2015年3月31日火曜日

解離とフォーミュレイトされていない体験(スターン) (6)


では果たしてUEとはなんだろう?日本語訳を調べなくては。そこで解離モデルの説明に入る。「知覚は決して感覚的所与sensory givenではない。知覚はUE として入力され、構成される。スターンは以前この議論について言語的な意味しか考えていなかったという。しかし非言語的な意味なども含まれると考えるようになったという。たとえばいちゃつきflirtation がそうであり、それは非言語的な意味として対人間のかかわりの中で創造されるという。

このように考えていくと、抑圧モデルと解離モデルでは、ちょうど逆の考え方をしていることがわかる。解離モデルでは、意味は想像するものだ。最初からそこにあったものに対する抑圧をとくというものではない。意味は最初から可能対としていくらでもある。その中で耐えられないものは、フォーミュレイトされないままでいる。抑圧だと自然な出来事は抑圧されていたものが解除されて、ちょうどビーチボールが水面に浮き上がってくるような状態。ところが解離モデルだと、耐えられるものがフォーミュレイトされて意識に上る。ちょうどレンズがあってそれがフォーカスを当てたものが上ってくるようなものだという。
 このように考えると解離されたものは、そこに形を成していないものということになるが、これが抑圧モデルとかなり異なる(というか正反対の関係にある)のはわかった。しかしたとえば「別人格」などはどうだろう?同じように考えるのだろうか?あるいはトラウマ記憶でもいい。Aさんにとってトラウマ記憶は解離されていて思い出せない。するとAさんにとってはそれは存在しない、ということか。つまり抑圧されているというわけでもないというわけだ。

2015年3月30日月曜日

解離とフォーミュレイトされていない体験(スターン) (5)


スターンさんは何度も強調する。抑圧モデルというのは無意識にある唯一の心理があり、それは客観的な現実に「対応」している、と考える。これを彼は「対応」理論 correspondence theory と呼ぶ。これを従来の分析かはかたくなに守ってきたのだという。この「対応」理論によれば、人の理解は絶対的で、文脈に依存せず、真理はいつも同じ真理、ということになる。ここら辺は私もある程度いいような気がする。たとえばクライエントが「偽善的」であるという性質を考える。それは文脈で変わることはない。見方によっては偽善的な振る舞いや言動が、別の視点からそうでない、ということを認めないことになる。スターンがこれを何度も強調するのは、この次に「定式化されていない体験unformulated experience(以下UEとしよう」というのを持ち出すからだ。そしてそれに基づいた考え方が解離であるという。

「定式化されていない体験」-解離に基づいた心のモデル

でもそれとは異なる見方をしたらどうだろう、というわけだ。「もはやこの対応理論に従っている人などいない。」なーんだ、それでいいのか。「ところが多くの分析家がこれに固執する様子を見せている。」ホント、どうしてだろうね。「そこで私が提唱するのが、解離に基づいたUE理論」。
少し見やすくすると
l        抑圧に基づく分析理論=真理はひとつ、客観的な現実に対応している。
l        解離に基づく分析理論=UE

2015年3月29日日曜日

解離とフォーミュレイトされていない体験(スターン) (4)

 フロイトなら、例えば人間には絶対に性的願望と攻撃的な衝動があると考えたであろう。だから治療場面でそれが出てこなければ抑圧されていると考えるし、夢の内容はかなり強引にそれらの表れとして解釈されたはずだ。性的、攻撃的欲動の存在については、それはどのような人間にもあるプライマリーなものと考える人は結構いるかもしれない。しかし私はそれらが重要ではあるにしても、その程度には差があるし、それがプライマリーなものとも思えない。もっとプライマリーなものがあるとしたら、「人に自分の存在をそうと認めてほしい」という願望かな。これなら赤ん坊に常にみられる。(ただし発達障害の場合は事情は異なるが。) でもそれらを十分形を成したものfully formed と見るだろうか?文脈によりその強度も対象も異なるだろうし、時には姿を見せないこともある。攻撃的な人だって自分の愛する子供の前ではそれは一時は姿を消すだろうし、優しく子供に接している時の彼の攻撃性が「抑圧されている」とは考えにくい。でもそれは当たり前のことではないだろうか?攻撃性にしても性的欲求にしても、そこにポンとあるのではなくて、ある種の刺激による反応という形で、例えば電車で横入りをする人を見た時に腹が立ってどなり声を発してしまうという形で存在するだけではないか。
でもこのような考え方は、曲がりなりにも心理学や精神医学の知識をある程度持っているからであろうか?そもそも学問とは縁のない世界に育ったら、江戸時代の貧農の長男として生まれ、毎日畑を耕すだけの毎日だったら、私は机を見てそうとわかるのは机の薄皮がはがれて目に入ってくるからだ、と思うのだろうか?
 とにかくスターンが繰り返し言うことはこうだ。フロイトにとっては、真実とはすでに形を成してそこにあり、おそらくは唯一であり、それに対して私たちは目をつぶっているだけである。その抑圧を解いた時にはそこに現れてくるものである。
でもおそらくこのような考えを持っている人たちは結構多いはずだ。今の世の中でも。特に心理、精神医学関係でない人の場合にはそうかもしれない。




