2015年2月21日土曜日

恩師論 (推敲)(6)


恩師の教えは洗脳やパワハラと表裏一体である?
恩師論は、ここから一気に陰りを見せる、というか陰の部分の議論に移る。要するに最初から書いている、「恩師」と呼ばれる人だっていろいろ問題はあるよね、というテーマだが、この問題は私の頭の中では容易に「自己愛問題」につながる。その理由は以下の通りだ。
人が他人に及ぼす影響ということを考えた時、そこにはある一般的な原則があるようだ。
「人に影響力を及ぼす人は、同時に自己愛的で押しつけがましいことが多い。
もちろん一般論である。「ことが多い」に下線も引いてあるのは、一般化しないためだ。そう断ったうえで言えば、人の他人への影響力は、その人がどれだけ声が大きく、どれだけ自分の考えに確信を持ち、どれだけ他人にその考えを押し付けるかに多大に影響している。影響を与える人間は一般的に言えば、自己愛的な人間ということになる。この例外などほとんどであったことがない気がする。
もちろん素晴らしい理論を持ち、著作をあらわし、人間性にも優れているにもかかわらず、謙虚でつつましく、自己宣伝の全くない、そして自身のない人もいるだろう。自己愛的であることは、影響力を及ぼすための必要条件ではない。ただしその控えめな人がもう少し自信を持ち、もう少し自己表現の機会を持ったならば、さらに大きな影響力を及ぼす可能性がある。その意味で人が影響力を持つことと自己愛的であることにはかなり密接な関係があるのだ。そしてそれはとりもなおさず、弟子との間にパワハラが生じやすい可能性をも表している。ある人が恩師として慕われる一方では、一部の人たちにとってはパワハラを与える存在でもある、という可能性は、十分あるのだ。

<追加項目>
自己愛的であることが、脆弱であるという文脈でも問題になることを付け加えておこう。いくら優れた人でも自信がなかったりする。人からの批判に弱かったり、他人から追い落とされることにおびえていたりする。手塚治虫のことを考えよう。あの天才が、後を追ってくる後輩たちに異常にライバル心を燃やし、また恐れを抱いていたというではないか。

このことを出会いの文脈で考えよう。私は恩師とは往々にして理想化できる対象とはなりにくく、また全面的な理想化対象となる必要もない、という趣旨のことを述べた。理想化すべき対象を追い求めていると、人生が終わってしまう。そうではなく、自分にとって多くのものを与えてくれた人との「出会いのモーメント」があれば、それでいいという立場だ。その思い出を大切にすればいい。もっと言えば、ある出会いから多くのものを学び吸収するような自分の側の能力が大切だということになる。これは極端に言えばそこに相手からのまごころやこちらを育てたいという親心がなかったとしても、あるいは押しつけがましい自己愛的な人間でも、不足している分をこちらが補うような形で成長の糧とすることができるだろうということだ。少し書き過ぎだろうか?もう少し言葉を継げば、おそらくここで重要な意味を持つのが、その人の持っているレジリエンスなのだ。レジリエンスが高いと、ある体験を学びの機会として利用することができるのだ。
ところでこのことはまたレジリエンスが低かったり、運に恵まれなかったりする人の場合に、自己愛的な人間との間でパワハラやモラハラを受けてしまう可能性をも表している。もし自分が指導を受けるような相手との間に、ある程度の良い出会いがあり、また頻繁にパワハラめいたやり取りがあったらどうなるのだろうか? そしてそれが自分にとっての上司であったり、学問上の師であったりしたらどうだろうか? その人との縁が切れないがために、少しの恩恵と絶大なトラウマを体験することになりはしないか? 臨床を行っていると、そのようなケースにもまた出会うことになる。私は「出会い」などと悠長なことを書いたが、「その人との出会いを大事にし、理想化することをあきらめましょう」という教訓を生かせない状況にある人たちもたくさんいるだろう。それはそのような先輩、上司、教師との関係から逃れることができず、そのような人との運命共同体にある人たちもたくさんいるということだ。かくして恩師の教えはパワハラと表裏一体となりうる、というこの項目の表題につながる。
ここで小出監督とキューちゃんの話を載せよう。週刊文春に「阿川佐和子のこの人に会いたい」という企画があるが、その342回目(2000年)の記事をとってある。わりと理想的な師弟関係。「高橋は(タイムが)遅かったから、最初に『お前は今に世界一になるよ』と言ったら『えーっ!?』なんて意外な顔していた。ところがそれを毎日言いつけてみな。『ほんとかな』って首をかしげるようになるんですよ。そこでもっと『お前は強くなる!』っていうとね、『よし頑張ってみよう』という気持ちが目を出してくる。その芽を摘んじゃいけないんですよ。子供だって同じだよ。」と書いてあり、私が印をつけてある。
 ところがそれと一緒に保存してあるのが、「噂の真相」の記事。(懐かしいな。噂の真相。時々買っていた。)「国民栄誉賞をもらったシドニーの英雄高橋尚子と小出義雄監督の●●関係」というもの。(200012月だ。14年前の記事をよく取ってあるものだ。実はPDF化してあった。)これは師弟関係にいろいろ考えさせられた。という過去の題名をこうやって打っていると、この先に行くのが嫌になるな。醜聞に属する話だ。(●●は私が施した伏字である。)しかしこの恩師論の流れから行くと出てくるテーマ、すなわち師弟関係トバウンダリー(境界)の問題、ないしはパワハラの問題である。ということで記事を再度読み始める。ウーン・・・・・・・・・・・・・。やはりこれは問題だ。というより詳しくは書けないや。いろいろな人が傷つくだろう。ということで一般論。

どうやらアスリートとコーチや監督の関係には、「一心同体」ということがよくあるらしい。そうじゃないとコーチが務まらないというところまであり、だからコーチは一人しかできないという常識のようなものもあるそうだ。いっそに暮らし、一緒に風呂に入り、一緒に生活をする。問題のK監督はと言えば、そのような形で選手とズブズブの関係にあり、しかも過去には明白なセクハラもあったという。