2014年11月29日土曜日

発達障害と心理療法 (6)


なぜ学生カウンセラーではうまくいかないのか?

私が体験したことは、ある意味ではかなりコントロールされた実験状況に近かったことがわかる。私はある病院の外来にいらした方を初診した後、カウンセリングが必要と考えられるケースについて、その事情を説明し、同意を得たうえで学生ガウンセラーに紹介した。一群の方々(D群としよう)は比較的良好な治療関係を築く事が出来た。ところが別の群(ND群としよう)ではことごとく治療関係が成立しなかった(といっても高々数例であるが)。両者の反応は対照的であった。
(一部略)
 ここで一言述べたいのは、確かに学生カウンセラーによるカウンセリングの機会というのは、非常に微妙だということだ。カウンセラーはおおむね経験不足で戸惑いや自信のなさを醸す。受ける側にも「この人は大丈夫か?」という心もとなさを抱かせるだろう。それもあり「あまり正式ではありません。カウンセラーの卵たちのトレーニングの機会でもあります。だから低料金で行います。」という暗黙の前提がある。またこの種のトレーニング期間は、実は社会が機能するために不可欠であることも確かである。
 いわゆる OJTon-the-job training 実地訓練)は、実はサービスが携わる人間にとって不可欠であり、考えてみればおよそすべての業務に携わる人間が一生OJTを行っており、カスタマーは実験台なのである。その意味ではND群の方々が感じた「利用され」感はある意味ではもっともなことなのである。そしてサービス業を利用する私たちが実際頻繁に感じ取り、体験することでもあり、「あの医者は新米だし藪だから通わない」といい別の腕のいい医者を探すことになったりする。しかし大部分は「あの医者はこんなところはあるが、まあまあ腕は立つようだし、しばらく通ってみよう」という形で折り合いをつけているのだ。そしてその裏にあるのは、「お互い様」の感覚がある。向こうがカスタマーを通して体験から学ぼうとしているように、こちらもなるべく低料金でいいサービスを受けようとしている。その意味ではどれだけ相手を利用するかということを考えている。
 そのような功利的な関係性の一方で私たちが曲がりなりにも社会生活を表面上は和気藹々と営めるのはなぜだろうか。それはお互いに相手の為を思い、自分を犠牲にしているというファンタジーを醸成し合っているからであり、それがいわば功利的な関係性の表面をまとうことでその醜さや恐ろしさを覆い隠しているからだろう。すると人によっては
このファンタジーを形成する能力が欠けているのだろうか?
 お互いに利用し、利用される感覚は、自分が相手を利用しているという感覚と、自分が相手に利用されているという感覚の療法が存在し、バランスを取り合っている感覚である。そのうちどちらが極端に勝っても、一方的に利用されることによる被害感や、一方的に利用していることへの後ろめたさが生じることになる。すると自分もしっかり利用しつつ、利用され感しか味わわないという問題には、「自分が相手を利用している」感の欠如がある。それはどこから来るのだろうか?