にあるからだ。そして最終的に最高学府であるA大学に入ったとしても、そこには一位からビリまでいることになる。留年する生徒もたくさんいるだろう。そうするとそれまでのプライドを維持できる人は上位のほんのわずか、ということになる。「成績優秀」なナルシシストというのは、だから案外存在しがたいのではないか?町の人にインタビューをする。「あなたは自分が成績優秀だとおもいますか?」おそらく9割の人は「そう思いません」と答えるのではないか?たとえA大学の学生でも。

2015年7月29日水曜日

自己愛(ナル)な人(47/100)

もう一つの可能性。私はこちらの方が信憑性があると思うのだが、中国は戦術として、自己愛的な態度をとっているのかもしれない。
実はこの議論を重ねていくと、中国人は、あるいは中国の国民は自己愛的なのか、という問いそのものに疑問が生じてくるのであるが、少し説明したい。中国は傲慢で強気で周囲を強引に服従させる・・・・。もしそれだけにとどまっているとしたら、中国の外交はどうして「成功」を収めているのだろうか? 
 私は「国際情勢音痴」だが、中国の外交がしたたかで、おそらく日本が考えるよりはるか先を見越しているであろうことがわかる。アジアに、アフリカに対する露骨な投資と経済支援による取り込み、米国に対するロビー活動。中国がコワモテなのは、それで言うことを聞く、あるいは歯牙にもかける必要がない相手だけという気がする。かの国は自分たちの自己愛的な接し方が自国に有利に働かない場合には柔軟にその姿勢を変え、友好的な顔を見せる。彼らの自己愛的で強気な態度や姿勢は、それが通用する限りにおいて用いられ、それが不利と分かると態度を一変させる可能性がある。そして実は中国人の気質に、そのように実利に難く、相手によって態度を変える性質が備わっているのである。
考えてもみよう。中国の人々が互いに仕事の交渉を行う場合に何が起きるのか。互いが自分たちの立場を譲らず相手を強引に丸め込むことだけを考えるだろうか?そのうちどこかで折り合いをつけ、譲歩をし合うことになるだろう。何らかの形で交渉を成立させることは、両者にとっての目的でもあるからだ。互いが強気なもの同士の戦いには、それなりの空気の読み合いがあり、妥協の仕方や落としどころの見つけ方がある。最初はブラフや無理な条件の吹っかけあいから始まっても、それが互いに見破られ、有効でないことがわかれば、当然戦術を変えるだろう。そうなると彼らの交渉も結構静かで秩序だったものになるのかもしれない。
ここで脱線であるが、私は空手の高段者の自由組手を見て興味深いと思うことがある。極真会などの壮絶なコンタクトを売りにする選手たちの決勝戦などを見ても、一見非常に退屈なのである。華麗な回し蹴りや突きが決まり、相手は吹っ飛ぶということがあまり起きず、一見退屈な技の掛け合いで時間が過ぎていく。華麗な技が決まるのは、まだ一回戦、二回戦の、選手同士の力の差が歴然としている場合に限られ、そこでは見事な見事な一発KOのシーンが見られる。
外交シーンで中国やアメリカを相手にして日本の代表が怯み、充分に国益を代弁できずに相手に押し切られるのは、日本がパワーポリティックスを苦手とし、というか、そもそも丸腰ということもあり(意味はお分かりであろう)相手に強気で迫ることが出来ないからであろう。そしてそのことを気取られたが最後、中国も米国も強気で押し切り、自分たちが有利のうちに交渉を終えようとする。こちらが弱腰である限りは、相手はとんでもなく自己愛的で強引に映るが、それはこちらが交渉に弱い、商売なら「言い値で買ってくれる」ということを知っているから、ということになるだろう。
中国はナルシシストか?再び問う
ということで結論にならない結論だが、改めて問い直してみると、次のような結論に至りそうである。中国という国はナルシシストに見える。おそらく中国という国民性に同様の性質を見ることが出来る。ただし中国人のナルシシズムは本書で論じてきたナルシシズムとは異質である。それは彼らの文化における対人関係の持ち方が「自分の利益を優先する」「そのために事実を歪曲することもありうる(犯罪にならない限り)」を前提としているために、日本文化のように外側から見て、自己愛的に見えるだけである。おそらく中国人自身は自己愛的という意識はなく「当たり前のこと」と思っているはずである。自分や周囲に意識されないような自己愛というのはあまり考えられないだろう。
以前に中国人のナルシシズムはサイコパス型ではないか、という疑問を呈した。上記の自己愛の在り方は、確かにそう見えるのである。しかしある集団のルールが、「皆が多少の嘘をつき、誇張することはお互い様だ」「役人には賄賂を与えるのが常識である」だったらどうだろうか?そこに真っ正直な人が称賛されるような国からやってきた人が放り込まれる。彼は周囲から所持品をむしり取られ、嘘をつかれ、たまたま通りがかったお巡りさんに助けを求めたら、その代わりに「金を出せ」、と言われる。瀕死の思いで自国に逃げ帰り、「あそこの国はみながサイコパスだった」というかもしれない。しかしその国の人からは、「どこからか全く無防備な男が現れ、カモにされた」と思われるだけかもしれない。
私はアメリカ生活しか経験していないが、都会を歩くときは、いつも鞄をぎゅっと握りしめていた。いつだれがひったくろうとしても、簡単には奪われないように。ニューヨークの地下鉄などでは、ちょっと居眠りするということが怖かったのを覚えている。私は周囲を泥棒の集団と見なしていたのかもしれない。しかしそこでも人は助け合い、冗談を言い合い、信頼関係を結ぶ。相手に何をされるかもしれないような社会に暮らしている、という覚悟を共有しているところを除いては、特別なことは起きないのだ。

