2014年5月11日日曜日

現代における夢理論(9)

5月6日の夢のシンポジウムで出会った「夢のダーウィニズム」の概念。吾妻先生の発表にあった。そう、思考も夢もダーウィニズムである。頭の中にぱっと浮かんで急激にほかの候補者を押しのけて大きくなった夢の候補、言葉の候補。このダーウィニズムが正常に働いているおかけで、例えば私たちはレストランでメニューを選ぶのにさほど苦労しないのだ。頭の中でサイコロを振る、ということともちょっと似ているな。ロボットはこれができないから常に乱数表に頼らなくてはならないということになるだろう。しかしいったいナンの話だろう?



夢の素材がランダムであるということは、それ自身に奥深い意味を見出すことは、必ずしもできないということだ。例えば私の見る夢の中には昔住んでいた田舎の雰囲気も出てくるし、私が小さい頃の母親も出てくる。家人が出てくることもある。それは私の脳に蓄積されている記憶の中に彼らが登場する頻度がそれだけ多いから、という単純な理由かもしれないし、彼らとの交流がそれだけ情緒的なインパクトが大きかったからかもしれない。また今日の夢なぜ父親が出てこず、私がよく知る患者の顔が浮かんできたかに深い理由などないことが多いのだ。たまたまそれらがピックアップされたのである。しかしそれが極めて入りくんだストーリーラインの中に組み込まれて仕上がってくる。よくぞこんな素材でそこまで、というような緻密さや情緒的な説得力なのだ。そしてそのストーリーラインを作っているのは脳の活動である。その合成の力こそ驚くべきである。
 私が述べたこの視点と、フロイトの精神分析的な視点との違いをおわかりだろうか? フロイトは、夢が無意識的な願望などを極めて上手く包み隠すことに驚いた。そしてそこにいくつかの科学的なメカニズムを考えた。それらが(1) 圧縮の作業、(2) 移動の作業、(3 )戯曲化、(4) 理解可能にするための整理ないしは解釈、と言われるものである。そして最も重要な意味を持つのは、その素材なのである。たとえば患者の夢の中にピストルや葉巻が出てきたら、それは男性の性的な衝動という意味を持つ、などの例がわかりやすいだろう。なぜならそれが抑圧され、夢によって形を変えて表れることがその人の神経症的な病理を表すのであるから。しかし私の立場は、本来は無意識内容というよりはランダム的に与えられた素材を使ってストーリーを紡ぎあげるメカニズムこそが驚くべきであり、たとえ夢がいかに意味深長でも、その素材の持つ意味を追求することには限界があるというものだ。たとえばピストルや葉巻はひょっとしたらそれ以上の意味はない。でもそれが夢の中に織り込まれてストーリーが構築される様が驚くべきなのである。そしてその素材の選ばれ方やストーリーの展開の仕方の根本にはランダム性、カオス的な性質が横たわっているのである。
 ところでこの夢の過程に特徴的なのは、意識の受身的な性質である。私たちは夢に圧倒され、一大スペクタクルを見たような気がする。スクリーンに展開されるストーリーをただ追うだけで精いっぱいの観客の立場なのだ。そしてそれに胸打たれ、その余韻の中におかれる。ただその余韻は長くとも覚醒して5分程度までが限度である。そのうちその圧倒的な印象も、その内容の細部も霞のように消えていくのが普通だからだ。しかしともかくも私たちは夢に対して完全に受け手であり、観客の側に立たされる。それは「いいメロディーが思い浮かんだ」「いいストーリーラインを思いついた」という創造プロセスに多少なりとも見られる能動感が既になくなっている。
 ただし脳の側の自律性ということについてその精巧さを強調した後に言うのも矛盾しているようだが、その「質」については疑問である場合も少なくない。仮に特殊な機材が発明され、30分ほどのレム睡眠の間に体験したストーリーラインを完璧に再構成でき、それを映画に出来たとしよう。それを見た人の評価はきっと散々だろう。夢の話の展開は突拍子もなく、ちぐはぐでナンセンスである。その夢の内容に感動を覚える、というのはそのクオリティーの高さというよりは、それを見る脳が同時に情緒的な反応を起こしやすいという条件下にあるからだと考えられる。だから覚醒した直後はその夢の内容に感動して泣くようなことがあっても、5分ほどしてみると、ケロッとして「オレはなんであんなことに泣いていたんだろう?」ということになる。
 以上のことから一つの結論が得られはしないだろうか?意識による介助のない創造過程は十分な彫琢が得られない可能性があると言うことである。ちょうどどんなに感動的な映画でも、個々のシーンを繋げる編集の作業が欠かせないのと同じように。脳の自動的な課程は糸がランダムな長さで紡ぎ出されるだけであり、それを織って布にしていくのは意識による介入という可能性がある。
心理療法家への教訓
教訓どころか、私は心理士の皆さんによからぬ影響を与えているのかもしれない。夢に必ずしも意味はない、などと言っているからだ。来談者の夢の報告に一心に耳を傾けている臨床家にとっては全くもって失礼な話である。
