2015年1月19日月曜日

ユルイ(8)

「弱い解離」と「強い解離」??
このように考えると、解離にはどうやら二種類のものを想定した様がよさそうだ、という発想になる。本書でも出てくるが、いわゆる「解離性障害」で言う解離。これを「強い解離」と呼ぼう。この解離は、それこそそれを受け持っている人格状態自体が変わり、元の人格は後ろで遠くから眺めているような感じであったり、あるいは寝てしまってその間の記憶がなかったりする。
 そしてもうひとつは誰でも起きているような解離。上の患者さんに起きているような解離だ。こちらは「弱い解離」。こちらのほうはひとつのことにとらわれている状態で、他の考えが浮かんでこない状態。精神分析でいう「スプリッティング」に似ている。「あなたなんか大嫌い!」といっている時に、相手とはもう永遠にさよならをしたいと本気で思っている。「もう二度と会いません!」と本気で宣言したりする。要するに普通の子心の状態では浮かぶようなもうひとつの考え、つまり「でもこれまでの縁もあるし、相手にもそれなりにいいところがあるし・・・。実際にこれでさよならなんて、アリエナイ・・・」この部分が心の近くの部分にあるからこそ、私たちは「大嫌い!」という気持ちを本気の本気では言わないのである。しかしときどき私たちは「魔がさして」しまうことがあり、本気でそのときの気持ちに乗ってしまうのである。(これをアクティングアウト、と呼ぶ。)
 この「強い解離」と「弱い解離」という分類は私が適当に言い出したことと言うとそうでもない。実は精神分析的な解離の議論が最近高まっている。そしてその論者の筆頭であるドンネル・スターンが最近日本で翻訳が出版された「精神分析における解離とエナクトメント-対人関係精神分析の核心」という著書で導入している分類である。
精神分析における解離の議論

ということでこの前置きでもうひとつ触れなくてはならない問題がある。それは最近精神分析の世界で解離の議論が高まってきたということである。私がこれまで論じてきたとおり、精神分析と解離とは水と油の関係であった。ジャネとフロイトの確執、ライバル関係ということでも説明したとおりである。ところがこれも実にアメリカ的、という気がするのであるが、精神分析の世界でもいつの間にか、ごく当たり前のようにして解離の議論が始まっている。「精神分析で解離ですか?」と効けばおそらく「そんなの、当たり前じゃないですか?」といわれそうな雰囲気だ。確かに解離はトラウマの文脈で論じられる。そしてトラウマの議論は、それが精神分析の患者さんであろうとなかろうと、頻繁に話題にされるテーマである。それならば精神分析で解離の議論が生じないほうがおかしいということになるが、それが一気にエナクトメントという議論と結び付けられる形で議論されるようになってきている。
 しかし精神分析で論じられる解離とDIDや解離性遁走のような「解離性障害」において論じられる解離とは幾分、というよりかなり違っているのが現状である。それはそうだろう。精神分析家たちが日常的にDIDの患者さんに出会っているということは想像しにくいからだ。