私たちの目に映る中国人、アメリカ人(いつの間にか加わった)の自己愛的な振る舞いとは、結局彼らの国民性やそこで前提とされる事柄があまりに異質であることからくる、一種の錯覚という可能性もあるのである。

2015年7月28日火曜日

自己愛(ナル)な人(46/100)

 中国人と面子
中国という国、ないし中国人の自己愛について考える際、特に重要なのが、彼らにとっての面子(メンツ)の持つ意味である。上述の遠藤滋氏は、中国人の行動基準となるのは、「銭」、「報」、「面子」であるという。そしてこのうちの面子が、「中国人にとっては命のように大切」であるという。日本人は面子がつぶされた、ということをよく言うが、中国人はこれを自分から口にしないものの、はるかにこれを重要視しているという。そしてそのためには事実を捻じ曲げることもあるというのだ。
この面子という概念、中国という国やその国民のナルシシズムを考える上でとても重要なのかもしれない。彼らは外見上は倫理的に正しく、高い能力を備え、自信にあふれているというイメージを、外に向かって示し続ける。そしてそれを否定され、恥をかかされるような体験を死に物狂いで回避する。そしてこれは、それとは逆の内面重視の思考、つまり内なる倫理性、高潔さ、内面的な強さを求める傾向とはまったく異なる。後者の場合は人を欺くことも否定され、恥ずべきことと考えられるだろう。しかし「面子」を重んじるということは、しばしば他者を搾取したり利用したりすることとにも結び付く。何しろ「事実を捻じ曲げる」ことで犠牲になるのは他者だからだ。
遠藤氏が用いている体験談が面白い。昔ゴルフボールがまだ高価だった頃のことである。中国でゴルフをする機会があったが、周囲の林には飛んできたボールを拾おうと、何人かの人が立っていたという。あるとき彼のボールが右にそれて、林の中に飛んだので探しに行くと、そこにも一人の男が立っていた。彼が飛んできだボールを拾って隠し持っているのが明らかであった。しかし彼を問い詰めても決して認めることはない。そうすること彼の面子をつぶすことだからだ。そこで一緒にボールを探すふりをしたという。するとその男はポケットからひそかにボールを落として、「このボールがあなたのであろう」と言ったという。
この意味での面子はほぼ自己愛と同類と言っていいと思うが、そこにはある種のルールといったものが存在しているようにも思える。互いの面子をつぶさない、は中国社会ではある種の常識ないしは作法となっているのだろう。すると人と人との関わり合いも日本のそれとはずいぶん違ってくるはずだ。中国では自分たちの面子を守るための事実の歪曲の応酬ということになる。それは一種のパワーゲームであり、極端に打算的でシビアな世界と言える。日本人がその中に入ってどの程度彼らと渡り合っていけるのだろうか?およそ別の世界観や人間観を持つことでしか、自らの主張を貫いたり、有利にビジネスを展開したりすることなどできないだろう。
国的なナルシシズムは国を利するのか?
中国という国についてのナルシシズムを考えていくと、一つの重要なテーマが浮かんでくる。国のナルシシズムは、その国のためになるのだろうか?
 この問いの根拠を示す前に、「(人の)ナルシシズムは、その人のためになっているか?」を考えてみよう。ナルシシストは自分の満足のために、他者を利用する。それは最終的にその人を利するのだろうか?答えはある程度分かっていると思うが、一応順番として考える。
ナルシシズムは、その人が権力や能力を獲得すると、それに従って膨らんでいくものだ。ナルな人たちは、自分たちのナルシシズムを、自分のために利用しているというわけではない。彼らはその地位や権力のために、ナルシシストとして振る舞うことを許されるのだ。恐らく大多数のナルシシストたちは、そのナルシシズムのせいで人に疎まがられ、信頼を失い、敵を増やす。誰だってナルな上司や友人から搾取的な扱いをされるのは好まないだろうし、彼らの自慢話を聞き続けたくはない。「あの高慢さや人を見下すところさえなかったら、あの人もいい人なのに…」と言われている人は大勢いるだろう。
ナルシシズムとは、権力や能力を持った人が得るご褒美のようなものかもしれない。自慢話を聞いてもらうことは、拍手喝さいを浴びることは、ナルシシストたちには快感だろう。その快感は、彼らの努力や運の見返りという事が出来る。しかし同じ見返りでも、たとえば金銭的な報酬と違い、自己愛の満足という報酬は、人にはしばしば不快感を与える。そしてそれはやがては対人関係を通じて自分に跳ね返ってくる。
 結論から言えば、自己愛的な人たちは、自分のナルシシズムにより、結果的に損をしている場合が多いと考えるべきだろう。だから「自己愛はその人を最終的に利するのか?」という問いには、一応否、としておくことができよう。 (もちろん大まかに言って、と断っておこう。例外もおそらく多いであろうからだ。)
さて最初の問い、つまり「国としてのナルシシズムは、その国を利するのだろうか?」について考えよう。外交は、自国を利するための駆け引きである。最終的に国を利するためには、あらゆる策が弄されてしかるべきである。そしておそらく確かなのは、外交に関して、中国は日本よりはるかに長けているということだ。その中国が、どうして自己愛的に振る舞うのだろうか?個人として考えるならば自分を害するはずの自己愛が、どうして中国という国の態度をそこまで特徴づけているのだろうか?
中国はその長い歴史の中で、何度も異民族による統治を受けてきた。アヘン戦争の後は、列強に支配されるという長い屈辱の時代を過ごした。外交を有利に進めることは自国にとって死活問題のはずである。他国を苛立たせ、時には警戒感を募らせるような自己愛的な振る舞いは、個人を利することにはつながらないはずなのに、なぜ国策として、外交の手段として採用されているのだろうか?
私はこの問題について興味を持っているものの、一つの答えを出し切れていない。私は個人の病理を扱う精神科医である。国を一つの人間のように見立てる本章のような議論には、多大な困難さを感じる。やはりこのテーマは専門外なのである。従って以下の考察は、非専門家の戯言と思っていただきたい。