2015年3月28日土曜日

解離とフォーミュレイトされていない体験(スターン) (3)

さてこのフロイトの議論で面白いのは、「抑圧されたものは常に表現されるような圧力を加える。欲動の派生物は常に解放されることを『願う』のである。」そしてこのような傾向があるからこそそれに対する無意識的な防衛も必要になる。なぜならその解放は最終的に不快を招来するため、防がれなくてはならないからだ。私がここの部分のくだりを特に面白いと思うのは、このことはまさに解離についてもいえることだからだ。解離された心の内容も、あたかも表現を望んでいるかのようだ。これはそもそもフラッシュバックと同類と考えるならば、「解離されたトラウマ記憶は表現されることを『望む』」と言い換えてもいいだろう。ところがフロイトにとってはトラウマではなく、あくまでも欲動なわけだが。やはりこのフロイトの欲動への固執は、分析の方向を誤らせているね。これは孫うことのない事実という気がする。私もフロイト派だけど。まあ続けよう。スターンはこういう。「意識の内容は特に選択されたわけではない。ある意味では防衛されることがなかったものが昇ってくるというだけだ。意識内容は欲動と防衛の衝突の副産物であるという。意識内容とは戦いが終わって煙が晴れた時にそこに残っているものなのだ。」何もそこまでいうことはないとは思うが、確かにフロイトはそのような言い方をしたのだ。
この後スターンは私にはよく理解が出来ないが、多分妥当なことを言う。「フロイトの時代は、人は心はある十分に形の与えられた内容物を持っていると考えていた。The mind – and, therefore, the UCS – is composed of fully formed contents.そしてそもそも私たちの近くは所与であり、すでにそこにあるものがそのまま心に入ってくる、と考えたのだ。」「知覚が構成主義的に概念化され直したのは、それからはるかにあとの話だ。(Bruner & Klein, 1960)」「だからフロイトは考えた。ある事柄を意識しないということは、心がそれを意識しないように仕向けているのだ。なぜならそれはそこにすでに形を成してあるのだから。」
確かに私たちは何かを体験した時、それがすでに十分に形を成してfully formedそこにある、と思いがちだ。これはどうだろう?自分でもよくわからない。しかしプリミティブな心なら、それを信じていたのだろう。何しろ昔の人は、あることを知覚するとは、そのものの表面が薄くはがれて目に入ってくるからだと考えた。机、とわかるのは、その薄皮がはがれて目に入ってくるからだ、と。(昔大学で広松渉先生の哲学の講義で、そんな話を聞いた。) 匂いに関してはそんな考え方をわしたちはしているかもしれない。林檎の匂いを嗅いだ時、小さな「リンゴの粒子」が鼻に入ってくることを想像しないか。これって一種の「逆ホムンクルス」ではないだろうか?


2015年3月27日金曜日

解離とフォーミュレイトされていない体験(スターン) (2)

「サリバンにとっては、一番の防衛は、フロイトの抑圧ではなく、解離だった。なぜなら一番回避しなくてはならないのは、過去のトラウマの再来だからだ。」このように考えると、対人関係学派=トラウマに基づいた理論=解離に基づいた理論という図式がピッタリくる。どうだろう。わが国では「対人関係学派=6070年代にはやった、時代遅れの理論」とみられがちだが、全然違うことになる。これほど時代の最先端を行っている理論はない、ということだ。サリバンは半世紀以上時代を先取りしていたということができるだろうか。
 さてスターンの立場であるが、彼は「解離を自分の状態を分けるという防衛プロセス」として捉えるという。まあこれは立場だから仕方がないな。私にとっては解離は同時に「起きてしまうもの」だが、スターンは分析の人だが、これを防衛として捉えるという点は譲れないのだろう。となると先ほどの例でいうと、倒れる貴婦人は、それにより自らの心の崩壊を防いでいる、という論法だ。でも自己の状態を分けるということ自体が、心の崩壊というところはあるから、私としてはこの点は譲れないのだが、まあ読み進めてみよう。

「フロイトは言った。抑圧されるべき心の内容は、意識から追い出される repulsedby the CSと同時に無意識に以前抑圧されたものからは吸引されるattracted by previous repressed contents in the UCS

2015年3月26日木曜日

解離とフォーミュレイトされていない体験(スターン) (1)




こりゃ読まなけりゃいけないな、という論文がある。もちろんブログ向きではないが、なるべく噛み砕いてやってみる。その結果としてこのフザけた文体になる。ドンネル・スターンさんのわりと最近の論文だ。心はどのように動いているか、一言でいうとそのテーマだ。
Donnel B. Stern: Dissociation and Unformulated Experience: A Psychoanalytic Model of Mind (in “D book”)

