2015年2月18日水曜日

恩師論(推敲) (3)

ところで書いているうちに、恩師とは何ぞや、ということが疑問に思えてきた。恩師はどうして「出会いのモーメント」を提供してくれるのだろうか?けっこう自分の都合ということもあるんじゃないか。こんなエピソードがある。「麗しい恩師像」と上の野球監督の中間のような、より現実的な恩師像を与えてくれる。
背中押す「できるよ」の魔法岡村孝子さんシンガー・ソングライター(まーつーわ、いつまでもまーつーわ♪
読売新聞 20130701 0900
 人見知りで、いつも父の背中に隠れているような子どもでした。そんな私に、人前に出るきっかけを与えてくれたのが、愛知県岡崎市立矢作西小学校6年の時の担任だった筒井博善先生(故人)。当時50歳代後半で、一人ひとりの児童によく目配りしてくださる先生でした。
 新学年が始まって間もない音楽の授業。ピアノが苦手な先生は、「代わりに弾いてくれないか」と私を指名しました。「できません」と何度も断ったのに、先生は「絶対にできるから、やってみなさい」と励ましてくれました。両親から音楽の先生を目指していることを聞き、引っ込み思案な私に活躍の場を与えてくれたのでしょう。
 学芸会でも、準主役のお姫様の役をくださいました。その時も「できるよ」と背中を押してくれました。とても恥ずかしかったけれども、大勢の前で演じる喜びも味わいました。
 先生が体調を崩して2~3週間入院したことがありました。退院して登校した日の朝の光景が、今も忘れられません。職員室に駆けつけ、窓の前にひしめき合いながらクラス全員で先生の姿を探しました。振り向いた先生が笑いかけてくれた時、涙が出るほどうれしかったのを覚えています。
 それまでは「どうせダメだから」とあきらめがちだったのに、先生に「できるよ」と言われると、「ひょっとしてできるかも」と自信が湧いてくる。私にとって「魔法の言葉」でした。先生に出会わなければ、人前で自分の音楽を聴いてもらうシンガー・ソングライターを目指すこともなかったかもしれません。(聞き手・保井)
 
私はこれを拾ったときは、いい話だと思っていたのである。しかしこれも先生の無茶ブリ、ということはないだろうか、という気がしてきたのだ。もちろん筒井先生はいい先生だったのだろう。でも同時に誰かにピアノを引いてほしかった。彼の都合でもあったのである。こう考えるとやはり恩師との出会いは、「出会う側」ファクターがかなり影響している、ということになりはしないか?

こんなことを書いているうちに、先日NHKで錦織とマイケル・チャンの話をしていたので、思わず見入ってしまった。わずか一年で錦織を変えたマイケル・チャン。間違いなく恩師と言って良いだろう。そのチャンは、出会った時に、滔々と皇帝フェデラーへの敬愛の念を語る錦織に、こう言ったという。
「フェデラーを尊敬するなんておかしいよ。本来は戦って破る相手だろう?その相手に惚れ込んでどうするんだい?」(もちろん正確ではないかもしれない。テレビ番組を記録したわけではないからだ)。それからチャンはいろいろな指示を錦織くんに与えたという。反復練習をさせる、フォームを直す、もっとコートの前の方で戦え、など。チャンのコーチングでは、たくさんの「~しろ」が錦織くんに伝えられた。彼はおそらく「仕方なしに」「半信半疑で」従ったのだろう。(何しろ彼は、反復練習は好きではなかった、というのだから。)そして同時に「自分を信じろ」と何度も繰り返して言ったのだ。
 自分を信じろ、という励ましについてはわかりやすい。勇気付け、岡村孝子さんの例のような背中押し。多くの恩師がこれをやるのだ。しかしたとえば「ジムでのトレーニングを、これまでの一時間から二時間増やせ」というのはなんだろう。どうして彼はチャンに言われるまで、それをしなかったのだろう?錦織くんは、実はトレーニングや反復練習は好きではなかったという。おそらくそれまでに彼にそれを勧めた人はいたのであろうが、チャンほど強いメッセージで彼にそれを促したことはなかったのだろう。それでは錦織くんはその躍進を一方的にチャンに負っているのだろうか?でもそもそもチャンに近づいてコーチを依頼したのは錦織くんのほうなのだ。ここがフクザツで面白いところだ。彼は積極的に受身的に変わるための行動を起こしたのだ????
観客席で見つめるチャンは、錦織くんのポイントの一つ一つにリアクションを起こし、いわば彼と同一化して苦楽を共にする。錦織くんの成功は彼の成功、サービスの失敗は彼の落胆に直結している。いちいちガッツポーズを作ったり、頭を抱えたり。恩師が弟子に対して「そのためを思い」耳に痛いことをも言う。これは恩師として慕われる人の行動のひとつの大きな特徴だろうが、ではなぜそれが生じるのか。それは恩師の側の弟子への惚れ込みやリスペクトがある。一緒に一喜一憂する「に値する」弟子でなくてはならない。ということは、恩師と弟子の関係は親子関係のようなもの、お互いにコフートの言う自己対象としての意味を持つのだろう。

このように書いていると、錦織―チャンのカップルは、何か絵に描いたような弟子―恩師関係に見えてくる。私が「そんなのないよね」と言っていたような。そう、こういう幸運な組み合わせもあるのだろう。ただしすべての点で二人の息があっていたかどうかは、おそらく傍目からはわからない。世界ランキング二位まで行ったチャンにとって錦織くんが「現役時代の自分より格下」として認識されているとしたら。錦織くんの練習への情熱の薄さにイラっとすることがあったら?あるいは逆に彼の才能をチャンがねたましく思う瞬間があったなら?錦織くんにしてもチャンのことを煩わしく思い、常に一緒には痛くない存在と感じることもおそらくあるであろう。そう、絵に描いたような恩師は、やはり絵に描いたものに過ぎないのではないか、という思いも残る。やはりむしろ親子のようなものかもしれない。その関係は大概は(少なくとも子の側からは)「ちょっとあっちに行ってくれー」と敬遠するような、一緒にいると気を抜けないような存在なのである。