一つの可能性。中国は壮大な「勘違い」をしているのかもしれない。中国は一党独裁であり、おそらく権力の中枢にあるごく一部の人間たちにより国を運営する方針が決定されている。少なくとも彼らが人民をどのようにコントロールし、掌握するかについては、とんでもない勘違いをしていることは確かであろう。それは反対派を弾圧し、口封じをすることが最善な手段であるかのごとき政策をとり続けていることだ。最近でも中国の人権派弁護士らが相次ぎ拘束されているというニュースが報道された。(2015714日のニュース)しかしその種の弾圧による統治が安定的に永続的に成功することはおそらくないということは、ベルリンの壁の崩壊を通じて、世界の常識となりつつある。一党独裁の政権が安定して存続したためしなどないのだ。
 中国の政府の首脳が、単なる政権の延命策としてこのような方針を取っているのか、それとも真剣にそれが最善の方策と考えているのかはわからないが、もし後者だとしたら、上の「勘違い」の可能性も高くなるのではないか。つまり人民に行っている、強引で力ずくの政策が最善であり、そこに永続性があるという「勘違い」を外交場面でも行っているということだ。

2015年7月27日月曜日

自己愛(ナル)な人(45/100)

たとえばアメリカ。ブッシュ大統領は20021に、イラクが大量破壊兵器を保有するならず者国家であるとして、イラクへの攻撃を正当化した。しかし最終的にイラクに大量秘密兵器が見つからなかった時、アメリカはばつの悪さを隠さなかった。もちろんイラクに対して正式な謝罪をするなとはありえない。でも「悪さをしているところを見つかった子供」のような雰囲気であったと記憶している。そして2004年1月には、CIAのデビッド・ケイ博士が、米上院軍事委員会の公聴会で「私たちの見通しは誤っていた」と証言したのである。そして私が知っているアメリカ人たちも、おおむねそんな感じだ。彼らはブラフをよく使う。しかし嘘や誇張がばれると、すぐにミエミエの愛想笑いを浮かべ、機嫌取りに転じるというところがある。もちろんアメリカ人もさまざまであり、サイコパスからとんでもないお人よしまでいる。だから全体的な印象として述べているのである。
 しかし世界各地へのサイバー攻撃が中国のある地区から発していることを米国の報道により示された2013年の3月、中国外務省の報道官は昂然と言い放った。「我々こそ米国のハッカーにサイバー攻撃を受けている、私たちは犠牲者なのだ。」これは「証拠が出てきても謝らない」という中国人の国民性がそのまま表れているといっていいだろう。
2015/03/16 には、外務省は、沖縄県の尖閣諸島が日本名で明記された中国の古い地図が見つかったとしてホ­ームページで公表している。この地図は、中国政府の機関が1969年に出版したもので、「尖閣群島」のほか、「魚­釣島」という日本の名称が使われているということだ。(ちょっとネット記事を拝借した。) しかしそれに対する中国側の反論は、「釣魚島が中国固有の領土だという事実をたった1枚の地図で覆すことは不可能」である。これなども「証拠が出てきても謝らない」中国人の傾向の、外交バージョンと言えるだろう。

 このように中国という国の自己愛の在り方を考えた場合、私たちは次の点を問わなくてはならない。中国という国の自己愛は、すでに考察した「サイコパス型」と関係していないか。ここにもアメリカとの対比が役にたつであろう。アメリカという国も自己愛的であろうが、それは「厚皮タイプ」と認定することができるだろう。彼らはあからさまな嘘はつくのが下手である。むしろ下を向いて黙ってしまうのではないか。公開で自分の女性関係を質問されて、しどろもどろになった、元大統領のクリントン氏のように。(彼の話はよく出て来るな。) ところが中国の報道官の言動などは、聞く方が赤くなるほどの虚偽が含まれている。そして嘘をつく、という特徴を典型的に有するのが、サイコパス型の自己愛だったことはご記憶であろう。
 私たち日本人の多くが、中国の人々のこのような言動を見ていて考え込んでしまう点がある。「こんなに嘘をついて、本人たちは大丈夫なのだろうか?」「彼らの心はよくぞ壊れないで働いているものだ。」 しかし私たちはすでに、うそをついても壊れない人々を知っている。サイコパスはその典型なのだ。彼らにとっては二つの矛盾する心は葛藤を生むことなく心に共存できる。それがむしろ心地よく、心の安定につながるかのように。
もちろんこう書くからと言って、私は中国人を犯罪者扱いしているというわけではない。彼らは初対面の人に対しては決して信用しないだろう。交渉の際は相手の足元を見て、少しでも有利な条件で契約を結ぼうとする。そこでは事実を誇張したり、虚偽を交えて伝えることもあるかもしれない。しかしこのように周囲に猜疑の目を向け、同時に自分が相手から騙され、搾取されないかに注意を向けていることには、かなりのストレスを伴うはずだ。だから彼らのサイコパス的な振る舞いも、限られた人々に対してみせると考えるべきであろう。
 他方では中国の人は家族や親しい友人、長く付き合っているビジネスパートナーは信用し、相手の恩に報いようとするという。信頼関係を持つ相手はいるわけだ。そこが本当のサイコパスと異なるところである。

2015年7月26日日曜日

自己愛(ナル)な人(44/100)

自己愛的な国 ― 中国

本書で扱うのは、基本的には「人」である。ナルな人たちには様々な種類がいる、ということをこれまで主張してきた。でも、「これはナルだ!!」と思いたくなる「国」はある。ニュースを読むたびに、「自分たちを何様だと思っているんだ!」と叫びたくなる。大人げない話だが。そして私にとっては、それが中国なのだ。「人ではなく、国が自己愛的になる」ということがあるのだろうか? 「ナルな国」なんてヘンじゃないか? この疑問を自らに問いつつ、少し考えたい。
まず最近読んだインターネットのニュースで、特に腹が立ったものが二つあったから紹介する。

