2014年11月27日木曜日

自己愛と恥について 推敲の推敲(2)

 以上示したように、私は恥を「対人場面における恥の感じやすさ」と「自己の存在やその主張を認められたいという願望」との緊張関係の中で捉える。それはいわば恥と自己愛の二次元モデルとでも言える。人には必ずしも自己顕示的で積極的な行動に出なくても、人から自分の存在を認められたいという、ごく自然な願望を持つ。これは発達早期に母親に自分の姿を捉えて欲しい子供の姿を見ればわかる。私たちは成人した後にも、このような願望を対人場面では常に持っているといってよい。そのあり方はきわめて流動的であり、状況依存的である。私たちは日常場面で常に正当な相手から正当に認められることを期待するものだ。そしてその期待値を上回った際には自己愛的な喜びを感じ、下回った場合には恥辱の体験となる。
 たとえば職場で自分より目上の人とすれ違ったときにぞんざいな挨拶しかされなくても、あなたは特に傷つくことはないかもしれない。ところがすぐ次の瞬間にすれ違った部下の頭の下げ方が小さかっただけであなたは激怒するかもしれないのだ。このように流動的な自己の存在やその主張を認められたいという願望」をすべての人が持つものとしてとらえることは、私が先に用いた「自己愛者」ないしは自己愛的な人間を画一的に想定し、恥はそれらの人たちに特異的な体験や病理である、という考え方よりはより現実的であろう。

「自己愛アフォーダンス」とそのミスマッチング

ここでとっぴな用語が飛び出してしまうことをお許し戴きたい。「自己愛アフォーダンス」とは私の造語である。
 そもそもアフォーダンスとは、「動物と物の間に存在する行為についての関係性そのもの」(ギブソン)である。よく用いられる「引き手のついたタンス」の例について考えるのであれば、「""はそのタンスについて引いて開けるという行為が可能である」、という関係が成立していることになり、「このタンスと私には引いて開けるというアフォーダンスが存在する」あるいは「このタンスが引いて開けるという行為をアフォードする」と表現することになる。
自己愛アフォーダンスとは、ある状況で、ある人に対面をして、自分が認知され、敬意を表される度合いとして、その個人により各瞬間に推し量られる。ある人気アイドルが、実に巧みな変装をして雑踏に入る。当然誰も騒がないが、アイドル自身にとってのその際の自己愛アフォーダンスは無いに等しいから、無視されても不思議に思わない。しかし颯爽とマスクを外し変装を解いた時に、誰も振り返ってくれないとしたら、かなり自己愛が傷つくはずである。
このように自己愛アフォーダンスなるものを考えた場合、私たちの日常は実際の体験と自己愛アフォーダンスの齟齬により常に自己愛的な体験を味わっていることになる。自己愛アフォーダンスとして自分が想定した量より多くの注目や認知を受けた場合には、自己愛的な満足を味わい、場合によっては有頂天になるかもしれない。売れない芸人の一発芸が突然注目を浴びるようになったり、無名の作家が有名な賞の受賞候補に挙がったりしたような場合である。他方ではそれまでは一世を風靡していた「歌姫」が突然CDの売れ行き不振にあえぐ様な体験。それまでは元首相である父親の選挙区を受け継いで順調に政治家の道を歩んでいたはずなのに、突然政治資金問題で槍玉に挙げられ、家宅捜索を受ける女性政治家の例を考えればいいだろう。
ここで特に自己愛アフォーダンスとしての想定量を下回る満足しか得られなかった場合の反応を考えよう。実はそこで何が起きるかがもっとも問われるのであり、なぜなら自己愛の問題が「主として周囲に大きな迷惑や災厄を及ぼす」からである。その一つは恥の体験であり、それは抑うつや引きこもりという反応を生むかもしれない。「穴があったら入りたい」という表現のように、人から認められなかったり、汚名を浴びせられた際の私たちの反応は世間に背を向け、一切人と関わりたくないという反応である。しかしそこにはもう一つの反応がある。それは激しい怒りであり、「恥をかかされた」と感じた相手への攻撃である。
この発想が、コフートの「自己愛憤怒」から来たことはお分かりであろう。彼は自己愛が傷つけられると人は怒りを体験するといった。これは深い洞察である。彼らは恥じる代わりに怒るのだ。ただしここでそこに仮想的な恥の項目を入れることもできるかもしれない。
自己愛アフォーダンスのマイナス方向の齟齬が、かかわりを持った対象への怒りを直接生むのではなくて、その前のほんの一瞬だけでも人は激しい恥を体験して、それへの反応として「この俺のメンツをつぶしたな!!」と激しく怒るのである。

恥と自己愛トラウマ
大体以上で、私の近著である「恥と自己愛トラウマ」の趣旨は説明できたかもしれない。私のこの著書は、自己表現の願望が高まった人間が恥の体験と葛藤を起こすような人々についての考察である。この世の中で厄介なのは、自己愛的な人が、他者からの諫めや助言を「恥をかかせる体験」と認識して、烈火のごとく怒り、周囲に様々な災厄をもたらす。それがこの世における最大の不幸の一つであるが、この自己愛は、いったんそれをいさめる人がいなくなると、ほぼ自動的に膨張し、暴走 free run してしまうのだ、という主張である。

私が特に「自己愛トラウマ」という造語に加え、この本に「あいまいな加害者」という副題を付けたのは、この自己愛に対する傷つけを起こすような体験、すなわち「自己愛トラウマ」が実は極めて厄介な問題を抱えていることを主張したかったからだ。ここでその論旨を再びたどるならば、何が自己愛の傷つきとして体験されるかは、きわめて予想しがたく、個人差が大きいという問題がそこにある。私はそれを、たとえばアスペルガー障害における不当なまでのプライド他人への期待値の高さと被害的な傾向に関して論じた。
 たとえば「浅草通り魔事件」では、犯人は女性を追いかけて声をかけたところ、驚いた顔をされたのでカッとなったという。秋葉原事件で、KTはケータイの掲示板への自分の書き込みに誰も返答してくれなかったことで自暴自棄になった。これらも広義の自己愛の傷つきによる憤怒と考えられるが、このような反応の大半は周囲の人間には予想がつかない。その原因の一つはアスペルガー障害における思考を通常の社会通念からは追うことが難しいということがあげられよう。
ただし上述したようなフリーランした状態での自己愛を抱える人にとっては、ほんの些細なことでも彼らの傷つけるほどに、自己愛が肥大している可能性がある。ある大学病院のとある科の医局長は、外出先を示すマグネットをつけるボードを見て、自分のマグネットが一番上になかったことに激怒したという。これは極端にしても、複数の人に出すメールで、自分の名前がしかるべき順番に書かれていなかったことに痛く傷つくということは私たちの中でも起きうるだろう。
 これらの身勝手な、予想つかない形での自己愛の傷付きも、やはり自己愛トラウマと呼ぶべきであろうと考えるのは、彼らの傷つきは極めて深刻で、それに対する怒りの反応も深刻なものとなりかねないからだ。つまり彼らにとって傷付きであることは確かなのだ。しかしそのトラウマは、いわば加害者不在なのである。敢えて言えば彼らの肥大した、あるいは予測不可能なプライドが原因なのである。加害者不在のトラウマ。まるで自然災害のようなものだ。否、自然災害では少なくとも台風や津波などの現象がそこに明白に存在することになる。ただそこに人為性が欠如しているだけである。しかし自己愛トラウマの場合には、当人がなぜ傷ついたのかを周囲が理解不可能であることも少なくないのである。