「解離はトラウマとの関連で論じられることが多いが、解離の理論は自分が堪えられない体験に対して用いられる自己防衛のプロセスとして理解される。」そうだよね。確かに。でも自己防衛、というのが少し怪しい。自己防衛になっていないということがあるからだ。山を歩いてクマに突然出会い、袋ネズミが擬死反射を起こして横たわる。でもここには問題がある。一つはそれにより余計食われてしまうかもしれない。それに自己防衛というよりは「スイッチオフ」の状態といえるのではないか?卑猥な言葉を聞いたビクトリア朝の貴婦人が卒倒する。これは自己防衛なのか、それともスイッチオフなのか、演技的なのか。どれ一つとも決められないところがある。
「解離はフロイトの精神分析とは対照的な心の理解である。」それもよくわかる。「私の解離の理解は分析的でかつ、哲学的である。」これもわかる。心と世界について考えるのが哲学だ。解離は心の在り方の非常に興味深い例だ。分析家の中で哲学に片足を突っ込んでいる人は多い。(この言い方は我ながら失礼だな。)あのストロローも、確か分析での立場を確立した後、大学の哲学科でハイデッガーを学びなおしている。
「私は解離の問題に、サリバンの著作を通して遭遇した。」あなたもですか。なかなか「ウィニコットの著作を通して」「フェアバーンを通して」という人には出会わないな。やはりサリバンの影響力は偉大だ。どうしてだろう?自分ではあれほど論文を書こうとしなかったのに。「サリバンは古典的な分析家と違っていた。彼は欲動と防衛の衝突という観点ではなく、重要な他者との関係で実際に起きたことwhat had actually happened in relationships with SOを見据えていた」わかるわかる。ただしこの頃思うことだが、「実際に起きたこと」ではなく「実際に体験したこと」だね。というのもすべては患者が何を実際に体験したか(何が実際に起きたか、ではなく)にかかっているのだから。



2015年3月25日水曜日

2015年3月24日火曜日

第14章の書き直し(誰も読まない)

3.解離の病理を説明する非力動的、離散的な精神分析理論

現代的な脳科学の理解に基づき心の理論を考えた場合に浮かび上がってくるのが、解離の機制を中心に据えた精神分析理論である。それを筆者は「非力動的、離散的な分析理論」と表現したい。この「非力動的」という表現は、抑圧の機制に基づいた精神分析理論(力動的な分析理論)との区別を明確にするためである。また離散的(不連続的)、とは心のあり方が本来はまとまりを欠き、ばらばらに生じる傾向にあるという性質を強調している。これらの性質を備えた心の理解から、解離の病理がよりよく説明されると考える。
 フロイトの心の捉え方は、意識内容と無意識内容を、抑圧のバリアーにまたがった一つの力動的な連続体と見なすというものであった。そこでは無意識の内容は意識化することが苦痛であるために抑圧されたものであり、それは症状や機知、言い間違え、夢の顕在内容などを通して、意識野に表れると考える。そしてその前提に立ち自由連想法や夢の報告に解釈を与えることで、無意識内容を明らかにするという治療的な手続きが考えられたのである。
しかし私たちがこれまでに見た脳の機能は、フロイトの見解とは相当異なる無意識の在り方を示している。本章ですでに見たとおり、私たちの脳の主要な働きは情報処理であり、その大部分は無意識的に行われるのであった。また心の在り方は扁桃核や報酬系の働きに大きく規定されるものであるという事情も見た。さらには私たちの意識的な意思決定が、実は無意識に基づく言動の後追いであるという理論も紹介した。
 その結果として人間の言動はかなり予想困難で一見恣意的なものとなる。それは抑圧という機制により無意識レベルでその根拠を与えられているとは限らず、無意識において忽然と生じ、意識野とは本来は隔絶(解離)された独自の振る舞いをする可能性がある。
以上の説明をもう少しわかりやすくするために、あるファンタジーABを想定してみよう。自由連想においてAが自然と意識野に生まれ、それが語られたとする。またそれに続いてBが自然と想起されたが、こちらはその瞬間に不快感が生じたために、患者はそれを心の中で打ち消し、また語らない選択をしたとしよう。よくある自由連想の一コマを切り取ったものにすぎない。
 古典的な精神分析モデルにおいてはこのプロセスをどう考えるだろうか? ファンタジーAが語られ、Bが語られないことについての無意識的な意味を理解しようとするであろう。ABが表現しているのは、どのような無意識内容なのかが問題となる。またABとの無意識レベルでの関連性についても大きな関心を向けることになる。
 しかし現代的な脳科学に従った心のあり方の理解は、それらの試みに従来ほどは意味を見出せないことになる。まずAが何かからの連想により生じたのでもない限り、それが生まれた理由は特定出来ないことが多い。そこにあまりに多くの無意識的な要素が介在するためである。そしてそれを語ることがなぜ報酬刺激となるかについても、多くの場合不明であろう。報酬系が何により刺激されるかについてもあまりに多くの個人差があり、それ自体が偶発的な要素により左右されるからだ。
 またファンタジーBに関しても同様である。なぜそれが打ち消されたり、語られなかったりしたかについてもさまざまな事情が考えられる。Bの想起が扁桃核への刺激となった可能性があるが、それは何らかのトラウマを思い起こさせるような刺激に由来するのかもしれないし、また幼いころから嫌悪すべき何らかの刺激との関連で想起を回避され続けてきたものかもしれない。これについてもその無意識的な動機を知ることは多くの場合に非常に困難となる。