① 発展した隣国を日本は受け入れるか中国外相
【北京=竹内誠一郎】中国の王毅(ワンイー)外相は27日、北京市内で行った講演の中で、日中の関係改善を巡る課題について、「発展を遂げた最大の隣国・中国を、日本が真の意味で受け入れるかどうかだ」と発言した。
 中国の要人が公式の場で日中両国の「地位」に言及するのは異例とされ、講演で本音が出たとみられている。
 王外相はこの日、清華大で開幕した「世界平和フォーラム」で講演。質疑では「日本の古い友人の話」を紹介する形で、「中国は過去の歴史上のあるべき状態に戻っただけで、日本人はそれを受け入れるべきだ」とも訴えた。歴史問題では、「(日本は)歴史の『被告席』に立ち続けるか、過去に侵略した国との和解を実現するか」と発言。安倍首相が発表する戦後70年談話を念頭に、日本をけん制した。(Yomiuri Online, 20150627日)

勘違いもはなはだしいだろう。私たち日本人は、中国が普通にしていれば文句はないのである。中国がいかに大国になろうと、基本的には全然OKである。日本人は強い国に慣れているし、迎合する術もわきまえている。だから善良な大国なら歓迎である。日本に対して余計な干渉や悪さをしなければ問題はない。しかし尖閣列島の権利を主張し、小笠原に魚船団を送り、それに抗議すると「大国としての中国を素直に受け入れよ」となる。それは違うだろう。
それではもう一つ。
②中国、米を批判「いわれのない脅威論を誇張」
 【北京=竹腰雅彦】中国外務省の華春瑩(ファチュンイン)副報道局長は3日の定例記者会見で、米軍が1日発表した「国家軍事戦略」について、「いわれのない中国脅威論を誇張しており、不満と反対を表明する」と批判した。「軍事戦略」は、中国が「アジア太平洋地域で緊張を高めている」などと指摘していた。華氏はまた、南シナ海の人工島建設に対する米国の批判について、「米国は冷戦的思考を捨て、中国の戦略意図を正確に認識すべきだ」と強調。人工島で軍事・民事の施設建設を進める考えを改めて示した。(Yomiuri Online, 20150703)

とんでもない話である!! 中国の南シナ海での傍若無人な振る舞いがそもそもの発端ではないか。中国が軍事的な野心を露骨に示しながら、米国に「いわれのない中国脅威論を喧伝するな!」というのは全くの筋違いである。
 もうまったく言っていることが傲慢で、自己愛的、人を人とも思わない・・・・・。と、感情面での反応は自己愛的な人に対するものと同じなのである。そしてこのような報道を読んで大多数の中国人は「そうだそうだ」 と思っているのだろう。だから中国の主席や報道官が言っていることが、中国民が声をそろえて言っていることと同等と見なすことができるだろう。すると結局、国をあたかも一人の人間と見なし、そこにナルシシズムを見出すということは可能だ、と考えられるのである。そこで本書ではその路線で話を進めよう。
中国のナルシシズムは「サイコパス型」か?

国を一人の人間と同等にみなすことには、もちろん問題もある。たとえば国の代表どうしが会談や交渉をすることを考えよう。彼らは自国の最大の利益のために、時には演技をし、ブラフを試み、他国との交渉を有利に進めようとするだろう。すると一見傲慢だったり、卑屈だったり、強気だったり弱気だったりする振る舞いや態度も、一種の「お芝居」や「演出」であり、いわばシナリオに従ったものであって、そこにパーソナリティ障害を読み込むのには無理があるだろう、という考えも成り立つ。
 ただしそれにしては、外交の在り方そのものに、あまりにあからさまに国民性が出てはいないだろうか? それぞれの国民の気質や対人関係上のパターンが、外国との交渉に全く反映されないということはありえないと思う。ちょうどロールプレイングをしても、結局はその人の人柄がにじみ出てしまうように。
 例えば日本、中国に加えて米国を取り上げ、その外交術と、国民性を比べてみよう。両者は見事に一致しているとしか言いようがない。遠藤滋氏の「中国人とアメリカ人」(文春新書)は、アメリカ人と中国人の国民性を次のように言い表す友人を紹介している。「[アメリカ人も中国人も]両方とも自分の非をなかなか認めない。ただしアメリカ人は証拠が出てくると謝る。中国人は証拠が出てきても謝らない。」(p34、下線は岡野) よく言われる国民性の違いを的確に言い表していると言えよう。(ちなみにこのたとえ話で言うと、日本人はどうだろうか? 「日本人は証拠が出てくる前から謝る。」か? もちろん例外は沢山いることだろうが。)そして外交の面でも、同様のことがまさに生じているという印象を受ける。

2015年7月25日土曜日

自己愛(ナル)な人(43/100)

