2014年10月29日水曜日

すべてのシステムを巻き込んだ精神療法の方法論の構築 (1) 「自己愛と恥について」 (1)

解離に戻りたいのであるが、オトナの事情が続いてしまっている。二つ,いや三つ書かなくてはならない。

すべてのシステムを巻き込んだ精神療法の方法論の構築 (1)

 ある心理士さんの話を伝え聞いた。彼の職場は、一人の精神科医と複数の心理療法士を抱えたクリニックである。「私の職場では、誰も認知療法をやれる人がいないので、誰かその勉強をしてくれないか」その心理士さんは分析的なオリエンテーションを持っていたので、スーパーバイザーにお伺いを立てたが、あまりいい顔をしないので困ってしまったという。 おそらく日本の精神療法の世界では、このようなことはいたるところで起きているのかもしれない。
 もう一つは精神医学の世界で起きていること。精神療法や精神分析に関心を示す精神科のレジデントが急速に減っている。はるか30年前、私が新人だった頃には、精神科を志す人は哲学とか心理学、精神分析に興味を持つ人たちが多かった。私にはこの現象が、30年前が異常だったのか、現在が異常なのかのどちらを意味しているかが分からない。でも精神科を志す人が特に減ってはいず、彼らの多くは生物学的な精神医学、薬物療法などに関心が移っているのは、時代の流れかとも思う。でも彼らの脳科学への関心も精神療法的な考え方に組み込む必要があるであろう。さもないと精神科において基本である、医師と患者が言葉と心を交わすこと、という普遍的な部分がますますおろそかになってしまうであろう。

「自己愛と恥について」 (1

私に与えられたのは「自己愛と恥について」であるが、これはとてもありがたいテーマである。というのもこれ以外のテーマでは書きようがないと感じるほどに、私にとっては自己愛のテーマと恥とは不可分なのである。
私は最近「恥と自己愛トラウマ」という著書を上梓したが、このタイトルは私が主張したいことを端的に表しているといっていい。ちなみに自己愛トラウマというのは私がひねり出した新語である。自己愛の傷つきが人間の心的なトラウマのかなりの部分を占め、またそれに対する反応は他者への攻撃や辱めである。とすれば自己愛やその傷付きによるトラウマを知ることは人の心を知る上で決定的と言っていい。
 私は最近日曜の夜は軍師官兵衛にチャンネルを合わせることが多いが、天下統一を果たした秀吉(ちなみに竹中直人の好演が見事である)の行動は、まさに自己愛とその傷付きの連続で埋められているといっていい。全国の制覇に向けて秀吉が各地の大名を制圧していくプロセスは、まさに「自己愛的」である。「俺に歯向かうのか。許せぬ。叩き潰せ!」と言って軍隊を遣って地方の不満分子を滅ぼす。そのうち天下を取ると、自己愛は暴走しだす。いみじくも秀吉の妻が言うように、「天下を取ると人が変わる」のである。
では秀吉が朝鮮出兵を決めた、あの途方もないアクティングアウトのように思える行動は、どのように恥と関係しているのであろうか?無関係なのか?番組では淀が生んだ世継ぎがなくなり、悲嘆にくれたが、ある日マニックディフェンスのように朝鮮出兵を言い出したということになっている。
ところで秀吉の朝鮮出兵がどのように彼の自己愛と関連しているかをひとことコメントしようとして調べていくうちに、実は全く深い事情があったらしいことがわかってきた。小名木 善行という方の本に詳しいのだが、結局は当時のアジアをめぐるスペインとの攻防から、日本が明を支配することなしにはスペインの脅威から我が国を守れなかったという事情があったという。これが本当だとすると、軍師官兵衛に描かれている図とかなり違うことになる。彼の朝鮮出兵の意図は、その勝算において誤っていただけであり、彼の自己愛とはあまり関係なかったのか? うーん、分からない、分からない、ということで、ここら辺は全面書き直しだな。