2014年7月23日水曜日

トラウマ記憶と解離の治療(推敲)21

しかし、話を聞いてくれる相手から特に「気休め」も得られない場合はどうか?相手は黙って聞いているだけであり、そこから新たな考えは与えられないとしても、それでも人は心の痛みを和らげることがある。ではその場合の記憶の再固定化はどのように成立するのだろうか?これにはいろいろな可能性があるが、その一つは、そのことを話した時に、目の前の人が自分の気持ちに同一化してくれるという体験ではないだろうか?
 トラウマ的な体験をした後、私たちの心は奇妙な状態に置かれることがある。それはそれを恐怖を持って体験した自分が異常であり、自分がされたことは当たり前であるという心境である。あるいはこれを恐ろしいと感じているのは自分ひとりであり、その意味で自分は徹底して孤独である、という心境かもしれない。その場合はおそらく一人で壁に向かってその体験を語ったところで、そこに再固定化が起きるはずはない。ところが目の前に、自分を理解してくれる人が存在し、自分に共感してくれるという体験が生じると、それがミスマッチとなり、記憶を不安定化し、再固定を促す。あるいは、自分は一人ではない、ということだけでもミスマッチを起こし、再固定を促すかもしれない。
 でもどうだろう。自分のトラウマ的な体験を話しても、誰もわかってくれず、自分はその体験に関しては徹底して孤独なのだという気持ちを悪化させるにすぎなかったとしたら。それは再固定をもたらさないか、あるいはよりトラウマが深刻化するという形で再固定を促すかもしれない。
 性的外傷体験を持った人がそれを警察で話すことにより、再外傷体験を生むという場合がある。(いわゆる「セカンドレイプ」という表現もある。)話しても誰も理解してくれない体験は、そのような場合に相当するかもしれない。あるいは私がいつかどこかに書いた、あるプロ棋士の話を思い出していただきたい。その棋士は将棋の試合に負けるとまっすぐ帰って一人で布団をかぶって号泣して乗り切るという。その場合には人に話すことがいい意味での再固定化につながらないという体験を持っているのであろう。その場合「この体験を分かってもらえていないだろうな」あるいは「いい気味と思っているのかもしれないな」と感じることでむしろトラウマが深刻になるということが起きるのであろう。
それでは次のような場合はどうか。ある患者はレストランで店員に失礼な態度をとられたといって憤慨し、便箋に10枚にわたって抗議文を欠いた。それを翌日店長に渡すつもりだったが、書いた後はすっきりして、「もうどうでもよくなってしまった」という。いったい彼女には何が起きたのだろうか?
実はこれはうちの神さんに20年前に起きたことだが、これも記憶の改編の例として考えるべきであろうが、一体脳の中で何が起きているのかは神のみぞ知る、としか言いようがないのではないか?