2014年9月28日日曜日

治療者の自己開示(13)  

自己開示の話、まだ続く。しつこいなあ。
さてここ数回は脱線であったが、私が20年以上前に書いた論文に戻る。ざっと読んでみたが、小難しいことが書いてある。結論としては、自己開示も、中世的な感情表現は一種の解釈の意味を持つ、なぜなら患者の心の照り返しのようなことをしているからだ、ということになる。
でもその説明はあいまい。そして次に出てくるのが、自己開示は現実の対象としての治療者を示すことだ!という考え。20年前にこんなことを言っているのだ。勇気がいったな。ということでまず絶対誰も読んでいないので、論文の続きは小さいフォントで。


次に治療者の自己開示の持つ、個々の治療場面における解釈技法としての意義を考える。先ず先述の通り、治療者が自己を表わすことは古典的な技法にとっては例外的であった。そこでフロイトが治療者の自己開示を禁じた根拠に立ち返ってみよう。フロイトが、治療者が自分を語ることが「暗示Suggestion」(他に「示唆」という訳もあるが、ここでは「暗示」と統一しておく。)となることの可能性をあげ、それを自己開示に対する警告の一番の根拠としたことは述べた。そこでそもそも「暗示」とは何だろうか?
フロイトが「暗示」を「患者の無意識を明らかにすることには役に立たないもの」(Freud, 1912a,p118)と説明したことはすでに述べた。しかしその「暗示」について具体的な内容を知るためにフロイトの原著に当たると、実はこの概念の内容が複雑を極め、またフロイトの思考の歴史の中で多くの変遷を遂げたことがわかる。ちなみにグリーンソン(Greenson,1967)の定義に従えばこれは「考えや情動や衝動を、患者の現実的な思考とは独立し、あるいはそれを排除した形で患者の中に導入すること」と要約されている。とすれば、治療者の自己開示にもこの「暗示」に該当する可能性があるものとないものとの双方があることになろう。つまりもし治療者の考えや感情が直接患者に語られ、かつ治療者がそれを患者が無反省に受け入れるべきものとの前提で行なったとしたら、それはまさに「暗示」となる。それが最も顕著となる状況は、治療者の患者への一時的な感情が、治療者本人によって十分反省されていない形で、いわば治療者自身による解釈を経ていない逆転移のままで、つまりは治療者の投影や置きかえ等の防衛機制を介して患者に投げかけられた場合といえる。その場合は治療者は無意識的に、患者がその自己開示の内容をいかなる形であれ受け入れてくれることを先ず欲してしまうのである。
 しかし見方を変えるならば、以上の議論は治療者の自己開示もそのような形で「暗示」となることを警戒しながら用いられた場合は、その積極的な治療技法として用いられる可能性をも示している。その場合は治療者の自己開示は直接的な「暗示」とはならず、患者の無意識への働きかけを伴った解釈となる可能性を持つのである。フロイト(1913)は治療過程をチェスにたとえたが、治療者の自己開示もそれがゲームにおける駒の動かし方に似て全体の流れにおける影響が考慮され、それが行なわれた後に患者の示す反応もある程度は予想出来るのが理想だろう。
 それでは患者の無意識への働きかけを重んじた、解釈としての意義を持つ自己開示の仕方として、何を具体的に考えたらよいだろうか? そしてそれがどの様に患者にとって有益なのだろうか? そこでまず伝えることのできる素材について考える。私は治療的な自己開示として、私自身の個人的な生活に関する情報を伝えることにさほど意味を見出さない。それは余りに具体的過ぎて、治療者に対して患者が本来は自由に持つはずのイマジネーションを大きく制限する恐れがあるからだ。ストリーン(Strean,1988)は治療者が匿名性をかたくなに守ることに警告を発しながらも、次のように述べる。「分析者は自分の情報を伝えることで、患者が自分自身についてのみ知る、という権利を奪い、自分の内的な自己を回復する過程を制限する。」
 臨床例 23で示したように、私が比較的抵抗なく患者に伝えることができたのは、患者にとってはそれが外傷とならないような、より「中性的」な感情であった。ここでこの「中性的」な感情として私が意味するのは、具体的には、治療者の感じた驚き、当惑、緊張、安心等であり、それ以外の強い陰性ないし陽性な感情、つまり患者への強い愛情、性的な興味、あるいは嫌悪感、罪悪感等は除かれる。この「中性的」な感情を自己開示しうるものとしてあげる理由は二つある。その第一は治療者が患者に対して陽性ないし陰性な感情を抱いているとしたら、その一部ないしほとんどが未処理なままの逆転移に由来するからであり、治療的とはならない可能性が高いのである。
 第二には治療者の強い陽性ないし陰性の感情を直接表明することは、患者の治療者への情緒的な態度そのものを現実的に外から規制してしまうことになりかねないからである。たとえば治療者が「あなたに対して怒っています」という陰性の感情を表明したとしよう。それは患者にとっては、治療者から「私を怒らせないでください」と直接的に要求されているにも等しい。その意味ではまさにこの種の介入は「暗示」になってしまうのである。次にこの感情内容を患者に開示するタイミングの問題がある。それらは原則として私が症例において患者CDに対して行なうよう心がけたことだが、それらの感情から距離を取れるようになった時点で、あるいは距離をとれているという確信が持てて、治療者の心に余裕のある場合にのみ伝えるべきものである。強い陽性、陰性の感情を治療者が味わっている最中には、いかに経験を積んだ治療者であろうともその逆転移の虜になっている。その場合、治療者は自分がそのような強い感情に襲われている事態に対して当惑や驚きを表明するとしても、その具体内容まで患者に表すことは避けるべきである。逆説的ではあるが、治療者の感情表現は、その感情が心を通過していった時点で語られなくてはならないのである。