さらにはファンタジーABの関係はどうだろうか?両者には関連性が存在するかもしれないし、しないかもしれない。脳ではさまざまな部位で同時並行的な情報処理が行われる。そしてABとの間に連続性や因果関係が常に存在するとは限らないのである。
 心は常に首尾一貫した法則にしたがっているわけでは決してない。無意識の働きは扁桃核や報酬系の影響を受け、その結果として意識内容と無意識内容は不連続的(「離散的」)で、多くの場合非力動的な関係しかない、すなわち両者に力関係を想定できない場合の方がより現実に近いだろう。無意識に生じる様々な動きの中でたまたま突出したものが、ABのような形で意識に上る。そしてそれがさらにファンタジーや行動を生み出すことで、治療場面は様々な行動化やエナクトメントに満ち溢れることになる。
 心が非力動的、離散的な在り方をする、という筆者の主張は以上のような根拠に基づくが、この意味での非力動的な心の在り方は、フロイトと同時代人のピエール・ジャネの頭にあった。ジャネの理論によれば、心は意識 conscienceと下意識 subconscience (両方ともフランス語)に分かれる。意識は統合と創造に向けられた活動であり、下意識は過去を保存し再現する活動である。通常はこの二つは独立しつつ協調しているが、現在の体験を形作るのはあくまで前者である。そして解離状態については、統合と創造のほうが減弱している状態として説明する。この状態がヒステリーに相当し、そこでは「心理自動症 automatisme psychologique」が発揮されるのである。


15年前に「現実」について書いたもの(12)


最後に-現実はどのように臨床的に役立つのか?

結局最大の問いは、どのようにして現実が役に立つか、ということだ。それは「治癒的」な力を有するのだろうか?精神分析は医学モデルには当てはまらない部分が多いが、やはりその効果や治癒機序について無縁であるわけにはいかないため、この問いが最後に問われなくてはならない。筆者はCRを求めることは、患者が自らと世界についてのより広い考え方を獲得する上で欠かせないものであろうと思う。治療者が患者が十分に把握していない(気が付いていない、否認している、抑圧している、など) 現実について提供することで、CRが生まれる。それを患者が取り入れ、統合を目指す。人の無意識には、新たなる情報を獲得してそれを統合していく力があるのであろう。フロイト(1919)は「精神分析の目標は、この統合synthesis であるが、精神統合psychosynthesis という概念が必要がないのは、人の心は抵抗を取り除くことで自らを統合する力を備えているからだ」と述べている。
 このCRの成立ということと伝統的な分析のモデルに従った概念、例えば抑圧や洞察などとも照合しておきたい。筆者の考えでは、現実の提供は解釈とは異なるが、その解釈のための豊かな源を提供するものと考える。患者と治療者の現実の違いを見出し、それの由来について検討することは、すでにそこに解釈的な要素を含むことになるだろう。しかしそれは古典的な意味での解釈とは異なる。古典的な意味での解釈は、分析家がそれを正確にし、最終的な宣告として伝えるというニュアンスがあった。しかしCRの文脈で生まれる解釈は、基本的に主観的・客体的な性質を持ち、それ自体の正確さを問われることはない。それは最初は治療者により、彼自身の現実から生まれたものとして試みとして提案されるものであり、分析家はいかなる形でもその正確さを知る由はないのである。
 CRを通して統合できるのは、この解釈的な側面だけではない。CRの情緒的、知覚的な側面は、実際の目の前の他者がいるときに、よりよく患者の自己に統合される際に重要な役割を有する。それを通して患者は、自分のすべてについて治療者が同意できるわけではないことを体験するが、それはどの他者との関係についてもいえることなのである。
 この情緒的で知覚的な体験を通して、患者はいかなる思考も永続的であったり「正しく」あったりはしないことを体験する。患者の現実は分析家の現実に常に影響を受けて、その現実が更新される(同様に分析家の現実も患者のそれの影響を常に受けている。) 何事も一定ではなく、すべてが移り変わっていく。このCRの持つ刹那的 transient な性質については、精神分析の文献ではほとんど扱われていないという現状がある(北山、1998)

2015年3月23日月曜日

15年前に「現実」について書いたもの(11)

エナクトメントと現実の表現
エナクトメントの概念についてはさまざまな理解のされ方があるが、私自身は現実の提供される非常によい機会だと考える。Jacobs (1986) らにより導入されたこの概念は、しばしば精神分析的な議論において語られるようになってきている。Jacobsはこれを、計画や予想をしていなかった「思考やファンタジーが行動に形を変えたもの(Jacobs, 1993)」としているが、それこそが恰好の現実の提供を意味するからである。Friedmanもいうように、エナクトメントという概念は必要がないかもしれない。というのもかかわりはことごとくエナクトメントというニュアンスがあるからだ。ただし私はもう少し狭義のエナクトメント、は臨床的に役に立つと考える。それは当人にとって予想していなかった、思いがけない、あるいはうっかりした行動や感情表現である。この意味でのエナクトメントは「よい現実」となる候補としての意味がある。なぜならそれは明示的なものの背後にある無意識的な、あるいは気が付いていないプロセスを示唆しているからである。エナクトメントの無意識的な意味はその全体が明らかにされることはないであろうが、何らかの理由にせよそこで生じた情緒的なインパクトがさらなる分析的な探索を招くという意味では、「よい現実」の有力な候補なのである。