 ただし私は夢というよりは心の在り方一般についてのランダム性を考えている。来談者の何気ない一言、ふるまいの一つ一つに意味を見出そうという立場を私は取らない。もちろんそれがある程度透けて見える場合には話は別である。そのような一言、ふるまいだってもちろんあり、来談者にそれを見る手助けをすることは、心理療法の醍醐味の一つである。)
 これまでも述べたように、意識的な活動は無意識=ニューラルネットワークの自律性を反映しているというところがある。それに意味が与えられるのは言葉が出てきた後、行動を起こした後というニュアンスがあるのだ。意識がその言葉や行動を、自分が自発的に行ったものと錯覚して、その理由づけ、後付けをする。
ただしここで脳のさいころの転がし方にはやはりパターンとか癖があることも無視できない。おそらく治療の一つの目標は、それを来談者と一緒に探るということかもしれない。そのためには来談者もその行動が自分のもの、という感覚をいったん捨てて、他人事のように考えるとよい。脳の観察を治療者と行うのだ。そしてそれは夢についてもいえるのである。
私が信頼する分析家の一人ドクター・ギャバードDr.Gabbardの最近の精神分析のテクストにも、夢解釈の技法についての言及がある(精神力動的精神療法-基本テキスト 岩崎学術出版社 2012)。それによれば来談者が夢について報告した際に、それに対する最も有用なアプローチは、「その夢について思いつくことを仰ってください」であるということだ。つまり夢そのものに対する来談者の思考について聞くことなく、夢の意味することを知っているかのように語るべきではないというわけである。ただしここに関しては、フォサーギ先生の夢理論に関連してすでに一種の「常識的対応」として論じてある。
以上のことから私が強調したいのは、脳科学的に夢の在り方を考えた場合、少なくともその意味を探ることが来談者の心を深堀りしていく、という単純なものではないということである。夢は脳の自律的な活動の結果であり、その成立過程にはあまりにわからないことが多い。もしかしたらフロイトが考えたように、抑圧された無意識内容が形を変えたものかもしれない。しかしそれにしてはその無意識内容の解釈の方法はあまりにも多く、おそらく治療者の数ほどの解釈が成り立ってしまう。そしてホブソンらの説が正しいのであれば、少なくとも夢の素材そのものはかなり蓋然性があり、偶発的なものらしい。すると素材そのものよりは、それをもとにして出来上がった内容にこそ無意識=脳の神秘がある。そしてその仕組みはほとんどわかっていない。
 だから夢の解釈を試みることは、例えば曲から、作品からその人の無意識を探ろうという試みに似ている。人はそれに関心があるだろうか?むしろ曲を、絵画をそのものとしてとらえ、その価値を見出すだろう。曲にしろ絵画にしろ、作者を離れて皆のものになるというところがある。作品は未知の力がその作者の脳を借りて生まれたというニュアンスがある。それのもとになった作者の無意識を探るということには人はあまり関心を示さないだろう。
 私は来談者の語る夢に意味を見出すべきではないと言っているわけではない。ただし夢はそこに隠された意味を追求するにはあまり適していないと考える。夢は脳が描いた一種の作品であり、むしろそれをどう感じるか、そこから何を連想するかなのである。その意味で夢の扱い方はロールシャッハ的と言えるだろうか?
 ある来談者が、すでに何年か前に亡くなった母親が夢に出てきたと報告する。その夢の中で彼女は母親を罵倒していたという。穏やかな関係にあった母親を罵倒している自分を夢で見て、その来談者は心配していた。「私の中に母親への怒りや憎しみがどこかにあったということでしょうか?」
 そのような夢に対する対応は、次のようにあるべきだろう。「お母さんを罵倒している夢をたまたま見てしまったんですね。その夢がどこから来たかは、あまり気にする必要はないと思いますが、そのような夢を見たあなたの反応はいかがですか?」
 それに対して彼女はこう答えるだろう。「いや、実際に私は母をそんなに責めたことなどなかったし、そうしようと思ったことも思い出せません。」 「それじゃびっくりなさったでしょうね。現実とかけ離れた夢も人は見るものです。でも夢の中であってもお母さんを罵倒したことがそこまで後ろめたいとしたら、それはどういうことでしょうね。だって親子の間の言い合いなんて、普通にありませんか?」
読者はあまりに当り前で表面的なこの対応に失望するかもしれないが、夢の生成過程がほとんどわかっていない以上このくらいの対応しかできないだろう。
 夢は意味がないとあまり強調し過ぎないように、最後に一つコメントを付け加えたい。夢の内容の中には、それがフラッシュバックの色彩を持つものがある。その場合は扱いはおのずと異なってくる。繰り返し夢に訪れる外傷的なシーンは、それ自体が過去に生じたトラウマの反映である可能性があり、その具体的な内容を扱う治療的な必然性があると考えるべきであろう。しかしその場合も、ギャバード先生の示唆の通り、その夢の内容についての来談者の反応を最初に尋ねる必要がある。その夢に対する同様や嫌悪感、恐怖などがその外傷性を間接的に示す場合が少なくないからである。