2014年10月26日日曜日

自己開示 推敲(1)


自己愛の観点から見た治療者の自己開示
私にとって自己開示の問題は、精神分析に興味を持ち、論文を発表し始めた最初の頃から常に重要なテーマとして頭にあった。匿名性の原則を有する精神分析は、治療者が多くの抑制をしつつ行う治療である。それは通常の日常会話と大きく異なるばかりか、一般的な心理療法とも異なるといっていい。分析的な臨床家は常に、自分をいかに隠すのか、どのようなときに匿名性の原則を破るのかについて常に考えをめぐらせることになるだろう。
治療者が持ち続ける問題意識はそれにはとどまらない。そもそも匿名性の原則は妥当なものなのか。それを遵守している自分は患者にとってベストな治療を施していることになるのだろうか、など様々な疑問を思い浮かべても不思議ではない。
以上のようなことを思いつつ、私はこの自己開示の問題を考えてきたわけだが、最近かなり異なる発想を持つようにもなってきた。それは治療者が私の予想を超えて、自己開示を行っているらしいという現状であった。治療者が匿名性の原則を守りすぎるのはいかがなものか、と考えていた私が、「しゃべりすぎる治療者をどのようにたしなめたらいいのだろうか?」という問題も重要であることに気が付いたのである。そしてそれがどうやら治療者の側の持っている自己愛や自己顕示欲の問題とかなり結びついているらしいと考えるようになった。
本発表の要旨は、自己開示を広くとらえて、そこにどのような種類があり、どのような問題があるかについての見取り図を提供することである。しかしその背景にあるのはこの私の発想である。つまり治療者という人種は、匿名性を守るという方向にも、それを犯すという方向にも走る可能性を持っているのであり、そのことを理解したうえで、この自己開示の問題を捉えなおさなくてはならないという考えである。
以上を前置きにして私の議論に入っていきたい。

治療者の自己開示をめぐる従来の論点
先ず従来の自己開示についての論点について考えたい。まず基本的な点として理解しなくてはならないのは、自己開示はフロイトによれば「暗示」になってしまうということだ。ここでフロイトが解釈以外のあらゆる介入を「暗示」とみなし、それを非治療的なものとみなしたことを思い出していただきたい。彼にとっては、患者の無意識内容に言及する介入、すなわち「解釈」以外は治療的ではなかったのである。それを彼は一括して「暗示suggestion 」としたのであった。
 伝統的な精神分析理論の中での「自己開示」については、それが中立性禁欲原則に抵触するのではないか?という問題もある。もちろん中立性や禁欲原則が具体的に何を意味するかについては、論者により微妙に異なる可能性がある。しかしいずれにせよ「自己開示」はそれらの原則が示す方向性とは異なる介入であるとみなされることは確かであろう。治療者が自分の考えを伝えることは、その中立的な在り方を損なう可能性はあるであろうし、治療者のことをさらに知りたいという患者の願望を満たしてしまうという意味では禁欲原則にも反するということになる。
更には自己開示が転移自由な発展を抑制してしまうのではないかという懸念も唱えられてきた精神分析には、患者は治療者のことを知らないほどさまざまな想像力を膨らませると考える。例えば治療者の出身地が分からないことで、どこの出身である治療者も想像できることになる。しかしA県出身であることが分かったとしたら、A県出身以外の治療者しか想像できないということになるわけである。
この理屈は本当によく聞くのだが、たとえば次のような例と似ているのではないか。映画やビデオや漫画などは、人の想像力を制限してしまう。ラジオや活字で読む本は、映像がない分だけ人の想像力をかきたて、育てるのだ。だから活字の方が私たちにとって有益なのだ・・・・。このロジックに誤りはないにしても、どうして私たちは時々映像に強いインパクトを感じるのだろうか。読書によりインパクトを受けることもあり、映画に影響を受けることもある。それでいいのではないか。つまり映像は映像で、それが視聴者の想像力を増強させるという作用を及ぼすこともあるのである。


転移の話に戻ると、A県出身であることがわかることで、急に治療者に関するイマジネーションが膨らむこともある。「北海道出身」と聞くことで、北海道に関する様々なイメージが浮かび、それと治療者を結びつけるということがあるだろう。これは何県出身かもわからない段階では生じないことだ。漠然とした情報では、私たちは想像を膨らますことが逆にできないのだ。このように自己開示は転移を促進される場合もあるのである。