2015年5月27日水曜日

「大文字の解離」理論 (6)

スターンの「フォーミュレイトされていない体験」と解離 
ここで現代の解離論者ドンネル・スターンに目を向けてみよう。基本テキストとしてDonnel B. Stern: Dissociation and Unformulated Experience: A Psychoanalytic Model of Mind (in “D book”) を用いる。

「解離はトラウマとの関連で論じられることが多いが、解離の理論は自分が堪えられない体験に対して用いられる自己防衛のプロセスとして理解される。」確かにそうであろう。しかし自己防衛になっていないこともある。山を歩いてクマに突然出会い、袋ネズミが擬死反射を起こして横たわる。でもここには問題がある。一つはそれにより余計食われてしまうかもしれない。それに自己防衛というよりは「スイッチオフ」の状態といえるのではないか?卑猥な言葉を聞いたビクトリア朝の貴婦人が卒倒する。これは自己防衛なのか、それともスイッチオフなのか、演技的なのか。どれ一つとも決められないところがある。
「解離はフロイトの精神分析とは対照的な心の理解である。」それもよくわかる。「私は解離の問題に、サリバンの著作を通して遭遇した。」あなたもですか、という感じである。なかなか「ウィニコットの著作を通して」「フェアバーンを通して」という人には出会わない。やはりサリバンの影響力は偉大だ。どうしてだろう?自分ではあれほど論文を書こうとしなかったのに。「サリバンは古典的な分析家と違っていた。彼は欲動と防衛の衝突という観点ではなく、重要な他者との関係で実際に起きたことwhat had actually happened in relationships with Significant othersを見据えていた」わかるわかる。ただしこの頃思うことだが、「実際に起きたこと」ではなく「実際に体験したこと」であろう。というのもすべては患者が何を実際に体験したか(何が実際に起きたか、ではなく)にかかっているからである。

