2015年3月29日日曜日

解離とフォーミュレイトされていない体験(スターン) (4)

 フロイトなら、例えば人間には絶対に性的願望と攻撃的な衝動があると考えたであろう。だから治療場面でそれが出てこなければ抑圧されていると考えるし、夢の内容はかなり強引にそれらの表れとして解釈されたはずだ。性的、攻撃的欲動の存在については、それはどのような人間にもあるプライマリーなものと考える人は結構いるかもしれない。しかし私はそれらが重要ではあるにしても、その程度には差があるし、それがプライマリーなものとも思えない。もっとプライマリーなものがあるとしたら、「人に自分の存在をそうと認めてほしい」という願望かな。これなら赤ん坊に常にみられる。(ただし発達障害の場合は事情は異なるが。) でもそれらを十分形を成したものfully formed と見るだろうか?文脈によりその強度も対象も異なるだろうし、時には姿を見せないこともある。攻撃的な人だって自分の愛する子供の前ではそれは一時は姿を消すだろうし、優しく子供に接している時の彼の攻撃性が「抑圧されている」とは考えにくい。でもそれは当たり前のことではないだろうか?攻撃性にしても性的欲求にしても、そこにポンとあるのではなくて、ある種の刺激による反応という形で、例えば電車で横入りをする人を見た時に腹が立ってどなり声を発してしまうという形で存在するだけではないか。
でもこのような考え方は、曲がりなりにも心理学や精神医学の知識をある程度持っているからであろうか?そもそも学問とは縁のない世界に育ったら、江戸時代の貧農の長男として生まれ、毎日畑を耕すだけの毎日だったら、私は机を見てそうとわかるのは机の薄皮がはがれて目に入ってくるからだ、と思うのだろうか?
 とにかくスターンが繰り返し言うことはこうだ。フロイトにとっては、真実とはすでに形を成してそこにあり、おそらくは唯一であり、それに対して私たちは目をつぶっているだけである。その抑圧を解いた時にはそこに現れてくるものである。
でもおそらくこのような考えを持っている人たちは結構多いはずだ。今の世の中でも。特に心理、精神医学関係でない人の場合にはそうかもしれない。