2014年10月24日金曜日

治療と創造性について

なぜか、なぜか、治療場面における創造性というテーマで考えてみたくなった。
そもそも私たちは毎日夢という形で創造活動をしているということを思い起こさせてくれる。無意識のレベルでは、私たちは常に創造的な存在なのである。そして治療場面もまた創造的な空間でありうる。そこでの移行空間の提供ということが、その創造性を保障するという意味を持っているのであろう。移行空間とはおそらく治療者と患者が互いの創造性や自由度を許容することで広がっていくのであろう。アリスとの治療で最初に生じていたのは、アリスが治療者の側の創造性を極端に押さえ込んで、自由な言葉の選択を治療者に許さなかったことではないだろうか。
 ここからは私の自由連想であるが、私は治療者の創造性ということは、患者が創造性の発揮に重要な役割を持つであろうと考える。両者の創造性が相乗効果を生むのであろう。ただしひとつ注意しなくてはならないのは、おそらく治療者の創造性は、それが患者のそれに先立って発揮された場合には、患者のそれを置き去りにしたり、それを閉塞状況においたりするのではないかということである。おそらく治療者の創造性は、それが静かに発揮されなくてはならないし、それは例えば臨床的な論文を書くという形で発揮されなくてはならないのであろう。
 私は基本的に精神分析はさまざまな思考をつなげる作業だと考えている。過去の出来事と現在の出来事。仕事場での出来事と治療中に起きたこと。それらの間の結びつきを創造していくのが治療なのであろう。そう考えると、精神分析的な治療そのものがクリエーティブな作業といえるのではないかと思う。
 創造とはまったく何もないところから新たなものを作り上げるのではなく、これまでにできているもの同志に新たな結びつきを与えることである。つまり創造物とは、古いもの、繰り返されるものと新奇なものが程よい割合で表現されていることであろうと思う。脳の特定の部位、海馬と呼ばれる器官は、日中に生じた様々な記憶の断片をつなぎ変え、再構成する場であるとされる。その中でその人の審美性や好奇心に訴える内容を持った組み合わせが、創造物として成立するのではないか。


最後に庭の創造性について先生は言及された。何が創造的な作品かは、おそらく見る人によって違うであろう。西洋人にとっての日本の庭園は斬新なものかもしれない。それはこれまでの庭園という概念を変えるような新規さを持っているかもしれない。しかし日本人にとってはある意味では心のふるさとに通じるような、いろいろなところで見たことのあるような、懐かしい景色でもある。おそらく西洋の人が持つ庭園のイメージに日本の庭園の斬新さを加えた庭園ができることで、さらに創造的な庭が構築されるのではないかともう。