2015年6月22日月曜日

自己愛(ナル)な人(10/100)

あれ、いつの間にか /100 になっているぞ。書き間違いか? まあいいや、誰も気がつかないだろう。ブログって、ホンといい加減だなあ。 
シャイ(薄皮)の人が傲慢なナルに見える理由 
薄皮のシャイな男性が、なぜ厚皮の傲慢なナルに見えるのであろうか? それは男性特有の事情なのだ。長年精神科の臨床をやっていると、男性と女性のコミュニケーション能力の違いを感じさせられることが多い。女性は感情をうまく言葉に表現するのに対し、男性は口下手で黙っていることが多い。ある統計によれば、一生の間に女性は男性の3倍話すというが(要出展、どこかで確かに読んだ)、とにかく女性は細かな感情を言葉に乗せるのがうまい。それに比べて男性は黙ってしまうのだ。
 その結果として世の中の多くの妻は、夫が口をきかない、いつも黙っているという不満や訴えを持つことがとても多い。そしてかなり確信を持って言えるのは、男性はシャイであっても到底周囲にはそう映らず、むしろコワモテになりかねないということだ。まあ、プチオザワ(仮名)化、と言ってもいいだろう。青年期を過ぎた中年、壮年にさしかかった男性を思い浮かべていただきたい。彼らはもともとシャイであっても、もう人前で気おくれがしたり、恥ずかしがったりしているということを公には認めるような年代ではなくなる。それに顔にはそれなりにしわが刻まれ、頭のほうも白くなったり薄くなったりで、純粋さ、幼さといった要素は消えてしまう。後は見た目はコワい、というイメージしか残らないのだ。
 しかしそれでも不幸なことに、人前が苦手、新しい人に会いたくない、笑顔を振りまくのは性に合わない、という事情は変わらない。となると対人場面でも挨拶をろくに返さない、ニコリともしない、ということになり、ただでさえコワい顔はますますコワくなる、ということになる。彼らの中にいつか弱く恥ずかしがり屋のボクちゃんは、それこそ飲み屋で酒が回ったときくらいしか表に出ず、しかも酔っ払った親父をやさしく面倒見てくれる人などいない。こうして男性は年をとるにしたがって、ますますさびしくなるのである。書いていて空しくなるな。グチか? 
薄皮のナルを支えるのは、自己表現欲求である
薄皮のナルは悩み多き人々である。人前に出るのが苦手だが、そのような性質を持つ自分たち自身にふがいなさを感じている。彼らは自分の存在を認めてほしい。でもそれでいて人が苦手である。このジレンマが彼らの人生を苦痛に満ちたものにする。
 ただ自分を認めてほしい、自分を表現したいという彼らの欲求は、彼らの支えでもある。これもない場合を考えていただきたい。人前に出るのがつらいし、人に分かってほしくもない。そうなると可能な限り一生引きこもりになってしまう可能性もある。「一生引きこもりなど可能なのか?」とあなたは問うかもしれない。しかし現代の日本は、生きていくつもりであれば社会がそれを支えてくれる。精神科の医療にかかれば、そのルートで障害者年金の需給を受けることにもなろうし、少なくとも生活保護を受けつつどこかの施設で衣食住をまかなってもらえる。事実このような形で引きこもり人口は日本で着実に増えつつある。彼らがそのような状態に陥ることを良しとせず、社会の一員として生きていくうえで、彼らが自分の存在を認めてほしい、という欲求は彼らの希望でもあるのだ。
 ただしここに一つの問題が持ち上がっている。それはネット社会が生み出した現代社会における宿あ(阿にやまいだれ)といってもいい。それはバーチャルな世界で自己表現ができてしまうということである。ある患者さんは引きこもり中にインターネットのゲームにはまり、そこで彼のアバターが頼られる存在となったことで満足してしまう。そして「実際の社会では決してかけられないような言葉をゲームの世界ではかけられる」という体験をし、まさにバーチャルな世界での自己実現をする。彼はこれからいったいどのような手段で、実際の社会に出て行き、手に職をつけ、家庭を築いていくモティベーションを獲得していることが考えられるのだろうか?
 インターネットを介したバーチャルな世界は、薄皮のナルシストにとっては、格好の自己表現の場でもあるとともに、彼らがおそらくは経なくてはならない現実社会での対人体験を回避する絶好の機会を与えているのである。