2015年4月15日水曜日

精神分析と解離(9)


 実はこうして書いている間に、一つの「事件」が起きた。と言っても私の心の中でのことだ。少し大げさだが、ある種の発見である。題して「コフートの人格問題」である。
発端はこうだ。私はフェレンツィについて書いているが、結局はこれはある学会での発表の準備である。そこで精神分析と解離の関係について話すのだ。そして同時にとある分析セミナーでコフートの話をするために、Strozier のコフートの伝記を読み進めているが、フェレンツィとコフートがある意味で正反対であるという点を「発見」したのである。私の印象では、フェレンツィは嘘がつけない人間である。少なくとも意図的には。おそらく多くの欺瞞を抱えていただろうが、少なくとも大っぴらに人を欺いたり嘘をついたりできない人。だから分析家の上から目線が自分でも許せず、患者との相互分析などに走ったのである。しかし同じ「ロマン派」の分析家でも、コフートはかなりそこら辺は割り切った、かなりあからさまな欺瞞がみられた人としてStrozierは描いてるのである。題して「コフートの人格問題」としよう。
例1        コフートは自分の病気についてかなりあからさまな「嘘」を患者についていた。学生からの「癌ではないですか?」との問いに、心臓病から二次的に来た感染症が治っていないのだ、という言い方をした。
例2        David Terman の処遇。彼はコフート自身よりはるか前に、エディプス葛藤が自己心理学の一部として説明できるという説を提唱していたが、コフートはそれを採用しなかった。しかしのちのコフート自身の著述(1984)で、同様の論述を展開しながら、Termanの理論的な先取りについて一言も触れなかったという。
例3        パーティでは自分が話の中心でないと満足しなかった。他方では自分が望まない自己開示は一切しなかった。

例4        ある弟子(Gedo ゲドー)は、コフートの自己愛的な性格のために疎遠となった。