エナクトメントが生じたということが後にわかった際に、それが起きるべきだったか否かという議論はさほど有用ではなく、むしろそれから何を学ぶことがあったかについての語らいの方が生産的である。しかしだからと言って人はエナクトメントが起きたことを後悔することに意味がない、というわけではない。むしろあるエナクトメントに対する後悔、恥の感情などは優れて現実として算入されるべきなのである。臨床例では、シンディ―の電話の話を聞いたときは、私は不意を突かれ、彼女に振り返られた時は動揺した。私が失望の色を表現したのはエナクトメントであり、しかし意味のある現実だった。それが彼女の側の失望へと連鎖し、私がその彼女の心の変化を察知して話題にした。それはいずれも重要な現実だったのである。

2015年3月22日日曜日

第10章の後半、書き直した (誰も読まない)

・・・もちろん放っておいていいのか、忘れていいのか、という懸念を起こすような人格部分も存在する。おそらくDIDの当事者や、もちろん臨床家も一番恐れている「黒幕人格」である。「黒幕人格」とは私の造語であるが、DIDの治療の際にしばしば問題となる、怒りや攻撃性を伴った人格部分である。本書では彼らに敬意を払う意味で、「黒幕人格」とするが、「黒幕さん」という呼び方もお許しいただきたい。
黒幕さんは眠っていても、その存在感から周囲に畏れられる傾向にある。彼らが出てくると大変なことが起きる。人を傷つけ、自分も傷つくことも多い。「ずいぶん前に一度出てきたらしく、この腕の深い傷はその時のものだ」、というよう話も患者から聞く。筆者自身もDIDの方々とのメールによる連絡の際、稀にではあるが畏れ多いメッセージ(たいていは短文で怖い口調である)をいただいたりする。
 さて黒幕人格部分は、おそらくトラウマの最深層と関係している可能性がある。ある意味ではそのDIDの方の持つ病理の核心部分と言ってもいい。しかし黒幕さんを直接扱うことのメリットは不明である。というより事実上扱えない場合が少なくない。
 かつて自著でも触れたことがあるが、米国にいた時、患者の中に男性の元プロレスラーのDIDの方Mさん(40歳代)がいた。雲を突くような大男だが幼少時に深刻な性的虐待を体験している。Mさんは二度ほど黒幕人格部分が出現したという。一度は車の運転をしていて、ふとした事故から助手席にいた自分の妻に危害が及びかけた時であったという。その際相手側の運転手を運転席から引きずり出して半殺しにしたというが、もちろんMさん自身は覚えていない。もう一度は、プロレスの試合中に相手がかなり悪質な反則行為をした際であった。その時も相手を半殺しにしたというが、その時の記憶もない。しかし実際のMさんは、治療室で対面すると、これほど繊細でやさしい男が居るのか、と思うほどの男性であった。私とMさんはとてもうまく行っていたが、それでも一対一の診察の時に、深刻な話は出来ないな、とふと不安になったことを覚えている。
 Mさんの黒幕さんの場合、もちろん二度と出てこないことを祈る。彼にとっても周囲にとってもその方が平和だ。それに黒幕さんが賦活されるのは、余程彼にとって深刻で外傷的な事件が起きた場合に限るらしい。そうだとしたら、それが起きない方がいいに決まっているのだ。
 私は黒幕人格の事を考える際Mさんの事をよく思い出す。彼の場合黒幕人格を扱えないのは、彼が大男で、暴れ出したら周囲を巻き込むことが必至だから、技術的にそれを扱うのは無理だからである。それでは体格的に彼ほどではなく、より安全に扱える人の場合は、入院などの安全な環境で黒幕さんを扱うべきか? おそらく否であろう。ただしその黒幕さんがしばしばその人の生活に姿を現して、その人の生活に支障をきたしていないならば、である。
解離性障害の治療における「寝た子は起こさない」
黒幕人格に対する対処の仕方は、私が解離性障害の治療の際に頻繁に用いる「寝た子は起こすな」という表現と関連している。寝た子、などというとDIDの人格部分の方々に失礼かもしれないが、このような言い方がわかりやすい場合が多い。解離性障害の場合、人格部分がその人の通常の生活にしばしば顔を出し、日常生活上の支障を来たすようでなければ、おそらく触れないでおくべきだという原則だ。これはトラウマの記憶ということにさかのぼって考えると納得がいくことだろう。トラウマの記憶がもう全くよみがえってくることはないにもかかわらず、「しかしあれは自分にとって非常に重大な出来事だったから」とそれを無理に思い起こそうとするだろうか?
 ただしここでトラウマ記憶の想起は、それが日常生活に顔を出さないのであれば必要でない、と断言できない理論的な根拠もまたある。実はここには微妙な問題があるのだ。精神分析家なら次のように考えるかもしれない。
「いや、その記憶は意識的に思い出されなくても、本人はそれを抑圧しているだけかもしれません。無意識は常にその記憶の存在を知っているわけであり、その何らかの影響はその人の日常生活に及んでいるはずです。その人が本当の意味で過去のトラウマから自由になるためには、それを想起する必要があるのです。」
 このロジックに根拠がないと言い切れる臨床家はおそらく誰もいないはずである。だから精神分析と解離理論の対立はある意味では不可避的なのだろう。
トラウマに直面すること

