2015年3月20日金曜日

15年前に「現実」について書いたもの(10)

しかしだからといってすべての現実を患者にいきなり伝えていいというわけではない。過剰な現実はトラウマとなりうるからだ。ただしどの現実が患者にとって発達促進的となり、何がトラウマ的になるかについては、正確には知りようがないところがある。ことごとく状況依存的だからだ。
 たとえばフロイトが癌であるということを知った時、その事実は、その事実を知らされなかった場合のほうがより外傷的であったという(Kohut, 1977.p65)。しかし無論フロイト以外の誰かにとっては、癌の宣告は外傷的で自殺を引き起こす可能性があるため、その現実をいかに伝えるかには十分な配慮が必要となろう。 もちろん現実はつらいばかりではなく、充足的な、満足を与えてくれるものでもありうる。治療者が温かく共感的な態度を示したとしよう。これはフロイトの「禁欲原則」には反しているかもしれない。しかしもし患者が「他者はみな自分に対して敵対的で冷たい」という確信を抱いている場合には、治療者のそのような温かい態度は、それとは異なるような新たな現実を提供することになるだろう。Alexander 1956)の、非常に批判を浴びている概念である「修正感情体験」も、ここで新たな意味を持ち始めるといえよう。ただしそれは操作的な意味で用いられた場合に、より臨床的な力をそがれるというのが私の理解である。

臨床例では、シンディが私を最初は懲罰的で、のちにはそれよりも優しい他者として体験したことは、その全体が意味のある現実として役に立ったことを望む。