ところで読者の中で「ナルシシストな医師というのは、男性に限った話ではないか?」という勘違いをなさっているかたもいるかもしれない。しかし女医さんでも事情はあまり変わらない。ただ日本においては女医さんの立場は多少男性の医師と異なることもある。だからナルの表れ方もそれなりに異なるだろう。
  医師の世界は伝統的には男性社会であったということもあり、女医さん自身が堂々と振舞うことに抵抗を感じたり、圧倒的に数の多い看護職の女性たちから複雑な目で見られたりすることを意識しつつ振る舞う方もいる。しかし基本的には実力社会である医療現場で、十分な技量と経験ないし人望を備えた女医さんは、それなりのリスペクトを受ける。そしてそれにしたがって彼女たちの心の持ちようや態度は、自己愛的な要素を高めていく。思い出していただきたいのだが、自己愛とは社会がその人を丁重に扱ったり、その人が実質的な権力を有することにより、ある程度自然と備わっていくものである。偉くなった人が少しも自己愛的でない、というのは不自然なことですらある。(「「永遠のゼロ」に描かれた宮部久蔵氏を思い出した。」
 私がかつて外来を担当していた精神科は、大きな総合病院の中にあるが、そこに向かう途中でさまざまな医療関係者が行きかうのに出会う。エレベーターに乗ると、白衣を身につけた女性でも、看護スタッフであったり、検査技師であったり、医師であったりする。そのうち女医さんたちが、「それなり」の雰囲気をかもしているのは、見ていて興味深かった。それをあえて特徴付けるならば、彼女たちが「着崩している」(若干だらしない)ということだろうか。彼女たちはボタンを一つ余計にはずしたり、あるいは白衣の前のボタンをはめずに、白衣を「翻して」颯爽と歩くことになる。あとはポケットに無造作に手を突っ込んでいたり、ちょっとツンとすました表情をしていたり。首の回りに聴診器を巻いていたらもう間違いないか。要するに彼女たちはちょっとだらしなく、ちょっとエラそうでナルシシスティックな雰囲気を作ることで、女医「以外」の女性との差別化を図っているというニュアンスがある。
ここでインターネットで「大門未知子」を調べてみよう。例の「ドクターX~外科医」というテレビ番組に出てきた、米倉涼子演じる、フリーの「失敗しない」手術の天才の外科の女医である。(半ば、ブラックジャクのパクリという説もあり。)やはり白衣の前のボタンを全部はずした画像しか出てこない。医師が白衣の前を空けているのは定番だが、女医さんもこれをやることで女医っぽくなり、ナルっぽくなるのである。
なぜダラしなくなるとそれだけ偉そうになるのか。例のサルのMRI画像の話を思い出していただきたい。上位のサルは前頭葉が忙しく働いていない。つまり「自分の態度が誰かに対して失礼に当たるのではないか?」と周囲を見ながらせわしく頭を働かせる必要がないのだ。自分の身なりや態度に「手を抜いて」いい。だからダラしなくていいというわけである。

というわけで女医さんだってしっかりナルだということを主張したかったわけだが、では男性医師と女性医師でどちらがナル度が高いか、などという疑問にはあまり意味はないかもしれない。どっちもどっちであり、どちらも相当周囲を困らせる自己愛者になる可能性がある。(この部分、あとから追加する可能性あり。)

2015年7月24日金曜日

自己愛(ナル)な人(42/100)

医師という名のナルシシスト

米国にいるとき、次の様な話を聞いた。「医者とナルシシストとは同義語synonym だ」。きわめてシンプルな表現だが、これはよくわかる。医師は自己愛的で人の話を聴かず、傲慢であることが多い。米国も日本もこの事情は変わらない。
 もちろん例外もたくさんいる。人の話に耳を傾ける、人間的で心優しい医師だっているだろう。でもやはり圧倒的に自己愛的な人間が多い。
 私は精神科医だが、外来で聞く患者からの、かつての主治医に対する言葉は、ほとんど常に辛らつである。ろくに話を聞かず、一方的に自分の考えを伝えてくる。薬について質問したり、治療方針に注文をつけようものなら、露骨に不機嫌さを表す。患者の方をむいてきちんと話をしない、など。はっきり言って医師に関するいい評価はほとんど聴いたことがない。
もちろん患者さんたちが、元の主治医を悪く脚色しすぎている可能性も否定はできない。そして同様のことを自分自身も言われていることを考えると、(必然的にそういうことになる)決して心地よいものではない。しかし彼らの訴えは真摯なものと受け止めざるを得ない場合が大半なのだ。
医師は患者としては非常に扱いにくいということもよく知られている。特に精神科病棟に入院してきた医師、特に精神科医は扱いにくい。精神科医が精神科に入院することがあるのか、と思われるかもしれないが、もちろんある。

 私ははるか昔、メニンガークリニックでその体験を持った。メニンガーには、PIC病棟(Professional in Crisis 危機状態にあるプロフェッショナル)というのがあり、うつ病や薬物依存に陥った医師たちが多く入院していた。メニンガークリニックは田舎町にあったから、地元の人々の目を避けて、お忍びで入院するケースがよくあったのだ。当時の私はまだ30歳代のレジデント(研修生)の身だったが、40代の白人女性精神科医の主治医となった。そして彼女の態度にはとても悩まされた。彼女は外国人で不慣れな、自信のない私の立場を見透かし、馬鹿にし、さげすみの目を向けた(様な気がした)。アポイントの時間にオフィスにきてくれない、迎えに行くと部屋で寝ている、ということが繰り返されたり、病棟で呼びかけても気がつかないふりをしたりする、ということもざらであった。面接をしても顔をそむけて退屈そうな顔をする。病棟での活動にもしぶしぶ参加をするだけ、あとは自室で不貞寝をしていることが多い、という様子である。しかし私のスーパーバイザー(50歳代、白人女性の精神科医)には急に態度を変え、丁寧な接し方をするので腹が立った。
この女性患者はうつ病と深刻な薬物依存を抱えていたが、自分の日常の仕事は、同様の問題を持つ患者の診療をする立場である。その自分が精神科の患者として入院を余儀なくされるほどに病状を悪化させたわけだが、それでも医師としてのプライドがある。「自分は他の患者とは違うんだ」というオーラを一生懸命はなっていた。同時に自分の境遇にふがいなさを感じていたに違いないが、それを自己愛的な応対や振る舞いのうちに隠していたのである