以上トラウマを忘れることについて書いた内容は、必然的にそれと逆の方向、すなわちトラウマに直面することについての議論も含んでいることに気付かれよう。トラウマについての記憶がフラッシュバックの形で頻繁によみがえる場合、トラウマを思い起こさせるような場所や事柄をいつの間にか避けている場合、そしてそれが日常生活に支障をきたしている場合はどうだろうか?この回避行動は実際に行動レベルで知らずに起きるということがある。例えば自分がトラウマを受けたと感じる人に出会う可能性のある場所に向かおうとしても、足が動かなくなってしまう、気分が悪くなる、などの形をとるであろう。その場合には、その記憶はおそらく扱う必要性が高くなる。
 ただし回避行動が顕著だからといってトラウマを必ず扱うべきかといえば、必ずしもそうではないだろう。例えばある会社でパワハラに遭った際に、その会社にはもう行けなくなったとする。その会社に足を踏み入れるたびにフラッシュバックが起きてしまうからだ。その場合、その会社にこれからも勤め続けなければならないような境遇にあるとしたら、その会社で起きたトラウマを扱わなくてはいけなくなるかもしれない。しかし転職が可能であり、別の会社に職が得られれば、とりあえず問題は解決したことになる
 この理屈は、恐怖症への対処ということとも絡んでくる。例えば高所恐怖の人が、高いビルなどない田舎暮らしが可能ならば、それに対処する必要はないだろう。「治療」は不要なのだ。しかし都会生活を続けるとしたら、ビルの高層にある場所に行くたびに怖い思いをしなくてはならなくなり、それを直すための治療がそれだけ必要になる。このように治療の必要性は相対的なものであり、解離性障害の場合も同じように考えればいい。黒幕さんが姿を現さない限りはそれを扱う必要はないだろう。しかしそれが日常生活に支障をきたすなら、扱うしかない。
 ただしトラウマ記憶をどう具体的に扱うかについては非常に難しい問題をはらんでいる。過去の外傷体験を想起することが、再外傷体験につながることもある。すなわちそれによりまた生々しくその記憶が再現するようになる可能性がある。「暴露療法」の適応となる患者の数も限られているのが現状である。
 私の臨床経験からは、過去のトラウマ記憶について聞き出すことで、その日から再びフラッシュバックが起きるということは実は一度も経験していないが、ヒロイズムにかられた治療の犠牲となった患者の話も少なからず聞く。十分に安全な環境を整えた上でトラウマ記憶について取り扱うことがベストであるが、そのために必要な時間と治療費、人材は圧倒的に不足しているというのが現状である。

2015年3月21日土曜日

第9章の最初、慎重に書き直した(誰も読まない)


9.どのように鑑別するか?

