2014年8月22日金曜日

エナクトメントと解離 推敲 (8)

スターンの葛藤の問い直し

本論文でスターンが問い直している重要な概念に葛藤があげられる。通常私たちが理解している葛藤とは苦しい、出来ればそれを回避したいような心の在り方ないしは運動である。二つの心の間で、どちらをも選択できずに苦しむこと、と私たちはそれを理解する。それは苦しい体験として意識されるが、時には「無意識的葛藤」として存在し、それもまた何らかの苦痛を呼び起こすために、私たちはそれを回避し、自らを防衛しようとする。
 ところがスターンの解離理論からすれば、葛藤よりもさらに苦しい状況があり、それは葛藤が成立しない状況、心の一部が体験として成立していない、解離された状態であるということになる。すると治療目標は葛藤を成立させることとなる。フロイト的に言えば解決するべきものとしての葛藤は、スターンにとっては治療の一つの目標ということになるのだ。
 葛藤の成立のための、解離されているものの取り込みは、治療関係の中で生じる。スターンは言う。
関係性の嵐の中で、分析家の自分自身と患者の自由への願望のために、分析家は時には患者の「助け」を見、理解し、受け入れることができる。サールズによれば、この「助け」は感動的であるのみならず、変容的 mutative である。つまりは分析家が患者を治したいという願望を持つことで、分析は患者が彼を治そう願望を受け入れられるようになる。(p.226
 そしてこのようにして取り込まれた心の部分は、それまでの意識化されていた心の部分をも変える働きがある。ひとはある意味ではそれについても寛容になれるためであるという。

私のこれまでの書き方では、葛藤が成立した際には、それまで解離されていた、エナクトされた、つまりフォーミュレイトされていなかった体験がフォーミュレイトされたというのが唯一の変化である、という印象を与えたかもしれない。しかしエナクトされたあとの体験は、それまで意識的に体験されていたものを新たな文脈に落とし込むという。(中略)私自身のケースでは、私が患者の改善を喜んでいたという体験は、それが自己愛的であったという気づきにより受け入れがたいものとなった。それが一種の症状のように感じられるようになったのだ。そして時間が経ってみると、私のナルシシズムも後ろめたさも、両方が患者の側のエナクトメントの反応として理解されるようになった。

ここで私なりにもう少しわかりやすい例を考えてみる。親が中学3年生の子供に「今日の宿題はやったの?」と尋ねる。いつもの口癖だ。母親として子供のためを思って宿題の確認をしているつもりだ。でもなぜかいい気持ちがしない。他方の聞かれた子供は苛立ちを覚える。「まだやっていないけれど、ちゃんとやるよ。さっき学校から帰ったばかりじゃない。それにしてもお母さん、僕が一体いくつだと思っているの?」母親はそれを聞いて、「やっぱりまだやっていないのね。生意気なこと言うんじゃないの!」と思わず声を荒げるが、その自分の声を聴いてふと思う。「でも中3の息子が宿題をやったかを確認する私って、息子のためを思っているというよりは、自分の不安の為じゃないかしら」。
 母親はこうして初めて「葛藤」を体験する。「息子の為を思う」部分と「自分の不安をやわらげたいという自己中心的な部分」の両方を。しかし最終的にこの母親が自分を受け入れるプロセスを進めると、最終的には次のように考えることになる。「親って、こんなものでしょうね。何しろ初めてのお使いでは隠れて後をついて行ったんだもの。そしてそれは私の不安に駆られたものだとしても、決して無駄な行為ではなかったでしょう。今はそれを少しずつ手放しているところなんだわ。そしてそれをわかった私はいい線言っているんじゃない?」