どうして医師に自己愛が多いのか。人の命を救う重要な仕事についているからか?しかし医者が偉い、としても、それは最近の話だ。大河ドラマの「花燃ゆ」に久坂玄瑞が出てくる。彼はかつて医者の修業を行ったが、「医者風情」とか「医者坊主」などと呼ばれている。もともとそんなものだったのだ。それが現在では医師免許を持っていることは一種の特権扱いをされる傾向にある。しかし人の命を預かっているとしたら、バスの運転手さんはもっともっと尊敬されてもよくないだろうか?
狭き門を、難しい試験を潜り抜けたから偉いのだろうか?でも獣医になる方が、よほど狭き門のはずだ。しかし偉そうにふんぞり返っている獣医さんなんて聞いたことがない。
結局医者のナルシシズムの理由は私にはよくわからない。しかし態度が横柄で傲慢な医者の話を聞くことには事欠かない。なぜだろうか?
ここでふと考えた。彼らがナルシシストのようにふるまうのは、患者さん、そして看護師さんの前に、比較的限定されるのではないか。彼らはそれ以外では、案外普通の人々ではないか? そういう意味で昔や今の同僚のことを思い浮かべてみる。といっても主として精神科医だが仲間同士での付き合いで、精神科医たちが特別横柄で自己愛的という印象は受けない。日本精神神経学会という巨大な学会に年に一度出かけるが、そこに集まる数千人の精神科医に交じっていても、特別異常な人間の集団に交じっているという印象はない。皆ふつうの言葉で穏やかに、あるいは楽しげに談笑している。会場係の人たちともごく普通に、あるいは丁寧に話している。
 医学部の同窓会というのに一度だけ出かけたことがあるが、50歳代に差し掛かった昔の同級生たちは、最初はどこかのおやじの集団に見えたが、しばらく一緒の時間を過ごすと20代の学生の頃と全然変わらない雰囲気を残していることが分かった。しかし彼らが現在の職場に戻り、多くの場合部長や教授や医院長としてふるまう際には、全然違うのだろうな、という想像も容易に出来た。昔が想像できないほどに恰幅がよくなっていたり、パネライの大きな腕時計などをしていたりする。交換する名士なども、肩書は立派なものだ。おそらく彼らが自己愛的なのは、患者さんや、自分の指示の下で動く看護師さんたちの前におおむね限定されるのであろう。

医師がなぜ患者さんの前で自己愛的になるのか? そこにはおそらく患者さんの置かれた立場に対する彼らの相対的な立場が関係している可能性がある。自分の体や心に異常が生じた場合、人は簡単には相談できず、誰かに助けを求めてすがりつきたいような、きわめて弱弱しくヘルプレスな精神状態に陥る。検査を受ける時には下着すら脱がされ、情けない検査着姿で、寒い廊下で順番を待ったりする。検査結果に一喜一憂する。その前に立ち、診断を告げる白衣の医師は、やはり絶対的な権力を持った人間として映ってしまうのだ。そして医師の方もそれをよくわきまえている。

2015年7月23日木曜日

自己愛(ナル)な人(41/100)

E教授は勘違い男だったわけだが、では男性がそこそこ、あるいはかなりのモテ男だったらどうだろうか?事態はかなり厄介になる。権力にすり寄る女性はその分だけ多くなり、本人の勘違いもそれだけ深刻になる。
 私がよく例に出す米国のクリントン元大統領は、それに該当する人だった。もう一度登場していただこう。 タイムマガジンの記事を参考にする。
Bill Clinton By Claire SuddathThursday, Jan. 21, 2010Time Magazine電子版)

モニカ・ルインスキー氏だけが、クリントン元大統領の個人的な生活を公のもとにさらした女性ではなかった。もう一人話題となったジェニファー・フラワー女史は、1977年に、将来の大統領がアーカンサー州の知事だった時代に、ニュースレポーターとして彼に出会っている。彼女はそれからクリントン氏と12年間関係を結び、州の仕事を紹介されたこともあったという。フラワー氏は、クリントンが1992年に大統領候補だった時にこのことを明らかにし、クリントン氏は「シックスティミニッツ」という米国の有名なニュース番組で、それを否定している。フラワー氏はその後クリントン氏との電話の会話をテープに収めたものを公にし<ヒエー!>、それをクリントン氏は最終的に認めたのだが、それは1998年の裁判の席であった。この時クリントン氏は、アーカンサ―州の公務員であったポーラ・ジョーンズ女史にセクハラで訴えられていたのである<もうアウトだな>。
ポーラ・ジョーンズのケースは、何しろ彼が大統領のときに始まった裁判なので、クリントン氏は大恥をかいたことになるが、あくまでも性的な関係を彼女と持ったことを否定。しかし結局巨額の金を払って和解したのだから怪しい、というより真っ黒である。
このようにクリントン氏のウーマナイザーぶりはよく知られるようになったが、それでも1996年には大統領に再選された。そしてルインスキーのケースで万事休すとなったわけである。
 2005年には、“Their Lives: The Women Targeted by the Clinton Machine” Candice E. JacksonWorld Ahead Pub. )という本が出版された。この本には、クリントン氏とかかわりを持った(持たされた)7人の女性のことが詳しく書かれている。その中には、クリントン氏に襲われたassaulted という女性の証言もある。

クリントン氏の話が「普通の」ウーメナイザーと異なるのは、クリントン氏がきわめてチャーミングな側面を併せ持っていたことだろう。長身でハンサム、きわめて頭の切れる彼は、女性をかどわかすことにも命を懸けていたというところがある。それを妻のヒラリー氏はよくわかっていた。彼らの結婚生活は、最初の頃からクリントン氏の女癖の悪さに彩られていた。しかし何度も離婚の危機を迎えながら、ヒラリー氏がクリントン氏と別れなかったのは、彼女なりの計算があったと言われる。彼女自身の政治的な野心である。ヒラリー氏は結局彼と一緒に居続けることを選択し、次々と明らかになる夫のスキャンダルの火消しに躍起となった。大統領時代にはそこに彼らを取り巻くスタッフの強引なもみ消し工作が加わったことは容易に想像できる。結果としてクリントン氏のウーマナイザーぶりが彼自身の妻の歪んだ「寛容さ」により助長されていたとすれば、なんと皮肉なことではないか。

