2015年5月30日土曜日

あきらめと受け入れ(4)




あきらめと「老いと死」

あきらめや受け入れの問題は、究極的には、老いと死の問題に結びつく。あきらめの最終形態は、自分という存在の消滅、すなわち死を受け入れることである。ただしその前に必然的に生じるのが、自分の持っている身体能力、健康、認知能力、若さと美貌、財産、友人、家族を一つ一つ失っていく過程である。生きるということはある意味では非常に残酷である。体力や知識や経験を獲得していく期間はある意味では夢中であり、またそれなりの苦痛を伴う。しかしふと一息ついたときには、すでに人生は下り坂なのである。あとは経験や社会的な地位はある程度は増していくかもしれないが、それ以外のことについてはことごとく失われていくのだ。私が興味深く思うのは、この老いと死の問題は、おそらく私たちの思考の中から、あるいは精神療法のテーマとして常に抑圧され、忘れられているということである。フロイトは私たちが抑圧するのは性的ファンタジーや攻撃性だと考えたであろう。しかしそう言いながら老いと死の問題については考えたくなかったのではないか。
 しかし人は言うかもしれない。「私たちが一日ごとに年老い、死に向かっていることはあまりに当たり前すぎて、いまさら論じるまでもないことでしょう。」しかしそれにしては人は死すべき運命にあまりに準備不足で、まじかに迫った死の宣告に打ちのめされ、恐怖を覚える。あたかも死の問題は、扱うことを永遠に先延ばしにし、それが避けられない形で迫ってきたときにそれを扱うことが出来ない。
 私の基本的な立場は、米国の精神分析家Irwin Hoffman のそれに強く影響を受けたものである。Hoffman の立場は人は死すべき運命を受け入れることにより、現在の生をより十全に生きることが出来るというものである。この考えはHeidegger に影響を受けているものの、それ自体は彼の言う弁証法的構成主義の考えに沿ったものでである。弁証法的構成主義とは、人が自らの体験を反復的、儀式的な面と・・・・・と述べるより、すでに書いた森田療法の論文に書いたものをここに再録してみよう。

