2015年4月22日水曜日

精神分析と解離 (16)


 しかし私の印象では、スキゾイドの議論はフロイトが危惧したであろうようにはならず、もう少し穏当な路線で進んでいったようである。スキゾイドの議論については癌トリップのまとめが一般的に受け入れられているようであるので、それを少しひも解いてみよう。「対象関係論の展開」(小此木、柏瀬訳、誠信書房、1981年、Harry Guntrip (1971)  Psychoanalytic theory,therapy, and the self, Basic Books) 一昔前に何度も読んで、たくさん線が引いてある本だ。
ただしトラウマの観点から読んではいずに、すでに月日がたっている。と言ってもPDF版だけれどね。自炊は便利だね。いつでもどこでも本が読める。それはさておき・・・・・
「第6章スキゾイド問題」を一回ささっと読んで書いてみよう。第一印象としては、トラウマ理論からは離れているということ。ニュアンスとしてはこんな感じだ。「ウィニコットも言っているように、『程よい母親』のケアを受けられないと、子供は偽りの自己ともいえる外面の下に、真の、傷つきやすい自己を分裂させる。これがスプリッティングの本質だ。」
実際にガントリップはこう書いている。
「冷たく、感情を欠いた知的な人物の外的な防衛がもし突き破られるならば、内に秘めた、傷つきやすくて、大変によく深く、しかも恐怖にみちた乳児的な自己が夢や空想の世界に現れてくる。ただし、このような自己は、外的な世界がみている表面的な自己、つまり偽りの自己(ウィニコット)から分裂・排除されている。」(p.178)
こんな風に言えるだろうか。精神分析で始まったシゾイドの議論は、むしろ解離の議論から離れ、準 schizophrenia 状態としての schizoid の方向へとずれていってしまった。そしてトラウマの議論の代わりに、養育不全の問題へと推移していってしまったのである。

結論:精神分析における解離の問題が、トラウマとの関連で再び焦点づけられるには、サリバンの登場を待つしかなかった。(え?第6章読み直すはずじゃなかったの?)