では次に「中性的」な感情を伝えることがどうして解釈となりうるかについて改めて考えてみる。それは解釈を「無意識的な現象を意識的にするもの」(Greenson,1967)と定義するならば、治療者の自己開示はこの役目を果たす可能性があるからだ。つまりそれは患者が前意識の中ですでに自分自身で体験しているものが治療者の心に再現されている可能性がある。いうならば患者は治療者の自己開示を通じて、治療者に体験された自分自身の姿を見ることになる。またその様な目的で用いられた治療者の自己開示は、その内容が依然として治療者の中に生じたものとはいえ、彼のプライバシーの生の表現というニュアンスは薄くなる。臨床例23で私が自分の感情を語りながらも、治療者の隠れ身の原則をおかしたという気がしなかったのはこの理由からだったのである。また臨床例 4で私自身が治療者の自己開示の直後に感じたのもこのことである。
この治療者の心に生じた感情が実は患者の姿の反映であるという視点、そしてそれを患者に伝えることが治療技法として成立しうるという点は、オグデン(1979)が再定式化した投影性同一視の概念にすでに含まれているといえる。それによれば投影性同一視は、それが治療的手投として用いられるためには図式的には3つの過程を路む。第一は患者の内的な対象の一部が投影される。第二には治療者はそれを自分の属性として同一視する。そしてそれに続く第三の過程、すなわち治療者から患者に、投影されたものを修正した形で取り込まれる過程が治療にとって重要とされる。治療者の感情表現による自己開示は、まさにこの第三段階を促進するための貴重な手段となり得るのである。
 以上のべた自己開示の分析技法上の意義が、いわば患者に患者自身を体験させるということなのであれば、次に述べる解釈技法としてのもうひとつの意義は、自己開示を、現実の治療者が備えた側面を患者に積極的に体験させることを意図して用いること、と言うことが出来る。その意味での自己開示は、もはや患者の心の照り返しとしてだけの意味に留まらない。しかしそれが依然として分析技法の範疇に属するのは、それが「暗示」ではなく、むしろ治療者の中立性を積極的に支えるものとして据えられるからである。この視点に立てば治療者の匿名性をかたくなに守った結果展開する転移関係は、患者が有するべき幅広い治療体験の一つの極を形成するに過ぎない。そしてもうひとつの極に位置するのは、治療者を現実の対象として体験することである。
 この治療者の中立性に対する新しい解釈は、近年グリーンバーグ(1986)により提示された。彼は中立性を、患者が分析家を古い対象として見る傾向と、彼を新しい対象として体験する能力の間の至的な緊張関係を確立することと再定義した。そして一般的に言えば、古典的な技法による沈黙と匿名性は分析者を内的な対象世界に留めるのに対して、自己開示は分析者を新しい対象として体験することを促進するとした。グリーンバーグは特に自己開示が必要となる例として、患者の両親が過去に無関心さを持って患者に接したり、感情の表出を控え続けるといった場合をあげる。その場合、治療者が古典的な匿名性を守ることは、患者にとってあらたな外傷となるばかりでむしろ危険なことであるとしている。
 先に示した症例1におけるBがこの事情を示しているといえよう。私が自己を積極的に語ったことに対してBはそれを意外なことに思い、それが私に対する好感に繋がった。その原因のひとつはその私の態度が、彼の抱いていた両親像と多少なりとも異なっていたからであり、私はその分だけBにとって新しい対象となり得たのである。
 グリーンバーにより示されたこの治療者の自己開示についての視点もまた、先に述べた患者にとっての新しい自己の発見という点にも最終的には結びついている。治療者が自己を表わすことが特に効果的な患者では、その両親像により形成された内的対象像はあまり自己を表わさず、感情表現を差し控えたものであり、それに対応した内的自己像も、感情表現を禁止されて情緒的に引きこもったイメージを伴っていることが多いのであろう。しかし患者は過去に両親以外にも様々な対象に出会ってきたはずであるし、その内的な自己像、対象像も潜在的には多彩であるはずである。たとえば彼は、自分の感情を自由で豊かに表現するような人をも体験したことがあるだろうし、そしてその人に向かってより自由に自己表現を行なっている(あるいはそうしたいと考えている)自己をもどこかに内在させている筈である。治療者が自己開示により新しい対象として立ち現れたとしても、それは治療者との関りそのものが患者にとって新しい体験になるというよりは、それが患者の中に眠っていた他者像や自己像を賦活することを助けるのである。またそれでこそこの技法は解釈としての分析的技法たり得るといえよう。
      
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ここで以上の考察をまとめてみたい。まず治療者が自己開示を行なうことが治療関係全体に及ぼす影響について考えた。そこでは治療者が自己開示を極度に控えることが患者の治療に対する抵抗を高める可能性が論じられた。治療者が自己開示をそのはらむ危険性を意識しつつ時宜にかなった形で行なった場合、この治療抵抗を和らげ、作業同盟の形成に寄与する可能怯があろう。
 つぎに解釈的技法としての可能性については、その自己開示があからさまな「暗示」とならないよう、注意深く用いることによりその意義が増す。筆者は特に自分の治療関係の中で体験する感情を、一呼吸おいて自分の中で消化した上で語ることに意義を見出した。しかもその感情はあくまでも「中性的」なものに焦点を絞って伝えた。このような技法の意義は治療者の匿名性や中立性に反するのではなく、むしろそれに乗っ取って、あるいは時にはそれを守るために行なわれると言っていいだろう。そこでの基本的な視点は、これらの注意深い自己開示が結局は患者の自己の姿の照り返しを促進し、鏡としての治療者の在り方にもかなう、ということである。