2014年7月24日木曜日

「恥と自己愛トラウマ」その後(推敲)

 
最終的にこうなった

「恥と自己愛トラウマ」(岩崎学術出版社、2014年)の出版後、「自己愛トラウマ」という表現ないしは概念がこれをきっかけに広まったという話は、残念ながら聞かない。本来あまり一般受けするテーマとは言えないのかもしれないが、私は相変わらず続編の発表の可能性も見据えつつ、このテーマを追い続けている。
本書でも述べたとおり「自己愛トラウマ」とは、自己愛が傷つけられることにより生じる心的なトラウマのことである。発達障害に関連した事件、いじめ、モンスター化現象など、様々な社会的な問題にこの「自己愛トラウマ」が関連しているというのが本書の趣旨である。しかし改めて考え直すと、「自己愛トラウマ」は、トラウマとは言っても、かなり身勝手なそれである場合が多い。本人の自意識が強く、人からバカにされ、脱価値化されることへの恐れが大きいばかりに、普通の人だったら傷つかなくてもいいところで激しく傷ついてしまう。問題はそれが本人にとってはトラウマとして体験されるために、爆発的な反動を生み、それは怒りとなって確実に「あいまいな加害者」達に向かい、彼らはその濡れ衣を着せられてしまうことが多い。実に複雑で厄介な問題を生むのである。
私が本書で十分触れることが出来なかった問題が二つあるので、これを機会に記しておきたい。ひとつは加害者の存在はしばしばあいまいなだけでなく、時には被害者にすらなるということである。
 本書でもふれた「浅草通り魔殺人事件」を考えてみよう。「歩いていた短大生に、後ろから声をかけたらビックリした顔をしたのでカッとなって刺した」というのが犯人の言い分であった。この場合、犯人は確かに私が言う意味での「自己愛トラウマ」を受けたのだろう。そのトラウマを与えたのは短大生であり、犯人はその限りにおいては被害者ということになる。しかしこの事件の最大の犠牲者、被害者はこの短大生であることは言うまでもない。彼女を加害者と呼ぶことなど決してできない話である。
 それでは犯人の体験をトラウマと呼んではいけないのだろうか? 倫理的には「とんでもない、それは身勝手な話だ」ということになろう。しかし心理学的はこれをトラウマと扱うことで見えてくることがある。それは通常の、一般人が体験し、かつ理解可能な「自己愛トラウマ」と同じ種類の、しかし何倍も強烈なインパクトを犯人に与え、それが激しい攻撃性を相手に向けさせたという事実である。この、倫理的な理解とは切り離されたトラウマ理論は、しかし一部の発達障害における心の働き方や、場合によっては反社会的な人々の心の働きにも及ぶ可能性がある。その意味ではこのテーマを扱うことは、何か危険領域に論を進めているような不安を感じさせる作業でもあった。
本書でもう一つ十分に扱えなかったのは、勝手に「自己愛トラウマ」の犠牲者になってしまい、他人に迷惑をかけるような困った人、すなわちおそらく一般的な意味での「自己愛パーソナリティ障害」に該当する人たちについてである。彼らのことをここでは「ナルな人たち」と呼ぶことにしよう。
考えてみると「ナルな人たち」はこの世のいたるところにあふれている。政治家、弁護士、会社社長、医者、大学教授、教師・・・・一般に「先生」と呼ばれるような立場にある人たちの大半は「ナルな人たち」であり、彼らは周囲の言葉遣いや態度に極めて敏感である。年功による序列や身分の違いにうるさい日本社会では、特にそのような人々がはびこっているようである。ところがそれらの若い頃の様子を聞いてみると、案外周囲とは協調性があり、少なくとも目上の人には謙虚で従順ですらあったりする。人は地位や名誉を獲得すると、どうやって「ナルな人たち」に代わっていくのだろうか?彼らの若いころの性格に、ある共通した特徴は見いだせないであろうか? 
ある時自己愛についての講演をしていて、この問題について触れて聴衆の方からの質問に答えているうちに一つのアイデアが浮かんだ。「『ナルな人たち』とは、要するに、『人により態度を変える人たち』のことではないか?」彼らはおそらく幼小児より相手の顔色を伺い、自分より強い立場の人間には従順で時には媚を売り、弱い立場の人間には居丈高に振る舞うという習性を身に付けた人たちなのであろう。あるいはそのような習性を獲得することに甘んじた人、というべきかもしれない。
 思えば
人によって態度を変えるということは、競争社会で生き残るためにはある程度は必要なことではある。社会の中で自らの地位を築くには、強い人に嫌われないことは大切なことだ。自分より弱い立場の人にサービスをしたからといって直接の利得は少ないだろう。とすれば人により態度を変えない人など、そもそも居るのだろうか? そんな人こそ聖人君主であり、めったに出会うことなどできないのではないだろうか?そんな考えすら浮かぶ。
 しかしここで重要なのは、人により態度を変えることには、すでに自己愛の満足が入り込んでいるという点なのである。弱い立場の人に対して居丈高であることには、何らかの心地よさが伴っているはずだからだ。そしてそれは同時に「自己愛トラウマ」とは別種のトラウマを、たとえばパワハラのような形で相手に与えてしまう。すると「ナルな人たち」はやはり病理として理解するべきであろう。すると彼らの予備軍ともいうべき「人により態度を変える」子供たちへの処方箋は何だろうか? 道徳教育なのだろうか? しかしそれを教育する資格のある人を選別することなどできるだろうか・・・・。
 自己愛に関する私の考えはこのように日々続けられ、場合によっては修正され、更新されていく。時には実体験を通して。あるいはクライエントの話を聞きながら。またそのうち本になるかもしれない(売れ行きは別として!)
 おもえば考えをまとめて一冊の本を書くということは気の遠くなる作業である。しかしそれに一定期間付き合うことでさらなるテーマが見えてくることがある。それはおそらく長編作を書き継ぐ作家の心理にも近いのかもしれない。私は長編作家ではないが、私の「書く」作業には一種のライフワークのような性質があるように感じることがある。