2015年4月29日水曜日

精神医学からみた暴力 (5)

今までのところをまとめると、人にとって自らの動きによる効果(おや、言い換えたぞ)として、他者の苦痛や生死は実はとてもいい素材になってしまう。自分が他者に起こす加害行為は大きな快楽の源泉となる。しかしそれの歯止めになっているのが、他者を害することの苦痛や恐怖なのである。私たちが生きるということはこの両者のバランスを常にとることなのだ。だから罪悪感の生じないような正当化される攻撃なら、私たちは喜んですることが多い。もし自分に害を与えた人との裁判で、自分の証言により相手に無期懲役が下ったとする。あなたは被告側の人生に起きた「不幸」に喜ぶことになる。もちろん誰もそのような原告を非難することはないであろう。

再び、攻撃性は本能ではないのか?

ここまで書くと、「やはりあなたは攻撃性は本能だと言っているのではないのですか?」と言われそうだ。そこでそうではないことを示しつつ、次のテーマに移りたい。
私が示そうとしているのは、人間は自分のせいで世界に起きたある種の効果の大きさに興奮する。そこに自分の能動性を感じるのだ。そしてその効果の大きさとしては、他人の感情があり、それは喜びでも驚きでも悲しみでも苦痛でも構わない。でも不幸なことに、苦痛が一番大きな効果の役割を果たすことが多い。ただしそこには他人を苦しめることへの恐怖や苦痛がある。すると私たちが攻撃性を発揮できるのは、それを正当化できる場合である。これは日常生活ではいくらでも数え上げることが出来る。たとえば猪が畑を荒らす地方では、地元の漁師は「害獣」である猪を「殺害」することに罪悪感がほとんどないだろう。●●家の牛丼を食べるたびに、犠牲となった牛を悼む人など皆無だろう。(これは例としてはあまり関係なかったな。) 部屋の中に迷い込んで自分を悩ませ続けた蚊をピシャリとやった時の心地よさ。あなたが反社会的な、残忍な性格である必要は少しもないのである。ボクサーなら、相手を「意識を失うほど殴りつける」ことの快感が忘れられないのではないか。そして彼はサイコパスである必要はない。このように考えると、攻撃性はそれが正当化されるときには発揮される、という風に整理しなおすことが出来る。健康で体力や知力に問題のない人間なら、人を簡単に破壊し、苦痛を与えることが出来る。ただし通常は大きな歯止めが、ストッパーがかかっているのだ。それを私は以下の3つだけ示そうと思うが、さしあたり問題になるのは、第2、第3番目である。