2015年2月22日日曜日

恩師論(推敲) (7、最終)

今日は東京マラソン。石原さんの置き土産。テロが起きずに、本当に良かった。


恩師論の推敲。今回はマイナーチェンジっだけだ。

世代形成性との関係
エリクソンの発達段階の第6段階に出てくる世代形成性generativity は、彼が定式化した人生の発達段階のうち第7段階の「成年期」における「世代形成性VS停滞」に出てくるタームだ。Generativityという英語は、古くは「生殖性」という訳が使われたが、最近では「次世代育成能力」とか「次世代の価値を生み出す行為に積極的にかかわって行くこと」などの表現がなされている。私は故・小此木啓吾先生が用いていた「世代形成性」という訳語が好きだ。そしてその小此木先生も世代形成性をとてもよく発揮なさった方だった。(小此木先生と言っても若い人には通じにくくなっているのだろうか?彼は2003年に亡くなったが、現在の日本の精神分析を育てた大先生である。)
 小此木先生はとにかく若い世代の分析家の卵たちに、海外に出て勉強をすることを勧め、またその話をよく聞いてくれた。私もそうしてもらった一人であった。なんだ、それが言いたかったのか?
 ともかくも世代形成性を身をもって示した小此木先生は、常に若手をかわいがり、育てることを考えてくれていた。(と、少なくとも私の目には映った。)これについてはもちろん色々な人が異論を持つだろう。「小此木先生は若手の知識を吸い取り、結局は自分の引き出しに入れてしまう人だった」という話も少なからず聞いた。ただそれは少し違うと思う。先生は例えばA先生という若手が勉強したテーマについて興味を持って話を聞き、それを人に紹介するときにも、あくまでも「A君がこのような理論を勉強して伝えようとしている」という言い方をしてくれた。A君としては、偉大な小此木先生にそのような紹介のされ方をすることにとても満足するのが普通だ。ただA君はそれから何となく小此木スクールに属することを期待されるのである。小此木先生に頻繁に呼ばれ、時には彼のスーパービジョンを受けることを期待される。つまり小此木先生はA先生を手元に置きたがる。要するにさびしがり屋なところがあった。
 でもここで少し考えてみよう。弟子を育てることに熱心で、しかも弟子をそばに置くことに興味のない恩師なんているだろうか?それはいるかもしれないが、希少価値だろう。
故人について誤解を与えるようなことは書きたくないから、ここからは一般論だ。人が世代形成性を発揮するのは、おそらく人生の後半であろう。だからエリクソンの発達段階でも、最後から二番目の、つまり第7段階目の成年期の課題ということになる。若いころは自分が成長するのに忙しく、後輩のことなどかまっていられないからだ。そして自分自身に蓄積が出来、若手に対してライバル心や羨望にさいなまれることなく、その力をさらに引き出し、その成長を楽しむ事が出来る。もしそれが世代形成性だとすると、その人に余裕があり、自身があるということは必須なことのように思われる。自分に自信のない人間に次世代を形成する力はあまり期待できないであろうし、そのもとに集まる人も少ないということになるだろう。
 
自分が出会いの提供者になっていく
結局世代形成者(私の造語だ!)になることとは、自分が出会いの提供者となることなのである。恩師について語るとき、最終的には自分の中の潜在的な「恩師」について考えなくてはならない。でもこう言うと誤解が生じるな。この潜在的な恩師とは、自分の中に内在化された恩師、という意味ではなく、自分が「恩師となる」ための素地や萌芽という意味である。
私は基本的には恩師的な要素と父親的な要素を重ねる傾向にあるので、世代形成性は私たちが父親になる年代には始まっている、と考えている。しかし実は次の世代を育てるという姿勢や発想は、例えば長子であること、面倒を見るべき弟や妹を持つことを通して、実は幼少時から存在していておかしくない。それを意図的に、継続的に行うという機会がより多く人生の後半に訪れるということだけである。確かに学生時代に出会った先輩たちは同じ中、高生でも同時に父親的だった。でも同時にやんちゃで勝手で子供っぽかった。K先輩(上述)も例外ではなかった。
 仏教の言葉で、往相と還相(げんそう)というのがあるらしい。私もよく知らないが、ネットで調べると、往相とは「仏になろうと精進していく道」だという。そして修業を積んで仏になったら、今度は、還相となり、 まだ仏になれいない人に手をさしのべて、一緒に仏になりましょうと働きかけるという。これまでの文脈でいえば、恩師的な要素を持つ人も、人生の前半では自分のことにより専念していい。ところが自分の地位を築き、仏になった後は(←意味の通じない文章!)むしろ後輩のことを考え、そのために力を費やすということだ。つまり恩師としての活動を行い、またそれに満足を覚えなくてはならない。
しかし、還相にある人間は仏である必要はない。出会いを提供できればいい。理想化されるべき対象である必要はないのだ。愛他性の塊である必要はない。時々後輩を導けばよい。ことさらよき師であろうと思うと、人間は必ず自分の自己愛に負けて、あるいは自分の寂しさに負けて相手を取り込み、支配しようとする。そうではなく、良き出会いを提供できた先輩は、もうそれで満足してさっさと相手に別れを告げなくてはならない(あるいはそのような覚悟を持たなくてはならない)のである。
結論
結局これまで書いていることと変わりないことだ。このテーマは与えられたものなので、私から付け加えるべき新しい視点もない。実在する恩師をことさら求めないこと。「恩師との出会いのモーメント」を求めよ。そしてそこから「バーチャルな恩師像」を作り上げるのはもちろんいい。でもそれを現実の人間に期待してはならない。ほとんど必ずほころびを発見するであろうからだ。例えば私にとってA先生はその種の出会いを作ってくれた恩師である。でもA先生は恩師そのものではない。なぜならA先生にとっては「愛弟子」の一人としては決して数えられないことを知っている。彼にとっては私は「その他大勢」の一人でしかない。

もちろんその「恩師」が身近な存在になり、実際は「頼れる先達」くらいの関係を結べるようになれば、それはそれで大変結構なことかもしれない。実際にはそのようなケースもあるのだろう。しかし「恩師」から「先輩」ないしは対等の関係への変化には多くの場合戸惑いが生じたりする。それまで理想化の対象だった人間と日常的なレベルで出会うことは、実はあまりうれしいことではなかったりする。
 精神分析では、トレーニングの時代の自分の分析家がそのうちバイザーになり、分析協会におけるインストラクターとして先輩後輩関係や同僚になったりするということは時々起きる。もちろん理想的なことではないかもしれないが、通常は分析協会自体のサイズが限られているためにいたし方のないことである。その場合も、特に非分析者の側が、関係性の変化に大きな戸惑いを体験することがある。カウチの後ろで姿が見えず、理想化の対象となっていた人と、学会に向かう飛行機で隣の席になると、やりにくいだろう。