最初に

解離性障害に誤診はつきものと言っていい。本章では現代的な見地から解離性障害の診断で問題になるほかの疾患との鑑別の問題について論じたい。
最初に解離性障害の診断についてひとこと述べたいことがある。それは解離性障害の診断は「緩め」につけた方が無難であるということだ。解離性障害にはDIDを筆頭にいくつかの種類があるが、十分な根拠に乏しい場合には「解離性障害」の診断にとどめておくべきであろう。たとえば内部にいくつかの人格部分の存在がうかがわれる際にも、それらの明確なプロフィール(性別、年齢、記憶、性格傾向)が確認できない段階では、特定不能の解離性障害 unspeficied dissociative disorder(以下、UDD)としておくことがよいかもしれない。ただしDSM-5UDDという診断は、従来の「ほかに分類できない解離性障害」、いわゆる従来のDDNOSとは少しニュアンスが違っていることについては、前章で解説したとおりである。つまりこれまでのように気安くは「分類不能」とつけられないという事情があるのである。
この診断を「緩め」につけることに関しては、実はほかの臨床家がその臨床診断をどう考えるか、微妙な問題も絡んでいる。「序章」でも述べたとおり、解離性障害の中でも特にDIDは、誤解の多い診断である。その診断をつける十分な根拠が今一つ乏しい場合に、それでもDIDの診断をつけることで、「あの臨床家は多重人格に興味を持ち、簡単にその診断をつけたがる」という目で見られる危険を高めるであろう。同様に解離性の遁走のエピソードがあり、それが主たる訴えとなっている場合、その背後にDIDが存在する可能性を考慮しつつも、初診段階では解離性遁走の診断に留めるべきであろう。
無論診断は純粋に臨床所見に基づくべきで、それ以外の余計な懸念は不要と考える臨床家は別である。また臨床家はその診断における注意深さとは別に、解離症状のあらゆる兆候に注意を払うことを忘れてはならない。たとえば初診でボーっとした要領を得ない話し方をする患者さんに、来談を希望した人とは別の人格部分が出現している可能性を考慮することは重要であり、その際に予備的な診断としてのDIDを思い浮かべておくことは経験ある治療者にはむしろ期待されるべきであろう。解離の診断は徐々に治療関係が深まり、聴取される生活歴や患者が表現できる人格状態が広がるにつれてより正確なものとなっていく傾向にあることを忘れてはならない。
解離性障害の併存症や鑑別診断として問題になる傾向にあるのは以下の精神科疾患である。統合失調症、BPD(境界性パーソナリティ障害)、躁うつ病、うつ病、てんかん、虚偽性障害、詐病(これは疾患とは言えないが)、など。これらの診断は必ずしも初診面接で下されなくても、面接者は常に念頭に置いたうえで後の治療に臨むべきである。    
ここでは松本2009にならい、解離性障害の鑑別に重要なものとして、まず統合失調症とBPDについて考えたい。さらには特に注意が必要とされる側頭葉てんかんその他についても触れる。
精神病との鑑別
解離性障害に精神病症状が伴うか、というのは一言では答えられない問題である。一人でいる時に聞こえてくる声を例にとろう。周囲に誰もいないが、頭にかなりはっきりと「声を聞いた」という実感が残る。これは「幻聴」だろうか?もしそうなら、それは精神病症状といえるのだろうか?そしてDIDの方がしばしば体験するその種の体験は、その人が精神病的 psychotic であるということを示しているのだろうか?これらの問題は常に多くの臨床家にとって(もちろん一般の方々にとってはなおさら)曖昧なままのはずである。そもそも「精神病的」という言葉自体の意味が不確かに感じられる人も多いのではないだろうか?おそらくこれらの問題への回答は、識者により大きく異なる。「DIDの体験も統合失調症の体験も共に現象としては同じ『幻聴』ではないか」という主張も十分ありうるのだ。
 ここでひとつ留意すべきことがある。それはいわゆる精神病と解離性障害とは本質的に異質で、別々のものであるということだ。そして「精神病」、「精神病的」、「幻覚」などの用語は、この両者の混同を招くような形では用いるべきではないのである。
 1911年にブロイラーが schizophrenia (一昔前の「精神分裂病」、現在の「統合失調症」)の概念を生み出して以来、それと解離性障害との異同が様々に論じられてきているが、そのこと自体が両者を区別して論じるべき必要があることを示している。端的に言えば、精神病の代表ともいえる統合失調症は、一般的に時と共に人格の崩壊に向かい、予後も決してよくない。他方は解離性障害は社会適応の余地を十分に残し、また年を重ねるにつれて症状が軽減する傾向にある。両者は全く別物であるというのは、この予後の観点からとくに言えることなのだ。だから一人でいるときに頭の中に響く声は、それをたとえ「幻聴」と言い表しても、あくまでも「精神病性の」か又は「解離性の」と形容することで、より正確に記載したといえるのである。しかしその一方では幻聴にしても関係念慮にしても、それが精神病性のものか、解離性のものかは実は区別がつけがたいことが少なくないのも事実なのだ。
 ところで幻聴や関係念慮に関して、「精神病様の症状 psychotic-like symptoms」という表現が時折使われる。それは「それ自体では精神病性のそれか解離性のそれかを即座に判断できない(あるいはまだその鑑別を行っていない)」という意味で用いられる。 その上で私が薦めるのは、この「精神病様」の症状に出会った際に、それが精神病性のものか、解離性のものかについて予断を持たずに慎重に検討するということだ。いくらこれまでに解離性障害については経験不足でも、またいかに解離性障害を見出し、新たな診断として下すことに情熱を注いでいたとしても、だからこそ両者の鑑別には慎重にならなくてはならない。そしてその慎重な鑑別を行ってもなお区別がつかないものに対して、診断を保留することもまた臨床家としては非常に大切なことである。
 以上を前提としたうえで言えば、精神病の症状としての幻聴や幻視か関係念慮には確かに一定の手掛かりがある。精神病性の場合には、周囲の世界が一つになり、自分を付け狙い、またメッセージを送ってくるという被害的な世界観を背景としている。幻聴の主は常に匿名的で姿を現さず、その存在は恐怖や不安を与え、当人の存在を根源から脅かす。逆に言えばそのような世界体験を継続的な形で背景としない場合には精神病性の症状である可能性はそれだけ低くなる。さらには記憶の欠損ないしは健忘が伴えば、症状は解離性のそれである可能性も高くなる。

あるDIDの確定診断のある患者さん(40歳代既婚、女性)が、その日の面接を終え、筆者と一緒に廊下を歩いている最中に、別の診察室から聞こえてきた医師と患者の会話の声を聞いて訴えた。「今あの部屋で、私のことを噂しているように聞こえました。」筆者が「私も声は聞こえましたが、特にあなたのことは話していないと思いますよ。」と言うと彼女は少し安心した表情を見せた。彼女は医療関係に従事し、社会適応も保たれている。またほかの場面で関係念慮を訴えることはほとんど聞かない。