サリバンにとっては、一番の防衛は、フロイトの抑圧ではなく、解離だった。なぜなら一番回避しなくてはならないのは、過去のトラウマの再来だからだ。」このように考えると、対人関係学派=トラウマに基づいた理論=解離に基づいた理論という図式がピッタリくる。どうだろう。わが国では「対人関係学派=6070年代にはやった、時代遅れの理論」とみられがちだが、全然違うことになる。これほど時代の最先端を行っている理論はない、ということだ。サリバンは半世紀以上時代を先取りしていたということができるだろうか。
 さてスターンの立場であるが、彼は「解離を自分の状態を分けるという防衛プロセス」として捉えるという。まあこれは立場だから仕方がない。私にとっては解離は同時に「起きてしまうもの」だが、スターンは分析の人だ。これをどちらかと言えば能動的な防衛として捉えるという点は譲れないのだろう。となると先ほどの例でいうと、倒れる貴婦人は、それにより自らの心の崩壊を防いでいる、という論法だ。でも自己の状態を分けるということ自体が、心の崩壊というところはあるから、私としてはこの点は譲れないのだが、まあ読み進めてみよう。
「フロイトは言った。抑圧されるべき心の内容は、意識から追い出される repulsedby the CSと同時に無意識に以前抑圧されたものからは吸引されるattracted by previous repressed contents in the UCS
さてこのフロイトの議論で面白いのは、「抑圧されたものは常に表現されるような圧力を加える。欲動の派生物は常に解放されることを『願う』のである。」そしてこのような傾向があるからこそそれに対する無意識的な防衛も必要になる。なぜならその解放は最終的に不快を招来するため、防がれなくてはならないからだ。私がここの部分のくだりを特に面白いと思うのは、このことはまさに解離についてもいえることだからだ。解離された心の内容も、あたかも表現を望んでいるかのようだ。これはそもそもフラッシュバックと同類と考えるならば、「解離されたトラウマ記憶は表現されることを『望む』」と言い換えてもいいだろう。ところがフロイトにとってはトラウマではなく、あくまでも欲動なわけだが。やはりこのフロイトの欲動への固執は、分析の方向を誤らせているね。これは孫うことのない事実という気がする。私もフロイト派だけど。まあ続けよう。スターンはこういう。「意識の内容は特に選択されたわけではない。ある意味では防衛されることがなかったものが昇ってくるというだけだ。意識内容は欲動と防衛の衝突の副産物であるという。意識内容とは戦いが終わって煙が晴れた時にそこに残っているものなのだ。」何もそこまでいうことはないとは思うが、確かにフロイトはそのような言い方をしたのだ。
この後スターンは私にはよく理解が出来ないが、多分妥当なことを言う。「フロイトの時代は、人は心はある十分に形の与えられた内容物を持っていると考えていた。The mind – and, therefore, the UCS – is composed of fully formed contents.そしてそもそも私たちの知覚は所与であり、すでにそこにあるものがそのまま心に入ってくる、と考えたのだ。」「知覚が構成主義的に概念化され直したのは、それからはるかにあとの話だ。(Bruner & Klein, 1960)」「だからフロイトは考えた。ある事柄を意識しないということは、心がそれを意識しないように仕向けているのだ。なぜならそれはそこにすでに形を成してあるのだから。」
確かに私たちは何かを体験した時、それがすでに十分に形を成してfully formedそこにある、と思いがちだ。これはどうしてだろう?自分でもよくわからない。しかしプリミティブな心なら、それを信じていたのだろう。何しろ昔の人は、あることを知覚するとは、そのものの表面が薄くはがれて目に入ってくるからだと考えた。机、とわかるのは、その薄皮がはがれて目に入ってくるからだ、と。(昔大学で広松渉先生の哲学の講義で、そんな話を聞いた。) 匂いに関してはそんな考え方をわしたちはしているかもしれない。林檎の匂いを嗅いだ時、小さな「リンゴの粒子」が鼻に入ってくることを想像しないか。これって一種の「逆ホムンクルス」ではないだろうか?
 フロイトなら、例えば人間には絶対に性的願望と攻撃的な衝動があると考えたであろう。だから治療場面でそれが出てこなければ抑圧されていると考えるし、夢の内容はかなり強引にそれらの表れとして解釈されたはずだ。性的、攻撃的欲動の存在については、それはどのような人間にもあるプライマリーなものと考える人は結構いるかもしれない。しかし私はそれらが重要ではあるにしても、その程度には差があるし、それがプライマリーなものとも思えない。もっとプライマリーなものがあるとしたら、「人に自分の存在をそうと認めてほしい」という願望かな。これなら赤ん坊に常にみられる。(ただし発達障害の場合は事情は異なるが。) でもそれらを十分形を成したものfully formed と見るだろうか?文脈によりその強度も対象も異なるだろうし、時には姿を見せないこともある。攻撃的な人だって自分の愛する子供の前ではそれは一時は姿を消すだろうし、優しく子供に接している時の彼の攻撃性が「抑圧されている」とは考えにくい。でもそれは当たり前のことではないだろうか?攻撃性にしても性的欲求にしても、そこにポンとあるのではなくて、ある種の刺激による反応という形で、例えば電車で横入りをする人を見た時に腹が立ってどなり声を発してしまうという形で存在するだけではないか。
でもこのような考え方は、曲がりなりにも心理学や精神医学の知識をある程度持っているからであろうか?そもそも学問とは縁のない世界に育ったら、江戸時代の貧農の長男として生まれ、毎日畑を耕すだけの毎日だったら、私は机を見てそうとわかるのは机の薄皮がはがれて目に入ってくるからだ、と思うのだろうか?
 とにかくスターンが繰り返し言うことはこうだ。フロイトにとっては、真実とはすでに形を成してそこにあり、おそらくは唯一であり、それに対して私たちは目をつぶっているだけである。その抑圧を解いた時にはそこに現れてくるものである。
でもおそらくこのような考えを持っている人たちは結構多いはずだ。今の世の中でも。特に心理、精神医学関係でない人の場合にはそうかもしれない。
スターンは何度も強調する。抑圧モデルというのは無意識にある唯一の心理があり、それは客観的な現実に「対応」している、と考える。これを彼は「対応」理論 correspondence theory と呼ぶ。これを従来の分析かはかたくなに守ってきたのだという。この「対応」理論によれば、人の理解は絶対的で、文脈に依存せず、真理はいつも同じ真理、ということになる。ここら辺は私もある程度納得できる。たとえばクライエントが「偽善的」であるという性質を考える。それは文脈で変わることはない。見方によっては偽善的な振る舞いや言動が、別の視点からそうでない、ということを認めないことになる。スターンがこれを何度も強調するのは、この次に「定式化されていない体験unformulated experience(以下UEとしよう」というのを持ち出すからだ。そしてそれに基づいた考え方が解離であるという。

