2015年2月16日月曜日

恩師論(推敲)(1)


錦織君がメンフィスで勝ったという。それで力を貰うというのはいかにも都合のいい話だとは思う。テネシー州メンフィス。懐かしい場所である。はるか20年以上前、1989年の5月、メンフィス大学の精神科レジデントに応募し、面接を受けに行ったのである。夕食を食べにマックに入った時、従業員がすべてマイノリティであったことに驚いたのを覚えている。


前置き
私は素晴らしい恩師に出会えて自分を導いてもらった、というたぐいの話を聞くのが嫌だ。できれば聞きたくない。そう思う理由は二つある。
一つは、私がおそらくいい恩師に出会えていなくて、そのような話をする人がうらやましくてしょうがないのだ。テレビで松井秀喜氏が、長嶋茂雄氏という偉大な恩師から、手取り足取りバッティングをコーチしてもらったという話を聞いた。やはりどこか羨ましいし、悔しい。だから好きになれない。まあ、これはふざけた理由だ。だから私は●●さんが××先生の話をすると腹が立つのである。繰り返すが、それはうらやましいからだ。
二つ目はもう少し真面目な理由である。恩師の話には、たえず理想化された人物像がつきまとう。業績を挙げたり一家をなした人の陰には必ず恩師との出会いがある、というイメージを私たちは持ちやすい。そしてその恩師は人間的にも優れ、すぐれた教養や技術をもち、後世の育成に力を尽くす愛他的な人物というニュアンスが伴う。しかし世の中にそんなに素晴らしい人など、そうそういるものではない。
 ある非常にいい出会いがあり、その人に心酔したくなっても、その人は別の側面を持ち、全面的な理想化には絶えないのが普通だ。というよりは人の全側面を知ると、その人を理想化することはおそらくできなくなる。だから恩師とは距離を置いて、理想化を続けられることで初めてその人にとって一生の恩師、という感じになるのではないだろうか?恩師はあまり身近にいてはいけないのである。おそらくどんな恩師でも、いつも近くにいるとうざくて仕方なくなるだろう。どこかでラカンについて書いてあったが、ラカンはおそらく身近にいたらとても耐えられないような人であったという。でもあれほど理想化されている人もいないのではないだろうか?

なんだ、推敲なんて言って、全然変わってないじゃないか。