2015年1月18日日曜日

ユルイ話(7)


私たちの心も解離的である
確かに私たちにとってDIDの患者さんが報告する体験は驚くべきものである。自分の中に他人が存在するという現象は、通常では考えられないことだ。しかしそうならば、自分が自分であるということは途方もなく不思議なことなのだ。自分はどうして目の前のAさんではなくて私なのか?あるいは子供時代の思い出を一つ取り出してみよう。あたかも自分がその当時に戻ったようにそれを心に再現するというのはどういうことだろうか?

昔米国にいた時にある患者さん(40代女性)からメールを受け取った。

ひとり娘のテスがハイスクールのプロム(卒業の舞踏会)の準備だというので一緒に買い物に出ました。娘はクラスメートのボブに誘われてうきうきしているんです。ところがドレスを選んでいる途中に、自分が急に不機嫌になってしまったのに気が付きました。どうやらハイスクール時代の私が、心のどこかで激しく泣き叫んでいるようなのです。その時の私はプロムに男の子から誰にも誘われず、さびしく家にいました。ジャニス・イアンの「17歳のころ」のレコードを何度も聞きながら。私がそんな思いをしたのに、テスはいい気になってプロムに参加できるなんて。なんだかテスが娘ではなくて、敵に見えてきました。旦那に逃げられて女手一つでテスを育てた私と違って、彼女は幸せな結婚をするのかと思うと腹立たしくてたまりません。先生、わたしは悪い母親なのでしょうか?

この患者さんは別にDIDの症状は持っていない。しかしこのようなことが起きる。これも一種の人格のようなものではないだろうか?そしてそれなら回覧板を携えて畦道を歩いていた私も「もう一人の私」として心に棲んでいるということにはならないだろうか?