2015年3月22日日曜日

第10章の後半、書き直した (誰も読まない)

・・・もちろん放っておいていいのか、忘れていいのか、という懸念を起こすような人格部分も存在する。おそらくDIDの当事者や、もちろん臨床家も一番恐れている「黒幕人格」である。「黒幕人格」とは私の造語であるが、DIDの治療の際にしばしば問題となる、怒りや攻撃性を伴った人格部分である。本書では彼らに敬意を払う意味で、「黒幕人格」とするが、「黒幕さん」という呼び方もお許しいただきたい。
黒幕さんは眠っていても、その存在感から周囲に畏れられる傾向にある。彼らが出てくると大変なことが起きる。人を傷つけ、自分も傷つくことも多い。「ずいぶん前に一度出てきたらしく、この腕の深い傷はその時のものだ」、というよう話も患者から聞く。筆者自身もDIDの方々とのメールによる連絡の際、稀にではあるが畏れ多いメッセージ(たいていは短文で怖い口調である)をいただいたりする。
 さて黒幕人格部分は、おそらくトラウマの最深層と関係している可能性がある。ある意味ではそのDIDの方の持つ病理の核心部分と言ってもいい。しかし黒幕さんを直接扱うことのメリットは不明である。というより事実上扱えない場合が少なくない。
 かつて自著でも触れたことがあるが、米国にいた時、患者の中に男性の元プロレスラーのDIDの方Mさん(40歳代)がいた。雲を突くような大男だが幼少時に深刻な性的虐待を体験している。Mさんは二度ほど黒幕人格部分が出現したという。一度は車の運転をしていて、ふとした事故から助手席にいた自分の妻に危害が及びかけた時であったという。その際相手側の運転手を運転席から引きずり出して半殺しにしたというが、もちろんMさん自身は覚えていない。もう一度は、プロレスの試合中に相手がかなり悪質な反則行為をした際であった。その時も相手を半殺しにしたというが、その時の記憶もない。しかし実際のMさんは、治療室で対面すると、これほど繊細でやさしい男が居るのか、と思うほどの男性であった。私とMさんはとてもうまく行っていたが、それでも一対一の診察の時に、深刻な話は出来ないな、とふと不安になったことを覚えている。
 Mさんの黒幕さんの場合、もちろん二度と出てこないことを祈る。彼にとっても周囲にとってもその方が平和だ。それに黒幕さんが賦活されるのは、余程彼にとって深刻で外傷的な事件が起きた場合に限るらしい。そうだとしたら、それが起きない方がいいに決まっているのだ。
 私は黒幕人格の事を考える際Mさんの事をよく思い出す。彼の場合黒幕人格を扱えないのは、彼が大男で、暴れ出したら周囲を巻き込むことが必至だから、技術的にそれを扱うのは無理だからである。それでは体格的に彼ほどではなく、より安全に扱える人の場合は、入院などの安全な環境で黒幕さんを扱うべきか? おそらく否であろう。ただしその黒幕さんがしばしばその人の生活に姿を現して、その人の生活に支障をきたしていないならば、である。
解離性障害の治療における「寝た子は起こさない」
黒幕人格に対する対処の仕方は、私が解離性障害の治療の際に頻繁に用いる「寝た子は起こすな」という表現と関連している。寝た子、などというとDIDの人格部分の方々に失礼かもしれないが、このような言い方がわかりやすい場合が多い。解離性障害の場合、人格部分がその人の通常の生活にしばしば顔を出し、日常生活上の支障を来たすようでなければ、おそらく触れないでおくべきだという原則だ。これはトラウマの記憶ということにさかのぼって考えると納得がいくことだろう。トラウマの記憶がもう全くよみがえってくることはないにもかかわらず、「しかしあれは自分にとって非常に重大な出来事だったから」とそれを無理に思い起こそうとするだろうか?
 ただしここでトラウマ記憶の想起は、それが日常生活に顔を出さないのであれば必要でない、と断言できない理論的な根拠もまたある。実はここには微妙な問題があるのだ。精神分析家なら次のように考えるかもしれない。
「いや、その記憶は意識的に思い出されなくても、本人はそれを抑圧しているだけかもしれません。無意識は常にその記憶の存在を知っているわけであり、その何らかの影響はその人の日常生活に及んでいるはずです。その人が本当の意味で過去のトラウマから自由になるためには、それを想起する必要があるのです。」
 このロジックに根拠がないと言い切れる臨床家はおそらく誰もいないはずである。だから精神分析と解離理論の対立はある意味では不可避的なのだろう。
トラウマに直面すること

以上トラウマを忘れることについて書いた内容は、必然的にそれと逆の方向、すなわちトラウマに直面することについての議論も含んでいることに気付かれよう。トラウマについての記憶がフラッシュバックの形で頻繁によみがえる場合、トラウマを思い起こさせるような場所や事柄をいつの間にか避けている場合、そしてそれが日常生活に支障をきたしている場合はどうだろうか?この回避行動は実際に行動レベルで知らずに起きるということがある。例えば自分がトラウマを受けたと感じる人に出会う可能性のある場所に向かおうとしても、足が動かなくなってしまう、気分が悪くなる、などの形をとるであろう。その場合には、その記憶はおそらく扱う必要性が高くなる。
 ただし回避行動が顕著だからといってトラウマを必ず扱うべきかといえば、必ずしもそうではないだろう。例えばある会社でパワハラに遭った際に、その会社にはもう行けなくなったとする。その会社に足を踏み入れるたびにフラッシュバックが起きてしまうからだ。その場合、その会社にこれからも勤め続けなければならないような境遇にあるとしたら、その会社で起きたトラウマを扱わなくてはいけなくなるかもしれない。しかし転職が可能であり、別の会社に職が得られれば、とりあえず問題は解決したことになる
 この理屈は、恐怖症への対処ということとも絡んでくる。例えば高所恐怖の人が、高いビルなどない田舎暮らしが可能ならば、それに対処する必要はないだろう。「治療」は不要なのだ。しかし都会生活を続けるとしたら、ビルの高層にある場所に行くたびに怖い思いをしなくてはならなくなり、それを直すための治療がそれだけ必要になる。このように治療の必要性は相対的なものであり、解離性障害の場合も同じように考えればいい。黒幕さんが姿を現さない限りはそれを扱う必要はないだろう。しかしそれが日常生活に支障をきたすなら、扱うしかない。
 ただしトラウマ記憶をどう具体的に扱うかについては非常に難しい問題をはらんでいる。過去の外傷体験を想起することが、再外傷体験につながることもある。すなわちそれによりまた生々しくその記憶が再現するようになる可能性がある。「暴露療法」の適応となる患者の数も限られているのが現状である。
 私の臨床経験からは、過去のトラウマ記憶について聞き出すことで、その日から再びフラッシュバックが起きるということは実は一度も経験していないが、ヒロイズムにかられた治療の犠牲となった患者の話も少なからず聞く。十分に安全な環境を整えた上でトラウマ記憶について取り扱うことがベストであるが、そのために必要な時間と治療費、人材は圧倒的に不足しているというのが現状である。