2014年9月23日火曜日

治療者の自己開示(8)

 このネット社会では、患者の側が治療者の情報を集めようと思えば、相当のものが集まるのではないか。その中には当人が特に患者さんのために伝えた覚えのないものも含まれるだろう。その意味では後者は患者さんの努力?によりかなり異なってくることがある。たとえば患者さんが治療者がいつも運転してくる車を知っていて、駐車場に止めてあるその車の窓から内側を覗いたとする。そして歌手××のCDのケースを発見する。「あの先生は××の歌を仕事の行き帰りに聞いている」という治療者に関する情報。これなど、治療者はそのことをひた隠しにしているわけではないとしても、患者に知られることをあまり想定はしていないであろう。だからこの後者の消極的自己開示は、患者の側がどの程度知ることに固執するかによりかなりその範囲が異なることになるだろう。
 書いているうちに、広義の自己開示に第3のカテゴリーを設ける必要が生じた。つまり治療者が意図せず、患者に伝わるもの。これがまたまた分類されることになる。治療者が気が付いているか、無意識的なものか。複雑になったので、分かりやすくしよう。
広義の自己開示 ・・・A積極的な自己開示、
            B
消極的な自己開示
                       B1意識化されているもの
     B2無意識的なもの

これとは別に、AB1,B2を「言語的」「非言語的」と分けることも出来るだろう。
しかしこうやって分類すると、もっと複雑なことを考えなくてはいけないことが分かった。患者の方が曲解している場合はどうか?治療者の指に光るものを見たような気がして「先生は薬指に指輪をしているから、既婚者なのだ」と患者が思った場合、実際には指輪をしていないのであれば、「先生は既婚者である」という「情報」は、通常の意味での治療者からの自己開示とはとても考えないだろう。でもこれは極端な例だとしても、治療者からの自己開示は、さまざまな形で誤解、曲解されて患者に情報として伝わる可能性がある。これを言い出したらきりがないので、ここでの自己開示の議論は、そこに第三者が観察者として介在した場合に、その人にも比較的明白な形で確認されるような内容、と限定しなくてはならないであろう。

ということで上の分類に戻る。するとこのBに関しては、実は常に起きている、と考えていいのではないか。

私たちの個人情報は、私たちが存在するということにおいて常に「染み出し」、漏れ出している。それを防ぐために全身を幕で覆っても、それ自体が情報を出していることになる。「私は自分の情報を伝えまいとしています。」という情報か。