このような例も考えると、従来の「幻聴や被害念慮イコール精神病や統合失調症」という常識は改めなくてはならないのはもちろんである。 幻聴、幻視、関係念慮などの症状が聴取された場合、それは統合失調症の可能性とともに解離性障害の可能性を同時に生むということを理解しなければならない。そしてここでも決め手は、その症状の持続期間や社会適応に与える度合いなのである。その意味で精神病用症状を体験した時の両者の鑑別は急務であり、重要である。




2015年3月20日金曜日

15年前に「現実」について書いたもの(10)

しかしだからといってすべての現実を患者にいきなり伝えていいというわけではない。過剰な現実はトラウマとなりうるからだ。ただしどの現実が患者にとって発達促進的となり、何がトラウマ的になるかについては、正確には知りようがないところがある。ことごとく状況依存的だからだ。
 たとえばフロイトが癌であるということを知った時、その事実は、その事実を知らされなかった場合のほうがより外傷的であったという(Kohut, 1977.p65)。しかし無論フロイト以外の誰かにとっては、癌の宣告は外傷的で自殺を引き起こす可能性があるため、その現実をいかに伝えるかには十分な配慮が必要となろう。 もちろん現実はつらいばかりではなく、充足的な、満足を与えてくれるものでもありうる。治療者が温かく共感的な態度を示したとしよう。これはフロイトの「禁欲原則」には反しているかもしれない。しかしもし患者が「他者はみな自分に対して敵対的で冷たい」という確信を抱いている場合には、治療者のそのような温かい態度は、それとは異なるような新たな現実を提供することになるだろう。Alexander 1956)の、非常に批判を浴びている概念である「修正感情体験」も、ここで新たな意味を持ち始めるといえよう。ただしそれは操作的な意味で用いられた場合に、より臨床的な力をそがれるというのが私の理解である。

臨床例では、シンディが私を最初は懲罰的で、のちにはそれよりも優しい他者として体験したことは、その全体が意味のある現実として役に立ったことを望む。

2015年3月19日木曜日

15年前に「現実」について書いたもの(9)

禁欲規則との関係はどうであろう?患者に禁欲を迫るかどうかという問題は決して全か無かという問題ではないものの、多くの臨床家が現実の日常臨床において直面するジレンマであると見てよい。古典的な精神分析家の関心はもっぱら、患者を過剰に満足させてはいないであろうか、という点であろう。またより支持的なアプローチを選ぶ傾向にあったり、いわゆる「コフート的」なアプローチに親和性を持つ療法家は、むしろそれとは逆の方針を選ぶ傾向にあるかもしれない。ともかく臨床家の関心はもっぱら、フロイトが述べたような「禁欲に従った」治療方針か否かということにある。
 しかしCRの問題は、この患者を満足させるかフラストレーションを与えるかという問題に頭を悩ますことを要請しない。これはむしろその問題をやり過ごしてくれる。現実は患者に満足体験を与えもするし、失望も与える。それはまさに現実の性質そのものなのだ。分析家の役割は、CRが患者を満足させるか失望させるかではなく、いかに私が「よい現実 good reality」と呼ぶところのものを提供するかという問題である。
 では「よい現実」とは何か。それはそれを患者に提供することが、外傷的とはなることなく患者の自己理解を促進し、それまで彼が見ようとしなかったことへの洞察を深めるようなものだ。その意味では分析家の提供する解釈もその「よい現実」の一つとなりうる。
 伝統的な分析過程はストレスと苦痛に満ちたものだった。それは子供のような願望を捨て去ることを強いるものだったからである。フロイトの禁欲規則はまさにそのようなものだった。
 たとえばフロイトは「精神分析療法の一連の進歩」(1919, p.164)で次のような指摘を行っている。「心の温かさや人を助けたい気持ちのために、他人から望みうる限りのことを患者さんに与える分析家は、神経症のための非分析的な施設が侵している過ちを犯す。彼らの目標の一つは、すべてをできるだけ心地よくすることで、人が人生の試練から退避することである。そうすることで患者さんに人生に直面する力や、人生の上での実際の課題をこなす能力を与えるための努力を奪いかねない。精神分析的な治療においては、そのような甘やかしspoiling は回避しなくてはならない。(p.164)」という。ここでフロイトの言う「人生の試練」は、私が「よい現実」と事実上同義であると言いたい。
Freud1919) しかしこの現実の試練は、「よい現実」が提供する主要なもののひとつなのである。おそらく患者にとって一番つらい現実とは、治療者が主観を持った存在であるということだろう。治療者は患者といて陽性の感情も陰性の感情も体験する可能性がある。時にはそれらの感情の一部は「よい現実」として患者に伝えられることの意味があるかもしれない。なぜならそれは逆転移感情とは別の由来を持ち、患者が人生で出会う人々も同じ感情を持ちつつ、患者に伝えることが出来ないものであったかもしれないからだ。
 この文脈で重要なのは、Winnicott の客観的な嫌悪 objective hate であろう。彼は患者が嫌いでなくなったときに「実はあなたが嫌いでした」といったという。そして書いている。「これは彼にとって重要な日であり、現実への適応の意味を持っていた。(Winnicott, 1947