2015年4月28日火曜日

精神医学からみた暴力 (4)

思いつくままに書き進めて行こう。人が世界に変化を与え、それにより能動性の感覚を味わうとしたら,他人の感情状態に変化は最もよい候補と言えるだろう。人が喜びを味わうことも苦痛を味わうこともその対象となりうる。自分自身か突然味わう喜びや悲しみや恐怖や痛みの感覚がその証拠になる。それが他人の心に起こることを想像するだけでいい。そのうち私達がしはしば実行するのは他人を喜ばせたり、驚かせたりするという行為である。他人に贈りものをしたり、サプライズバーティを仕かけるなどのことは日常的に行なわれる。それにより他者が喜んだり驚いたりする姿を見ることは楽しいものだ。自分の行動が他人の心に大きな変化を起こすのだ。
 もちろん他人に苦痛を与えたりする場合には話は別である。しかし相手の心に生じた変化という意味ではこれは別格の意味を持つと考えなくてはならない。そして現実を離れた世界では、これは日常的に選択されるのだ。囲碁や将棋を考えよう。相手の大石を仕取めたり、王将を追い詰めることは、アマチュア棋士たちにとつて,恐らく無上の快感を与えるにちかいない。そこに相手の直接の苦痛が及ばなかったり、それが十分に正当化し得る場そにはそうであろう。あるいはビデオゲームを考えればよい。殆んどのファイティンググームで敵を倒したり,ダメージを与える様なシーンか登場するだろう。この様な例を与えることは、私達がいかにイメージの世界では他人に苦しみを与えたり,破壊したり殺したりすることが好きかを示している。私はこの文章を書いている時、7年前に起きた秋葉原連続殺傷事件のことを思い出す。報道された翌日の外来では患者さんたちとその話題になることが多かったが、彼らの反応の多くが「自分は実行はしないが犯人の気持ちがわかる.というものであつた。(ちなみに彼らは特別暴力的な傾向を持つことのない抑うつや不安に悩まされている人々である。それだけに私には彼らの反応が意外だったわけである。私はこの時は非常に驚いたが、よく考えれば合点かいく。ファンタジーや遊びの世界で他者や、器物にダメージを与えることは、むしろ全く普通のことであり、むしろそれを抑えているのは、現実検討でなり、それが実害をともなわないとぃう認定なのである。
この様に与えると私達が暴力をファンタジーのレベルに留める困子が罪悪感であると考えてよいであろう。目の前の実際の他者か:自分の()作為が原因となって苦痛を味わうことの恐怖は恐らく私達が日常十分に思い至ることのない甚大は苦痛なのである.なぜそうなのか?細かい発達論的な文脈には私は詳しくないが (そして恐らくは学問上も不明な点が末だに多いのであろうが)。