2015年7月22日水曜日

自己愛(ナル)な人(40/100)

ウーマナイザーなナル
ウーマナイザーとは、まだ日本語になりきっていない用語である。英語ではwomanizer.
「彼は大変なwomanizer だ」などという言い方をするが、日本語にすると「彼は女たらしだ」という訳が一番ぴったりくるかもしれない。(女たらし、という言葉もよくわからない。中学生の頃初めてこの言葉を聞いて、「女性的」という意味に勘違いしたことを覚えている。)
 Womanizerはウェブスターの辞書によれば、「カジュアルな性的な関係を複数の女性と持つ人」となっている。つまり職場などで女性社員とイチャイチャしてメールアドレスの交換をしたり、デートの約束をしたりする人々である。世の中にはこの手のカテゴリーに入れるべきなるもたくさんいる。
どうしてウーマナイザーがナルなのか? そこにはひとつの事情がある。ウーマナイザーは、定義上ある程度は「モテる」からだ。それが彼らを増長させ、自己愛的にさせる。少しもモテないウーマナイザーというのはありえない。ただのセクハラ親父に限りなく近いであろう。Womanize の元の意味は、effeminate (女性にする)という意味だという。そして女性が自分自身の女性性を意識するのは、彼女自身が相手を心惹かれる男性として認識した場合である。若い魅力的な男性を前にして、御年配の女性が突然恥らう乙女のように振舞うというシーンを、テレビなのでご覧になったこともあるであろう。
 ウーマナイザーが実力を発揮するため必要な男性的な魅力を、彼自身が十分に(あるいは過剰に)熟知して、女性の心を操り、もてあそぶ。そして多くの場合、そこには相手の気持ちに対する配慮はかけている。だから複数の女性と親しい関係を結ぶ。ただし女性の方もそのようなウーマナイザーの性質を知った上で、親密な関係を結ぶというところがある。そしてまるでハーレムの女性のように、彼女たちどうしが距離をとりつつ男性からの寵愛を獲得しようとする。
ある例を出そう。ただし詳細には変更が加えられ、一切個人情報が漏れない形にしてある。ただし以下に述べるE教授に対して、私は守秘義務はいっさいないのだが。
はるか昔のことである。私がたまたま事情を知ることになったある文科系のE教授(50歳代前半)の振る舞いが問題にされたことがある。彼は自らのゼミ生の中で、特定の女性の学生に目をつけては、きわめて長時間の個人授業を行うことで知られていた。他のゼミ生には冷淡で指導もスパルタ式だったり極めて短時間で済ましたりするため、E教授の特定の女子学生へのこの態度は特に目立った。E教授は端正な顔立ちで、若いころはそれなりにモテたという思いがある。しかし歳もとり、顔立ち以外の要素がそれから大きく変わってしまっている。しかしそれでも自分がモテるという意識は不思議と強いらしく、女子学生を食事に誘ったり、さりげなく手を握ったり、キスを迫ったりするという行為へと発展し、女子学生がハラスメント委員会に相談することがきっかけでE教授の振る舞いが明るみに出た。委員会の調査により、E教授のそのほかの女子学生への同様の行為も明らかになり、また家庭内でも深刻な問題を抱えているということがわかった。E教授は解雇寸前まで行ったが、どうにか職にとどまった。
このウーマナイザーE教授のきわめてわかりやすい特徴があった。彼は通常は人に厳しく、またその博識振りを生かして学生の研究に厳しい注文をつけたり、論文を何度も書き直させるなどの行為が、指導を受ける学生の間でも有名で、またそれだけ畏れられてもいた。しかし自分が異性として関心を示す相手に関しては、相好が簡単に崩れ、話すときは生き生きとして身を乗り出すという態度の変化が誰の目にも歴然としているということだった。その態度の違いがあまりに歴然としていて、彼の人間性を疑う声は多く挙がっていた。話によればE教授の父親は地方の名士で、家庭外で複数の女性と関係を持ち、かなりお盛んだと有名であったという。
ウーマナイザーE教授は、ウーマナイザー一般の持つもうひとつの特徴を示していた。それは教授としての権力により学生たちが自分を一目置き、時には尊敬のまなざしを向けるという現象が、自分はモテる、カッコいいという幻想を生み、助長していたということだ。E教授には複数の著書もあり、またテレビに一度出演したということもあり、彼の教えを請うために大学に入学してくる学生もいた。その中には若い女子学生もいて、彼は彼女たちに尊敬の目を向けられることにより、外見上はそれなりに「モテ」ていたことになる。その彼が女子学生を長時間の「ゼミ指導」に誘い込み、アルバイトと称して自分の研究資料の整理ためにポケットマネーを費やして長時間一緒に過ごそうと試みた際、多くの女子学生は最初はその申し出を戸惑いつつも受け入れた。そこから彼の勘違いが始まり、それが徐々に膨らんで行った訳である。
 ウーマナイザーE教授のもうひとつの典型的な特徴は、周囲からその問題行動を指摘された際に、まったく悪びれる様子がなかったということだ。直接訴えを持ち出した女子学生の話を間接的に聞き、E教授は「そうか、彼女はそんなことを言っていたのか・・・。ちょっと困らせちゃったかな。」という反応であり、全く懲りていない感じなのだ。
その後の調べで、E教授はウーマナイジングのためのさまざまな「技」を駆使していることが分かった。彼は自分にとって魅力的に映る女子学生や女性教員、事務員に対しては明らかにニコニコと愛想よく話し、時々それとなく顔を近づけて、フッと鼻息を吹きかけるそうなのだ。その時の相手の微妙な表情の変化から脈があるかを察知していたらしい。(と言っても相手があからさまに顔をそむけないのであれば、E教授にとっては「脈あり」と判断されていたらしいが。)さらには机を挟んで話をするときなど、自分の靴のつま先で相手の靴に触る、それで相手が足を引かなければ、くつしたになって相手の靴を包み込む、という仕草もしていたという。これも彼の相手の「脈あり」を知るための方法であったらしいが、相手は自分の足に何が起きたのだろうとパニックになり、足をひっこめられなかったというのが実際らしい。