「死生学としての森田療法」(2013年)より

精神分析の分野では、米国の分析家アーウィン・ホフマン Irwin Hoffman が、他に類を見ないほどにこの死生観の問題について透徹した議論を展開しています。彼の死生学はその著書 Ritual and Spontaneity(儀式と自発性) の第2章で主として論じられています。ホフマンはこの章のはじめに、フロイトが死について論じた個所について、その論理的な矛盾点を指摘しています。フロイトは1915年の「戦争と死に関する時評」で「無意識は不死を信じている」と述べているのです。なぜなら死は決して人が想像できるものではないからだというのです。しかし「同時に死すべき運命は人の自己愛にとって最大の傷つきともなる」という主張も行なっています (ナルシシズム入門)。「人が想像することが出来ない死を、しかし自己愛に対する最大の傷つきと考えるのはどうしてか? ここがフロイトの議論の中で曖昧な点である」とホフマンは指摘します。そして結局彼が主張するのは、フロイトの主張の逆こそが真なのであり、無意識に追いやられるのは、死すべき運命の自覚であるというのです。つまり人は「自分はいずれ死ぬのだ」という考えこそを抑圧しながら生きているというわけです。こちらのほうが常識的に考えても納得のいくものだと私も考えますが、精神分析の世界では。死に関するフロイトの矛盾した主張が延々と繰り返され、場合によっては死への不安はその他の無意識的な概念を覆い隠しているとさえ主張されることすらあるのです。
 さてそこから展開されるホフマン自身の死生学は、サルトルやメルロー=ポンティなどの実存哲学を引きつつ、かなりの深まりを見せています。簡単に言えば抽象的な思考というのは、すでに死の要素をはらんでいるというのです。抽象概念は無限という概念を前提とし、それは同時に死の意味を理解することでもあるというのがその理由ですが、ここでは詳述は避けます。
ホフマンは次に再びフロイトにもどり、彼の1916年の「無常ということ」という論文を取り上げています。そしてこの論文は、死についてのフロイトの考えが、実はある重要な地点にまで到達していたとしているのです。この無常についての原題(といっても英語版ですが)は、On Transience であり、つまりは「移ろいやすさ」というような意味です。この論文でフロイトはこんなことを言っています。「移ろいやすさの価値は、時間の中で希少であることの価値である」。そして美しいものは、それが消えていくことで、「喪の前触れ」を感じさせ、そうすることでその美しさを増すと主張し、これが詩人や芸術家の美に関する考え方と異なる点であることを強調しています。彼らは、美に永遠の価値を付与しようとするというのですが、それはその通りでしょう。詩にしても絵画にしても、それが時間とともに価値を失うものとしては創られないだろうからです。いかに永遠の美をそこに凝縮するかを彼らは常に考えているのです。そしてフロイトの論じる美とは、それとは異なるものとして論じられているのです。
ここでちょっと考えて見ましょう。たとえば花の美しさはどうでしょうか? やがて枯れてしまうから美しく感じるのでしょうか? 美しいと思った花が、実は「決して枯れない花」(すなわち造花)だと知った時の私たちの失望はどこからくるのでしょうか? フロイトの言うように、花はやがて枯れると思うから美しいのではないでしょうか?しかし考えてみれば、芸術とは、いかに美しい造花を創るか、ことなのでしょう。美しい花を描いた絵は、結局は一種の造花ではないか?しかしこのようなことを言ったら、たちまち芸術家から反発を受けるでしょうから、これはあくまでも私の思い付きということにしておきます。
ともかくもフロイトはこのようなすぐれた考察を残しながら、結局は死すべき運命への気づきを彼の精神分析理論の体系の中に組み込まなかったのです。その意味で彼の理論は反・実存主義であったとホフマンは言うのです。そこでホフマンを通してみる死生観とは、私なりにまとめると次のようなものです。
「死すべき運命は、常に失望や不安と対になりながらも、現在の生の価値を高める形で昇華されるべきものである。死は確かに悲劇であるが、外傷ではない。外傷は私たちを脆弱にし、ストレスに対する耐性を損なう。しかし悲劇は私たちが将来到達するであろうと自らが想像する精神の発達段階を、その一歩先まで推し進めてくれるのだ。」
ここに森田正馬の考え方との共通性と微妙な違いも見ることが出来るのでしょう。森田は、「死への恐れは、生に対する欲望の裏返しである」という表現をなさっていると理解しています。生への欲望があるからこそ死を恐れることになる。しかし森田のこの言い方に、私は少し突き放された感じがあったのです。「では生への欲望を抑えることが死への恐怖の克服につながるのか?」と疑問に思ってしまうのです。その点ホフマンの示唆はもう少しその点をクリアに示していると思えるのです。それは「死の恐怖は、それを現在の生と切り離すことから生じる。両者を表裏のものとして見ることで『克服する』というよりはより現実的にそれを生きることが出来る」というメッセージなのです。
次にに死の内面化をどのように目指すかについて考えたいと思います。私はそのためには毎日の生活の中で間断なき努力を行う以外にないと考えます。なぜなら私たちの生は、とらわれの連続だからです。生きているということは雨露を凌ぎ、栄養を摂取し、冬は暖を取り夏は涼を求めるという営みの連続ですが、これらは全て生への執着です。そこで過去の修行者は様々な形で日常的に死の内面化を行う努力をしました。ある人は只管打座に明け暮れ、ある人は経文を唱え、ある人はお伊勢参りをし、ある人は托鉢僧や修行僧となったのです。ただし私たちは療法家ですし、人と関わるのを生業としています。そこで私が考えるのは、やはり人との関わりとの中で日々自らを確かめることができるような営みです。
 特に私が考えるのは、常に我欲を捨て、人に道を譲るという生き方です。ただしその障碍となるのが意外にも、周囲が自分に道を譲らせてくれないという事情です。というのも我が国では年長者や肩書きを持った人間は、その人間性とは無関係に持ち上げられ、甘やかされるという傾向があるからです。しかし歴史的な人物の中には、本当に「この人は我欲を捨て、徹底して他人に謙ることで死を内面化することを実践していたのではないか?」と思わせるような例があります。その一つの例が、作家により描かれた幕末のある傑人の姿です。
ということで私の考察は坂本竜馬や西郷隆盛に向けられます。