2014年10月28日火曜日

自己開示 推敲 (3)

「自己開示」の定義
さて遅ればせながら、自己開示の定義である。以下のようにそれを示す。
「自己開示とは,治療状況において治療者自身の感情や個人的な情報などが患者に伝えられるという現象をさす。」「自己開示はそれが自然に起きてしまう場合と、治療者により意図して行われる場合がある。(精神分析事典、岩崎学術出版社)
 これは私の考えであるが、精神分析事典のこの項目を書いたのは私なので、この路線でお話を進めさせていただきたい。

「広義の自己開示」の分類としては、以上の者を考え、これをいかの二つに分ける。それらは A意図的に行われる自己開示  (「狭義の自己開示」)
  B 不可避的に(自然に)生じる自 己開示 である。

そしてA意図的な自己開示の分類をさらに二つに分ける。
A 1 患者からの問いかけに応じた自己開示
A 2 治療者が自発的に行った自己開示

さらに不可避的に生じる自己開示については
B 治療者に意識化された自己開示
B 2  意識化されない自己開示
の二つに分類することが出来るだろう。
これらの分類の意味にはどのようなものがあるのだろうか。私の立場は以下のとおりである。これらの4つに分けた広義の自己開示については、それぞれに治療的な意義とデメリットがある。それぞれを勘案しながら、その自己開示を用いるかどうかを決めるべきであろう。そしてその前提にあるのは、そもそも自己開示が治療的か非治療的かは状況次第である、ということである。
以下にこれらの個々の項目について説明したい。

A1の治療的、非治療的な要素
A1 治療的な要素:治療者が普通の人間であるという認識が患者に生まれ、過度の理想化を抑制する。治療者が治療原則から離れて自分自身を開示したことへの感謝の念が生まれる。治療者の行動や考え方のモデリングが可能となる。治療者からの情報提供を得ることができ、それを用いることができる。
A1の非治療的な要素:患者の要求を満たすことによる退行や過度の期待を誘発しかねない。治療者のことを知りたくないという患者の欲求が無視される可能性がある。更には治療者の「自分のようにせよ」というメッセージとして患者に受け取られかねない。

A2の治療的、非治療的な要素
A2の治療的要素:A1のそれと同様と考えられる
A2の非治療的要素:治療者の自己愛的な自己表現の発露となりかねないこと。患者の自己表現の機会がそれだけ奪われること。治療者のことを知りたくないという患者の欲求が無視される可能性(A1の非治療的な要素と同様)。更には治療者の「自分のようにせよ」というメッセージとして患者に受け取られかねないこと。(自発的な開示のために、A1の非治療的な要素よりも深刻となる)

ここでAに関する簡単な臨床例を挙げておこう。
A1の例
患者:先生はご自身の教育分析の際に、セッションに遅れることはありましたか?
治療者:私自身の体験についてのご質問ですね。はい、私は分析家に失礼にあたるので、決して遅刻したことはありませんでした。
(この伝え方では、治療者から患者への「私との分析の時間に遅れることは失礼ですよ」というメッセージになりかねない。)

A2の例
治療者:(特に患者から質問を受けたというわけではなく)ちなみに私は自分の分析セッションには決して遅れませんでした。遅刻することは私の分析家に対して失礼だからです。

 (この場合、治療者が特に問われることなくこの自己開示を行ったことで、「あなたも遅刻してはいけませんよ」という警告としてのニュアンスを一層強くする可能性がある。)

Bの治療的、非治療的な要素
B1の治療的要素;治療者が防衛的にならずに、自分に関する事情をことごとく治療室から消し去るような態度ではないことが、患者に安心感を与える。
B1の非治療的要素;治療者のことを知りたくないという患者の願望を満たせない可能性がある。
治療空間は過度に露出的な環境であることは治療的ではないが、治療空間が「無菌的」である必要もない。治療者が節度を持ち、かつ柔軟性を維持することが大切であろう。
Bに治療的、非治療的ということを考えることは本来適当でない。Bは結局は自然に起きてしまうことであるからだ。治療者はBが患者に与えたであろう影響について、率直に話す事が出来る環境を作ることが大事であろう。