「定式化されていない体験」-解離に基づいた心のモデル

でもそれとは異なる見方をしたらどうだろう、というわけだ。「もはやこの対応理論に従っている人などいない。」なーんだ、それでいいのか。「ところが多くの分析家がこれに固執する様子を見せている。」ホント、どうしてだろうね。「そこで私が提唱するのが、解離に基づいたUE理論」。
少し見やすくすると
l  抑圧に基づく分析理論=真理はひとつ、客観的な現実に対応している。
l  解離に基づく分析理論=UE

では果たしてUEとはなんだろう?日本語訳を調べなくては。そこで解離モデルの説明に入る。「知覚は決して感覚的所与sensory givenではない。知覚はUE として入力され、構成される。スターンは以前この議論について言語的な意味しか考えていなかったという。しかし非言語的な意味なども含まれると考えるようになったという。たとえばいちゃつきflirtation がそうであり、それは非言語的な意味として対人間のかかわりの中で創造されるという。
このように考えていくと、抑圧モデルと解離モデルでは、ちょうど逆の考え方をしていることがわかる。解離モデルでは、意味は創造するものだ。最初からそこにあったものに対する抑圧をとくというものではない。意味は最初から可能対としていくらでもある。その中で耐えられないものは、フォーミュレイトされないままでいる。抑圧だと自然な出来事は抑圧されていたものが解除されて、ちょうどビーチボールが水面に浮き上がってくるような状態。ところが解離モデルだと、耐えられるものがフォーミュレイトされて意識に上る。ちょうどレンズがあってそれがフォーカスを当てたものが上ってくるようなものだという。
 このように考えると解離されたものは、そこに形を成していないものということになるが、これが抑圧モデルとかなり異なる(というか正反対の関係にある)のはわかった。しかしたとえば「別人格」などはどうだろう?同じように考えるのだろうか?あるいはトラウマ記憶でもいい。Aさんにとってトラウマ記憶は解離されていて思い出せない。するとAさんにとってはそれは存在しない、ということか。つまり抑圧されているというわけでもないというわけだ。
で、スターンはこんなことを言っている。「解離とは、好奇心を無意識的に拒絶することである。」うーん、わからない。というか、もう無意識的、というのがわからなくなってきている。無意識的って、簡単に言うな!といいたい。「ガダマーによると、私たちは決して現実そのものを知覚することが出来ない。」(別に、ガダマーじゃなくてもいいそうなことだが。)「そのわかり、私たちは現実を構築するのだ。」と。そしてその構築の際に依拠するのが、バイアスと先入観だ。ところが、新しい体験とはそのバイアスや先入観を超えたところにあるというのだ。そうだろう。期待を裏切る新しいものが、体験として記憶に残るのだから。
そしてスターンは言う。「留まることのない好奇心は、解離の対極にある。」・・・少しずつわかってきた。解離とはそこに新しいものを見ないこと、新しそうなものを見ても、「それは~である」と定式化 formulate しないことであるという。言い換えると、解離とはフォーミュレイトされていない体験ということになる。
この後論文は、「強い解離」と「弱い解離」という分類について紹介する。彼は「受動的な解離 passive dissociation」、ないしは「弱い意味での解離 dissociation in a weak sense と「能動的な解離 active dissociation」、ないしは「強い意味での解離 dissociation in a strong sense」があるという。前者は私たちが単に心の一部に注意を向けない種類の体験といえる。それに比べて後者は無意識的な動機により私たちがある事柄から目を逸らしている状態で、こちらはトラウマに関係しているという。この両者を本書では呼びやすく、「強い解離」と「弱い解離」と呼ぶべきであろう。