ウーマナイザーE教授に対するその後の検討から、女性のスタッフや学生たちの至った結論の一つは興味深かった。それは「E教授は結局、本当の意味でモテたという体験がないのだろう」ということだった。E教授は顔立ちこそ端正だったが、若い頃は学業に専念していたということもあり、またいかにも堅物という外見から、女性に敬遠されていたというところがあったらしい。「女性にモテたい」は若い頃のE教授にとっては念願であり、また決してかなわない夢でもあった。だから自然な会話や人間的な魅力で女性の関心を惹くという体験がそもそも持てなかった。彼は父親が町の名士ということもあり、見合いで現在の妻を得たが、最初から奥様に対する情熱は薄く、また非常に気の強い奥様に完全にしりに敷かれるという状態であったのだ。大学の教授職を得て突然女性が自分に注目をしてくれるという機会を得て、彼はいくつかの「技」を編み出すにいたったらしい。

2015年7月21日火曜日

自己愛(ナル)な人(39/100)

一昨日は「日本語臨床フォーラム」 で、テーマは「あきらめ」。会場は京都教育大学。京都の南、伏見のこじんまりした大学。フォーラムでは相変わらず北山修先生はエネルギッシュだった。来年のテーマは「笑い」。これは難しいなあ。


「群生秩序」の理論
このようないじめの生じる手段の構造について巧みな説明を行っているのが、内藤朝雄氏の、「群生秩序」の理論である。内藤氏の描くいじめの世界は、私達が通常想像していたより遥かに深刻で恐ろしい。そこではいじめや犠牲者の死を悪いこと、痛ましいこととする通常の感覚や常識が通用しないような「普遍秩序」が存在する。そのような社会において一番大事なのは、今、ここの「ノリ」であり、それにしたがって犠牲者をいじめ、喜ぶことである。そして一番いけないのは、それに異議を唱えたり、そのような行為を悪いこととして制止しようとしたり、外部に相談したり訴えたりすることで、その集団のノリを制止しようとする試みである。そのように試みた人間はすぐさま、いじめられる側にされ、その社会で生きていけない。
 このような秩序の存在を前提とすることで、いじめに関与した人たちに見られる不可解で信じがたいような行為も理解可能となる。いじめの自殺が生じた際も、彼らには同情の念はなく、「Aが死んでせいせいした」とか 「Aがおらんけん暇や」「誰か楽しませてくれるやつ、おらんと?」という反応を見せるという。つまり「群生秩序」においてはいじめは正当化され、いじめられた人が自殺したとしても、それは仕方のないか音であるとされる。そしていじめに加担したとされる教師に対する同情が寄せられる。またいじめにより子供を失った親御さんは、いじめの首謀者を訴えようとしても、そうすることでその地域に居られなくなってしまう危機感を持つという。
 いじめの実態を知らない人は、いったいそんな世界があるのかと疑うであろう。しかし閉鎖された社会ではそれが起きうる。というより人間の生きている社会では、A秩序、B秩序、C秩序と言った秩序のすみわけが行われ、個人がそのどこに属するかによりどれに従うかが決まる。群生秩序においていじめに加担した人が普遍秩序に属している場合には、それまでの虐待者とは全く異なる常識に従うことになる。するとたとえば学校社会とは全く関連のない塾で出会った場合には、いじめっ子、いじめられっことは異なる関係性がそこに生じることになる。いじめ型のナルシシストが、常にどこでもそうだというわけではなく、状況依存的であり、群生秩序に属している時にだけ発揮されるということも生じてくる。
いじめ型ナルシシズムの本体

 ここで改めて、いじめ型ナルシシズムの本質について考えてみよう。いじめが行われている時、どのような自己愛の満足が体験されているのだろう? それは「自分たちはマジョリティであり、特別なんだ」という満足感や特権意識であろう。その際立った特徴は、それを複数の人間が共有しているということだといえる。これまで検討してきたいくつかのタイプのナルシシストにはなかった特徴がこれだ。そして内藤氏があげているのが、いじめに伴う他者をコントロールすることによる全能感であるという。人はまず心の中に不全感を抱えている。ところが「心理システムの誤作動」(内藤)が生じることで、「突然自己と世界が力に満ち」「すべてが救済されるかのようなあいまいな無限の感覚が生まれる」と説明する。
この自己愛的な満足が、後ろめたさや罪悪感により軽減されることはあるのだろうか?これは普遍秩序にのっとっている私たちの発想であろう。もちろんそれは無視できない。心の中で手を合わせながら、虐待に加担する人もいる。ただし群生秩序が浸透している場合には、おそらく非虐待者は通常の人間とは別に、おそらく贖罪の山羊のように目に移っている可能性がある。その集団の「ノリ」という絶対に侵すべからざるものものにとって必要な犠牲者。
私たちはこの群生秩序と類似性のあるものを、たとえばある種の教団や独裁政権の中に見ることが出来る。そこでは集団全体のノリの代わりに、独裁者、教祖様が絶対となり、その命令が善悪の判断を超える。「ポアする」ことが人類を救うと言われれば、その意味するところを批判できずに、優秀な学歴を持つ人間でも、地下鉄にサリンを蒔きに出かけてしまうのである。