2015年4月16日木曜日

精神分析と解離(10)

久しぶりに晴天で暖かな気持ちの良い朝。その日の気分に天気が影響するのは紛れもない事実だろう。


John Gedo はコフートの高弟だったが、彼がコフート理論を進めたうえで提出した概念(「構造体としての自己」という概念)を剽窃したとして、「ruthless egocentric person っ容赦のない自己チュー人間」と非難したという。コフートは、弟子の理論を自分は否定しながら、それを黙って借用するというところがあった。そしてそれはおそらく彼が多くのヒントを得たはずの過去の分析理論、例えばウィニコットについてほとんど引用しないという傾向にも表れていた。このように考えると、コフート理論は恥の理論と結びつくと同時に、恥を徹底して否認する傾向をも内包していたということになるだろう。
要するにコフートは「含羞の人」の逆だったわけである。私にとって含羞の人とは常に(場合によっては必要以上に)へりくだり、自分が相手にどのような迷惑を及ぼしているかを気にしている人である。しかしコフートはその点お構いなしに、自分のことを一方的に相手に伝える性質があり、その場合相手の迷惑を考えていない(それが見えていない)ところがある。これは上述の Terman が一度コフートと学会の際にウィーンで午後を共にした際、コフートがあまりに自分の知識をひけらかすので、しまいには実際に吐き気がしてきた、と語っているという。しかしこの Terman はまた、学者として、バイザーとしてのコフートを、おそらく弟子の中では最も評価しているというところがある。しかしそれは患者の病理を説明することにおいてであり、Terman を勇気付けたり、どのように実際に扱うべきかなどについてはアドバイスがなかったという。
実はこのコフートの自己欺瞞は彼の人生を通して言えることかもしれない。彼は分析の世界で名を成すために、本当は伝統的な分析理論に満足していなかったことを明らかにせず、あえて「ミスター・サイコアナリシス」であり続けたというところがある。少なくとも1970年あたりまでは。私はコフート理論を高く評価しているが、それと人間コフートの理想化とは無関係である。というか、誰もそんなにエライ人間などいない、というのが面白いではないか。